鴉の心、斯く乱る 参

 足早あしばやというよりも乱暴といった方がしっくりくるような足取りで、高鞍たかくら鴉近あこん帰路きろを急いでいた。沈みゆく陽が真伽羅山まきゃらやま山肌やまはだ一時いっときあざやかな照柿てりがきの色に染めたが、すぐにせてしまい、今はかろうじて足元が見える程度の仄暗ほのぐらさである。早々はやばやと冷えた空気が、鴉近の口許くちもとに薄く白いもやを作る。

 いつ帰れるのかわからなかったため、迎えの車は帰してしまっていたが、それは大した問題ではない。高鞍邸たかくらてい宮城きゅじょうからほど近い場所にあり、人の顔もわからぬほどに真っ暗になるころには帰り着くことができるだろう。

 それよりも彼が今、苛立いらだっている理由は、ある女とその身随神みずいじんにあった。言わずもがな、紅緒と巳珂である。もともと気に入らなかったあのふざけた女は、今日、つい到底とうてい許されないことを仕出しでかした。よりにもよって、禁足地きんそくちに封じられていたいにしえ悪神あくじんを外に出したうえ、自分の身随神みずいじんだなどとのたまったのだ、それだけでも腹にえかねるというのに、やしきに帰れば、父親にその一部始終を報告しなければならないと思うと、一層歩みは荒々しくなる。とにかく一度落ち着かなければ。

 鴉近は、気を静めるために足を止め、肺腑はいふの深くまで、冷たい空気を吸う。

「なぁ、お前」

 すぐ後ろから、聞こえてはいけない声が聞こえた。

 自らの足音よりも近くで聞こえたそれは、ゆったりした声音の単なる呼びかけのはずだが、まるで耳元にやいば切先きっさきてがわれているようで、中途半端に吸った息は肺にとどまったまま体のしんを冷やす。手指は勿論もちろん、あれだけせわしく動かしていた足も、今は凍ったように動かない。

「おい」

 れたような二度目の声に、鴉近は顔を強張こわばらせて、慎重に振り返った。

「そんなに構えずともいい。二、三つまらないことを話すだけだから」

 目を細めて蛇のように薄く笑う白い男が、あたかもずっとそこに立っていたかのようなたたずまいで、薄闇うすやみの中、すぐそばに立っていた。

「……何故なぜ

 鴉近がのどの奥からやっとしぼり出せたのは、それだけだった。が、それを黙殺もくさつした巳珂みかは無造作に鴉近との距離を詰めると、ひたいを突き合わせてその目をのぞき込む。息をんだ鴉近の背を、寒さを無視した嫌な汗が伝う。目を逸らさないことが彼にできる唯一のことであった。

「……あぁ、お前、カカラの」

 じっと、鴉近の濃いすみれ色の瞳の奥を見つめていた巳珂が、冷めた声で呟いた。

 カカラとは伽々羅と書く、高鞍家の古い名である。今では誰もその名で呼ぶことはない。久しく聞いたその名にも鴉近は唇を引き結んだまま、何も応えない。しかし、巳珂は気にした様子もなく、納得がいったという風に鼻でわらって、さっさと身を引いた。

成程なるほどおやが死ぬ思いで封じたものを、まるで犬でも連れてくるように気軽に引っ張り出してこられたのでは怒るのも仕方ない。今回に限り、紅緒に狼藉ろうぜきを働いたことは不問ふもんとしようか」

 鷹揚おうように頷きながら、どこか残念そうな声音が実にわざとらしい。わずかな距離をとることなど元神祖しんそが相手では意味がないとは分かっているが、巳珂が自分から離れたことで、やっと幾分いくぶんか体の力を抜いた鴉近は、低い声で問うた。

「何の用だ」

「だから、つまらない話をしに」

 鴉近の敵意など興味の埒外らちがいであるという顔で、右手の爪をいじっていた巳珂は、不本意だと言わんばかりに、ため息をついて見せた。

「まず、ひとつ。紅緒が言っていたことは本当だからね。今や俺はあのの信仰が無ければ何もできないただの器。だから、そうやって目をとがらせて見張っていても何も起きはしない。お前が怒るのももっともだとは思うが、紅緒を今日みたいに扱わないでやってくれないか」

 あれはあれで傷ついているんだ、と無表情な流し目で見られて、鴉近の足下あしもとで、ざり、と砂が鳴る。辺りはすっかり暗く、自分の体の輪郭りんかくすら覚束おぼつかないないというのに、何故か巳珂の背に流れる髪の毛筋けすじまで見ることが出来る。それは真っ白ないでで立ちのせいではなく、闇が彼にまつわることを避けているかのように、くっきりと浮かび上がっている。当然息が白くなることもなく、人外然じんがいぜんとして立っている。

「それから、ふたつめ。俺のふうじのことだけれど。あの森にある岩の。あれは百年以上前にはもうほこんでしまっていたよ」

 鴉近の端正たんせいな切れ長の目が驚愕きょうがくに見開かれたのを確認して、巳珂は、小さく鼻を鳴らした。やはり気付いていなかったのか、となんとなくがっかりしていることは口に出さなかったが、その表情は一層いっそう退屈そうになる。

「ただ、俺があそこから動く気がなかっただけのこと。つまり、紅緒がふうじをどうこうしたわけじゃない。むしろ、俺があの森を出てきてしまったのは、ほとんどお前たちのしくじりだと思わないか」

「馬鹿な! ふうじがければ気付かないはずがない。年毎としごとしずめのも我々がさわりなく行っている。それが百年以上前からほこんでいたなど……有り得ない」

 咄嗟とっさに強く否定したものの、徐々じょじょに声が低くなる。鴉近自身はまだうたよみにもなっておらず、處ノ森ところのもりの封じをつくろう儀式には関与していない。それでも、一族の誇りをもって有り得ないと言い切った高鞍家の嫡男ちゃくなんを、巳珂は口をへの字にして、じっと眺める。その淡黄たんこうの目には、さげすみというよりも、あきれの色が多分たぶんに含まれている。

「……お前、カミとやらの助けが無ければ飛べないのだろう。大昔に俺を封じた伽々羅カカラの者は、そんなもの無くとも飛んでいたし、謌なんて、こう、山一つ消すくらいの腕前だったのだよ。お前がまだ若輩者じゃくはいものなのはわかるが、今後もそのいきに達するとは思えんのだが。ちりほども。いやしかし、あのせつは、お前のひいひい祖父じいさんにえらく世話になったものだよ、すこぶるね。いや、ひいひいひい祖父さんか?」

 いや、ひいひいひいひい……? などとひとちる巳珂から目を逸らして、違う、と鴉近は絶望した。鴉近は一族で近年まれに見る能力の高さで、身随神みずいじんの力で飛ぶことが出来るのも、彼一人だ。若輩者じゃくはいものだからどうとかいう話ではないはずだ。急に喉の渇きを感じて、ほんの気休めに存在しない固唾かたずんだ。

 鴉近が固まったまま何も言わないので、巳珂は髪をいじりながら心底興味なさそうな声音で続ける。

「封じが解けても気づかぬほどに、お前たちの力が弱くなりすぎたのではないか? 俺は知らないが。まぁ、とにかく俺が紅緒と出会ったときにはすでにふうじは解けていたし、あのの罪と言えば俺の興味をいたことぐらいだろうね」

 だからつっかからないでほしいということだろうが、鴉近の頭の中はそれどころではなかった。伽々羅カカラ始祖しそより今の高鞍の人間の力が弱まっているのは周知しゅうちの事実ではあった。血脈けつみゃくに係わることなので婚姻を繰り返せば仕方のないことである。しかし、百年以上も前から、ふうじも維持いじできないほどに、いやふうじが解けたことにも気付けないほどに一族の力が弱まっていたとは。そして、さいたる問題は、今の高鞍家の総員をもってしても、このふざけた男をどうにもできないという事実だ。だがしかし信仰によってしか力を得られないうえ、紅緒の信仰しか受け取ることができないとなると、やはり本人が言うように……。

「それで、今のはどうだろう?」

 急に間近で聞こえた声に、びくりと肩を揺らした鴉近が顔を上げると、すぐ隣で顔をのぞき込んできている巳珂と目が合った。近い。

「……は?」

過保護かほごだろうか」

「…………?」

「だから、あののためにお前にわざわざこんな話をしに来るのは、やりすぎか、いなか」

 真顔で答えを待っている巳珂と目を合わせながら、こめかみに汗が伝うのを感じた。この男、何を言っているのだろう。これは何かのわなか、答えによっては何かされるのか。考えてもわからない。しかし答えないと、それはそれで何をされるか分かったものではない。あまりの意味の分からなさに鴉近は今日一の恐怖を感じていたが、引きる頬を叱咤しったしながら、やっとのことで口を開いた。

いな、なの、では」

 それを聞いた途端とたん、巳珂は胸の前でぱちりと両の手を合わせて、にこりと笑った。

「そうか。話はこれだけだ。ではな」

 言い終わらないうちに、その姿はあっさりとき消えた。鴉近の白い息が消えるよりも早い。

 まるで最初から一人だったかのように、その場に残された鴉近は汗が急激に冷えていくのを感じながらも、暗闇の中しばらく呆然とたたずんでいた。




「埋めた呪物じゅぶつが一つ残っているようだ」

 そう、やつが言うものだから、どこに埋めたものかたずねると、なんと、謌寮うたりょう一角いっかくに埋めたものだという。それを聞いて、胸がすく思いがした。うたよみどもは、常より宮城きゅうじょう内に鬱陶うっとうしいほどに目を光らせているというのに、自らの縄張なわばりに埋まった呪物じゅぶつを見逃すとは笑える。他の呪物がことごとく掘り返されて燃やされたときは、はらわたが煮えくり返る思いをした。謌寮うたりょうの連中も呪い殺してやりたいと奥歯を噛む俺を見て、やつは何故か喜んでいるようだった。本当に気味の悪い奴だ。

 とにかく、残っているという呪物の様子を見たいと思い、つとめのついでに謌寮うたりょうに寄ってみたが、様子がおかしい。うたよみどもが一様に硬い表情で早足に行き交い、外から見ても騒然そうぜんとした空気に包まれている。そこで俺は、ちょうど通りかかった下っ端仲間の使部しぶの男を捕まえて、何かあったのかたずねたが、そいつは、話すのをためらった。口外こうがいにしないように言われるようなことが起こったのだ。しつこく問い詰めて、謌生うたのしょう御前ごぜん講義こうぎがあったこと、そこで皇帝おうていが危険にさらされるようなことが起きたことを、何とか聞き出すことができた。

 俺は察した。自分の埋めた呪物が、主上しゅしょうに害をそうとしたのだと。何故ならあれは、たつとい身分の者の命を奪うようなうたを仕掛けた蠱物まじものだからである。いややつにそう言われてさずけられたものだ。俺は埋めただけ。俺をずっとしいげてきた嫌味で腹の真っ黒な華家かげを、苦しめて亡き者にしてやりたかった。位が高ければ、誰でも良かった。俺に手を差し伸べなかった人間もまた、憎くて仕方がなかったから。

 だが、しかし、皇帝おうていまずい。俺はそこまで大それたことをしたいわけではない。国賊こくぞくになどなりたくない。家を、家族を背負う以上のせきを負いたくない。安全なところから華家を苦しめてただほくそ笑んでいたい。

 内心の動揺どうようを押し隠し、心配する素振りで、口の軽い使部しぶの男に主上しゅしょうの様子を聞くと、傷一つなくご無事であるらしい。それは良かったと大げさに胸をなでおろして見せて、不自然にならない程度に二、三言葉をわしてから、その男とは別れた。

 一人になってから、心からの安堵あんどの息を深く吐いた。あぁ、本当にきもが冷えた。

「何を安心している」

 急にやつの声が頭に響く。初めは驚いたが、今では慣れたものだ。不審ふしんに思われないように、顔には何も出さずに、歩を進めながら胸の内で応える。

 俺は主上しゅしょうしいしたいわけじゃない。

「ほう、では次はどうしたい」

 何もしない。もう何人も病にかかったり死んだりした。今回の件もあるし謌寮うたりょうが騒ぐかもしれにない。しばらくは大人しくしていたい。

「それでは心がにぶるぞ」

 心? 何の話だ。

復讐ふくしゅうしたいというお前の生きた心よ」

 復讐はしたいが、それよりも今は俺のしたことが明るみに出て、とらわれるのが恐ろしい。

「心が鈍れば人は死ぬるぞ」

 何を馬鹿な。

「お前はもう死ぬる」

 ……何を馬鹿な。

「死ぬるぞ。折角せっかく生きていたのに」

 黙れ。やめろ。

「死ぬるぞ」

「うるさい!! 黙れ!!」

 叫んでから、はた、と立ち止まる。気が付けば大路おおじに出ていた。行き交う何人かが足を止め、驚いた顔でこちらを見ていたが、すぐに目を逸らして通り過ぎて行く。口の中で小さく悪態をついてから、少し息を整え、びんのあたりかられた不快な脂汗あぶらあせぬぐう。

 おい、と声に出さずに呼んでみた。

 だがもう、やつの声は聞こえてこなかった。

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