鴉の心、斯く乱る 弐

 紅緒べにおは父親似である。

 黙っていれば声をかけるのを躊躇ちゅうちょするほどに美しい外見をしているが、彼女は表情が柔らかく常に笑顔を浮かべているし、口数も多い。初対面の者にも臆面おくめんなく堂々と振舞ふるまい、どちらかというと少々れしく人の懐に入り込んでくる部類の人間だ。それに、空気を読んで黙っていることもあるが、思ったことは素直に口に出す性分しょうぶんである。これらの、紅緒を形造かたちづくほがらかできらきらとした要素は、きわめてやんごとなきすじから深彌草ふかみくさ家にとついできた母から譲り受けたものだ。

 一方で、彼女の父は、深彌草ふかみくさ尚季なおときである。真冬の鉄よりなお冷たいとかげで言われている、かの中仰詞ちゅうぎょうしは、実は心に表情がともなっていないうえに寡黙かもくなことがあだとなってそのように言われているだけの良い父親で、紅緒もよくよくしたっている。彼女が、その父から受け継いでいるものは、その整った顔立ちだけのように見える。が、そのじつ、紅緒は内面にこそ父の性質を色濃く受け継いでいる。意図せずか、意図してか、もしくは無表情か、笑顔か、そういった違いがあるだけである。

 さて、そんな紅緒の出自しゅつじなどこれっぽっちも知らない氷雨ひさめであるが、彼女の言動にほんの少しの違和いわを感じていた。やたらと奇矯ききょうな彼女の性格に隠れて、普通ならば気が付かない程度の些細ささい違和いわであるが、なにせ、見れるときは食い入るように紅緒のことを眺めている氷雨である。あきれた日和はるたかかげで「紅緒を視線で凍死させるおつもりですか」とたしなめられる程度には見ているという自負じふがある。その自負が告げるのである。今日の紅緒はおかしいと。

「あぁ、そういえば俺も用事があったのだった」

 ぽん、と手を打った巳珂みかを、紅緒と氷雨は胡乱気うろんげな目で見遣みやった。

 すでに部屋には他に人影はなく、形ばかりの見張り役の司琅しろうも、飲み物をもらってくるとかで席を外している。その中でそんなことを言いだした巳珂みかに、紅緒は用事とは何か問おうとしたが、蛇顔へびがおに笑みを浮かべた身随神みずいじんはすでに背後の壁が透けて見えるほどに消えかかっていたので、驚きとともに制止の声をあげた。

「えっ、待っ」

「すぐに戻るから、待っておいで」

 そう言い残して、巳珂みかは完全に消え去った。

 まさか、ここで待機たいきを命じられることになったその原因にまで、待機を言い渡されるとは。置いてけぼりを食った紅緒はしば呆気あっけにとられていたが、氷雨の視線に気付くと苦笑して肩をすくめた。

「氷雨殿は弟君おとうとぎみと帰らずとも良かったのですか?」

 気を取り直して尋ねたが、三白眼さんぱくがんはこちらを見ているだけで反応はない。最近の氷雨は、言葉を考えるはあれど、表情でも反応するようになっていたのだが、と紅緒は小首こくびかしげつつも笑顔のままで口を開く。

「ああ、そうだ。氷雨殿の身随神みずいじんを初めて見ましたが、しなやかで立派な山猫でしたね」

 依然いぜん、返事はなく、視線が紅緒から外されることもない。紅緒も特に気にした様子を見せず、調子を変えずに話し続ける。

「それに、日和はるたか殿の身随神みずいじん童子どうじ、あの子はどのような力のあるカミなのか、披露ひろうの前に騒動になってしまい残念です」

「…………」

「それにしても最近はとみに冷える。氷雨殿は咳気がいきなどしてはいませぬか?」

「…………」

「そういえば、咳気除がいきよけの香袋こうぶくろがありますよ。薄紅葵うすべにあおい目覚草めざめぐさなどを乾燥させたものが入っていて、すっきりとした香りがします」

「……紅緒」

玉露たまつゆが作ってくれたのですが、喉がおかしいと思ったら中身を出して湯にひたせば薬にもなりますゆえ」

「紅緒」

「んん? 確かここに入れたはずなのですが」

「何か怒っているのか」

 たもとを探っていた紅緒が固まったように動きを止めた。

 一拍いっぱく置いてから、さっと顔を上げる。何の力も込められていない柳眉りゅうびの下、翡翠ひすい色の瞳は見開かれ、笑みを形作っていない唇はわずかに開いたままだ。驚いているとも呆然ぼうぜんとしているともとれる、無防備な表情である。初めて見るその顔が予想外だった氷雨は、少々ひるんだ。自分の発言はあまりにも的外まとはずれだっただろうか。はたまた言ってはいけなかったのだろうか。紅緒はいまだ袖に片手を突っ込んだまま微動びどうだにせず、不安にられた氷雨は徐々じょじょに凶悪極まりない表情を浮かべ始める。三白眼を左右に泳がせた人攫ひとさらいのごと面相めんそうは、しかし、すんでのところで完成しなかった。まばたき一つしないままに、唇だけを動かした紅緒がひとちるように問うてきたからだ。

「なにゆえ、そう、お思いに」

「……少しだが、巳珂みか様に対して口が悪かったと思う。それに、冷静が過ぎる」

 少々、いや、かなり言葉は足りないが、それを聞いた紅緒はゆっくりと眉をひそめて視線を床に落とすと、手をあごにあてて考え込み始めた。しばらくそれを眺めていた氷雨だったが、日和の小言こごとを思い出して、そっと目をらした。

 夕間暮ゆうまぐれに差し掛かろうという時刻である。薄くだいだいの陽光が、はかなく床にわだかまっており、半蔀はじとみ格子こうし模様の影は長く伸びて、紅緒のの花色の袖の端をゆるやかに侵食していく。陽の当たらない部屋の奥などはすでに暗く冷たく沈んでいた。氷雨は静かに立ち上がると、隅にある高灯台たかとうだいかたわらに立った。彼が小さくうたを口ずさむと、灯芯とうしんに火がともり油の燃える匂いがうっすらと立ち上る。小さな灯火は、瀕死の陽光より余程よほど暖かく紅緒の頬を照らした。そこに睫毛まつげが影を落としているのを、また音もなく腰を下ろした氷雨がぼんやり眺めていると、勢いよく紅緒が顔を上げた。

「いや、抜かりました」

 やけにあっけらかんとした口調と表情で言い放った彼女を、氷雨はゆっくりとまばたきして見守る。

「確かに私は怒っております。ずっと何に怒っているのかわからぬままだったのですが、今よくよく考えれば自分に怒っているようです。宇賀地うがち様はああ言ってくださったが、人首ひとくび蠱物まじものの件は私にも少なからず非があったと思うております。しかもあれを前に手も足も出ず、主上しゅしょうを危機にさら為体ていたらく身随神みずいじんの件でも、知らぬことがあったとはいえ、巳珂みかに甘えて迷惑をかけております。挙句あげくの果てに、謌生うたのしょうの皆を巻き込んで、このような状況です。皆、神祖しんそのことなど知らなくてもよかった」

 薄く笑いながら、淡々とそこまで話すと、一度言葉を切った。

 今や色を失いつつある格子こうしの影は紅緒のひじあたりまでい上っており、すっかり闇に馴染なじんでしまうのも時間の問題である。

「……まぁそのようなわけで、氷雨殿のおっしゃるように、自分に腹を立てておりました。いつもはこのようなことはありませぬが、今日は少し立て込んだせいか巳珂みかに当たってしまいました」

 後で謝りましょう、とつぶやいて、紅緒は目を伏せた。部屋を照らす灯火が小さいせいか、その瞳は深い湖沼こしょうのような緑色に沈んで見える。会話の相手とこれほどに目が合わないのは、彼女としては珍しいことだ。氷雨は少し思案しあんしてから口を開いた。

「そういえば、紅緒が怒っているところをあまり見たことが無いように思う。お前は思いを率直そっちょくに言葉にするたちだと思っていたのだが、怒りに関しては何故そのように抑え込むのだ」

 静かな声音でそう問われ、紅緒は床に視線を落としたまま、取りつくろうように乾いた笑いを漏らしたが、すぐにそれを引っ込めて「参りましたな」とこぼす。

「氷雨殿の前ではどんな悪事も隠し立てできる気がしませぬ。ちょっと父に似ているせいか」

「…………」

 正直、父親と重ねられるのは少し、いやかなり異議いぎがあったが、氷雨は我慢して次の言葉を無言でうながした。しばし、もじもじと両手の指を組んだりほどいたりしていた紅緒は、やがて小さく息をついてから話し始めた。

「申し訳ない、勿体もったいぶるような大した話でもないのです。私は幼いころ、容姿や気質のことで嫌な目にうて参りました。当時は子どもながらに不条理を感じて怒りもしましたし、逆に大人しくしてみたり、心の内を隠したりもしてみました。その時のことは、いまだにときどき思い出しては無駄に気持ちが仄暗ほのぐらくなることもございます」

 しかし、何も変わることはなかったし、更に状況が悪くなることすらあった。そうやって鬱々うつうつとした子供時代を送っていたとき、處ノ森ところのもりで出会った真っ白な自称蠱物まじものが少し辛辣しんらつな物言いで言ったのだった。そのような人の世のならいは、大人になっても変わることはないと。それから、自分を愛してくれる者もいるはずだと。

「それで思ったのです。それならば自らの思いのままに生きた方がよいと。そして、自分のことを受け入れてくれる場所だけを大切に拾って生きようと。しかし、全てを思うとおりに表に出して生きることが正しいとも思っておりませぬ。故に、怒りだけは押し隠すことが、私が人として生きるためのいましめというか、節度せつどというか……そう決めているのです。が、今日は上手くいかず」

 深く項垂うなだれて一つ長い溜め息を吐いてから、ぱっと顔を上げた時には常のにこにことした紅緒であった。そして、つまらぬ話をしました、と感情の読めない静かな声でびた。

「どうです、根暗ねくらでややこしい奴だとお思いになりませぬか。貴方が思っているような人間ではないでしょう?」

 すでに陽は完全に落ち、ちらちらと揺れる頼りなげな灯火が、目尻で微笑んだ翡翠色の瞳をつやめかしく照らしている。自嘲じちょうするような内容とは裏腹に、妙に挑戦的に口の端を上げた紅緒のその問いに、氷雨はたっぷりと時をとって考えた。そのしばしの沈黙の間、水面下で緊張の糸がきりきりと張り詰めていく。その間も瑠璃紺るりこん色の三白眼は、紅緒かららされることのなく、口角の下がった薄い唇もぴくりとも動かない。以前紅緒が焦がした髪は今ではその痕跡こんせきもなく綺麗に整えられており、硬質なつやをもって両の耳にかけられている。紅緒はそれらを眺めながら、ふと残念に思った。彼のことはとても気に入っていたのだ。できればこのような話はしたくなかった。

 やがて、氷雨はおもむろに口を開いた。

何故なにゆえ巳珂みか様には八つ当たりをする」

「は?」

 予想外な言葉に、盛大に間の抜けた返事をしてから、せわしく瞬きをする。質問に質問を返してくるなんて、彼にしては珍しい。何故なにゆえ、とはどういう意味だろうか。

 首をかしげて答えあぐねている様子の紅緒を見て、氷雨はもう一度ゆっくりと繰り返した。

「怒らないと決めているなら、何故、巳珂様には八つ当たりをする」

「え、それは、私が自らへの怒りを上手く片付けることが出来ぬ未熟者みじゅくものゆえ……。申し訳ない」

「違う」

 氷雨の常より少し強い声に、紅緒はわずかに目をみはった。

「氷雨殿、今、怒っていらっしゃるのです」

 か、と最後の一音を発する前に氷雨が紅緒の袖を引き留めるようにとらえた。実際には紅緒は少しも動いてなどいないのだが、何かをあきらめめかけていた心中 しんちゅうを読まれたような気がして息をんだ。そんな紅緒の驚きを知ってか知らずか、氷雨は極寒の表情で淡々と質問を言い直す。

「俺の問いは、なにゆえがあって、他の者ではなく巳珂様にだけ当たるのか、という意味だ」

 紅緒は様子のおかしい同輩どうはい謌生うたのしょう凝視ぎょうししながら、問いの内容を頭の中で反芻はんすうし、いまだ彼の意図のわからぬままに答える。

「あ、ああ、それは恐らく、巳珂が私のことを愛してくれているからではないかと。おかしな話だと思われるでしょうが、そのように昔、約束したので。幼子おさなごとの無邪気むじゃきな約束を、彼は律義りちぎに守ってくれているのです。だからきっと甘えてしもうたのでしょう」

 情けない、とつぶやこうとした紅緒が口をつぐむのに十分な強さで、袖が引かれた。自嘲じちょうの代わりに小さく驚きの声を上げた紅緒の眼前には、正に仏頂面ぶっちょうづらというに相応ふさわしい、それはそれは憮然ぶぜんとした表情の氷雨の顔があった。はらりと紺青こんじょう額髪ひたいがみ一筋ひとすじ、耳からこぼれて、右の頬をでている。ぽかんと口を開けてそれをただただ眺める紅緒に、氷雨はほんの少しだけ凶相きょうそうやわらげて、んで含めるように言う。

「俺は怒ってはいない。……一応言っておくが、お前を蔑んでいないし、夜道で背後から殺そうとも、捕まえて外国とつくにに売り飛ばそうとも思っていない。ただ」

 いつか聞いたようなことを言ってから言葉を切り、一瞬躊躇ためらうような素振そぶりを見せたが、少々不自然に視線を逸らしながら口を開いた。

嫉妬しっとしている、多分」

 巳珂様に、とぼそりと付け加えて、それきり黙ってしまった氷雨を前に、紅緒もまた唖然あぜんとして言葉が出ない。

 じじ、と灯芯とうしんの燃える音が聞こえるくらいには静まり返っている。

 たっぷり十数えるあいだ固まっていた紅緒は、やっとのことで我に返ると恐る恐る口を開いた。

「氷雨殿、氷雨殿、私が先ほどおたずねしたことは覚えていらっしゃいますか?」

「?」

「いや、ですから、私のことを根暗ねくらでややこしいやつだと」

 紅緒は言いさして、口をつぐんだ。そのまま、眉間にしわを寄せて頭上に疑問符ぎもんふを浮かべている氷雨の凶相きょうそうをまじまじと眺めながら、思案するように片手で口をおおう。翡翠の目はただ氷雨を映しているだけで感情はうかがい知れず、しばし見つめ合っていた氷雨も流石さすがたまれなくなってわずかに身動ぎした。やがて、紅緒は、り気味の目をきゅっと細め、ゆっくりと口に当てていた手を外し、そのまま氷雨の方に差し伸べる。その片頬かたほおには至極しごく嬉し気な笑みが浮かんでいる。

「困った方ですね。どこでそのような口説き方を覚えてきたのですか」

 細い指先がゆっくりと氷雨の乱れた前髪をすくって耳にかけ直していく。ひんやりとした指の腹が耳朶じだの裏をかすめて、肩を揺らしかけた氷雨は、くわ、と目を見開いて耐えた。

「氷雨殿に多くの友が出来ればと思うておりましたが、何やらそれがしゅうなって参りました」

 うっすらと悪い笑みをたたえた目で流し見られて、氷雨は一周回って安堵あんどした。いつもの紅緒である。彼が小さく息を吐いてから口を開こうとした、その時、二人の背後で何者かが大きく息を吸った。

「ねぇえええ、もおぉお、良いかなぁあ? 俺様いるんですけどぉ?」

 黒羽司琅くろばねしろう、二十歳、癖者くせものが多い今年の新人謌生うたのしょうたちが全体的に苦手になり始めてきている、案外常識人な二年目の謌生。右手に陶物すえものはいを三つ、左手に白湯さゆの入った鉄瓶てつびんげ、げんなりとした表情で少し前からここに立ち尽くしている。

 「あ、しろちゃん、お戻りで」と、にこにこしながら手招てまねく紅緒を一睨ひとにらみしてから、やれやれと頭を振って座る彼の耳に、聞き捨てならない台詞せりふが刺さる。

巳珂みか所用しょようで出ておりますが、じきに戻りますゆえ」

「んんん!?」

 お前なんで行かせたんだとか、普通の身随神みずいじん顕現けんげん中に勝手にどっか行けないだろとか、元神祖しんそ所用しょようって何? など、言いたいことがありすぎて口をこいごとく開閉している司琅しろうに、紅緒は笑顔で「じきに、戻りますゆえ」と繰り返した。



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