純然たる悪癖の披露 壱

うたとは、魂魄こんぱくをささげるためのものである」

 まるで口慣れた成句せいくを唱えるような平坦な口調には、おごそかさとおどけが半々で同居しており、声の主の為人ひととなりがにじみ出ている。

 微妙な空気の四半刻を乗り越えた謌生うたのしょうたちは今、年の頃三十程とみえる男と向かい合って講義を受けている。

森羅万象しんらばんしょうを操る術はもれなく万事ばんじ、自らの魂魄こんぱくカミに捧げることによって使役しえきが許される。しかし魂魄を口から取り出して、餅のように手でもって千切り取り、はいどうぞと神に差し出すことはできない。魂魄を供物くもつとして差し出すことを可能にするもの、それが謌だ」

 眠そうな垂れ目をゆっくりとまばたかせて、若き謌生たちを見回すこの男、謌寮うたのつかさに勤めるうたよみの一人で、謌博士うたはかせ宇賀地うがちという。のっそりとした大柄な体躯 たいくの持ち主だ。冬眠から覚めたばかりの熊という風情ふぜいである。

「では、大叢おおむら氷雨ひさめ

 すぐ目の前にいる謌生に目を留めて、その名前を呼んだ。

 冷淡さを感じる三白眼の青年が、少し首を傾げて応じる態度を示す。紺青こんじょうの真っ直ぐな前髪がさらりと流れた。

「うたよみとなるために重要な素質は?」

「……謌を詠む才能、魂魄の質、身随神みずいじんとの相性の三つでございます」

 一瞬黙してから静かに発せられた答えに、宇賀地は二、三度頷いて全員を見回した。

「ま、こんなことは知ってるか。知ってるとは思うが、言わんと仕事にならんから言うわ。例えば、十の魂魄のうちの三をして神の力を借り、術を使おうとする。しかし、謌の出来によっては三の魂魄は二しか神に届かず、残りの一は虚空こくうをただよいその辺のに喰われ、徒遣あだづかいとなってしまう」

 宇賀地は最初こそは立って話していたが、やがて難儀なんぎそうに座り込み、胡座あぐらをかいた。若き謌生たちはそれを目で追う。

「つまり、捧げる魂魄を無駄なく全て神に届けるには、上手い謌が不可欠だ。次は、そうだな大叢おおむら日和はるたか

「はい」

 応えたのは梔子くちなし色の髪の、体格の良い青年だ。口角の上がった人懐こい顔をしている。

「お前は、氷雨の弟だったか。上手い謌の条件とは?」

韻律いんりつことば選び、拍子の取り方の全てが使用したい術に対して適切であることです」

「そう、つまり、非常に感覚的なものということであり、正解はなく、これを覚えれば安心という手本などもない。逆に言うと個々の色が出やすく、とにかく自由というわけ」

 うたよみは、そこで一つ息を吐いた。文机ふづくえ片肘かたひじをつき、胡座をかいていた足は、だらしなく投げ出されている。

「うたよみに欠かせない素質の二つ目、魂魄こんぱくの質だが……鴫沼しぎぬま玄梅くろうめ、魂魄について説明を」

 玄梅は表情にわずかに緊張をにじませて返事をした。隣にいる紅緒が、興味深げにその横顔を見ている。

「魂魄はすなわち霊魂をさします。こんを精神力をつかさどようの気とし、はくを肉体的な活力を司るいんの気として人の中に存在しています」

 無言で頷いた宇賀地は、よいしょの掛け声つきで、ついに床に横になった。

 それを見つめる謌生たちの目に困惑が満ちる。講義を行いながら寝転がるのには、何か意味があるのだろうか。

「さて、謌によって術を使うときに神に捧げる魂魄とは、果たしてこんはくのどちらのことか。答えは、どちらでもよい、だ。ただ自分で選ぶことはできない。水の術を使うならば水の神が、火の術を使うならば火の神が、所望しょもうする方から捧げられることになる。当然ながら、魂を捧げて得る術と、魄を捧げて得る術とでは違いが生じるが、まぁそれは今後実際見て確認してくれ。魂魄の説明はここまでにして、魂魄の質とは何かな、えー……と、紅緒」

 わずかな間の後に紅緒の名が呼ばれ、ついにきたか、と玄梅が恐るおそる左隣を見やると、彼女は真剣な顔をして顎に手をやっていた。

「そもそもの魂魄の大きさ、つまり総量と、使った魂魄のふくするのにかかる時間」

 意外にもまともに答えたことに、何故かその場の謌生たち全員がほっと息を吐く。うたよみは「正解」と欠伸あくびを噛み殺しながら言い、今にも微睡まどろまんばかりの半目になっている。

「ちなみに魂魄を使いすぎると精神や肉体に影響が出るが、それはそのうち体験する機会もあるだろうから、詳しくは省く。では、最後は身随神みずいじんの話だな」

 依然寝転がったままの宇賀地は、いっそう緩慢かんまんな動きで瞬きしながら黒目を動かす。その気怠い視線は、未だ発言していない最後の一人にぬろりとえられた。

諸兄 しょけい、そこに澄ました顔して座っているやたらと顔の良い奴が、宿能生すくのうせい高鞍たかくら鴉近あこんだ。鴉近、身随神について説明を」

 濃いすみれ色の瞳の上に意志の強そうな眉を持ち、唇を真っ直ぐに結んだその男は確かに美丈夫であった。眉間に寄ったしわと、軽く上がった顎から、神経質さとわずかに不遜な印象を受ける。もっとも、彼がそのような表情になるのは、目の前の講師役がだらだらと寝そべりながら、この世の神秘について講授していることを思えば、致し方ないことではある。

「身随神とは、うたよみが従える神の類です。うたよみは身随神に対して謌を詠まずして常に魂魄を捧げ続けることができ、それを受けて身随神は、その力をうたよみのほしいままにふるいます。ただし、それには特別な約定やくじょうを結ぶ必要があります。約定を結ぶことができる身随神の能力の高さは、その者の魂魄の質の高さに比例します」

 鴉近は眉一つ動かさずに、よく通る声で答えた。

 それを聞いた宇賀地は、ついにごろりと仰向けになると、大の字になり、そもそもあまりあいていなかった眠たげな目を完全に閉じてしまった。

「ご名答。何だ、お前たち、最初の講義の内容程度のことなんか、よーくご存知とみえる」

 謌生たちはちらちらと目線を交わす。この男、まさかこのまま寝るなどと言い出すのではないだろうな。

「おや、大分時間が余ってしまったな。いや、お前たちが優秀なせいなのだから、気にする必要はないぞ。ここはひとつ、次の講義まで互いに交流でも深めているのがいい。私はこのまま寝る」

 言うが早いが寝息らしき不規則な呼吸を始めたうたよみに、謌生たちはしばし呆気にとられたり、困惑したり、心中で悪態をついたりした。

「うたよみには変わり者が多いというのはどうやら本当らしい」

 面白そうな声音で呟く紅緒に、玄梅が嘆息する。

「貴女も相当ですが」

「玄梅よ。貴女とか其方そなたとか他人行儀であろうが。紅緒と呼べ」

 そんなことが出来ると本当に思っているのかと反論したところで、この姫君には無為むいであることは明白である。彼女の幼少の頃を知る玄梅は、腹をくくった。申し訳ありません、中仰詞ちゅうぎょうし様、私は今から姫君を呼び捨てます、どうかお許しを、お許しを。

「紅緒……何故このようなところに」

「何故か。実はお前にも言わなんだが、幼い頃から、私には謌が詠めたのだ。この度、むを得ん事情があって、まぁ、こうなった」

 大事なところが全くわからない大味な事情説明に、一抹の懐かしさを感じながら、玄梅は眉間を揉んだ。なりは成長なされたが、中身は変わっていらっしゃらない。

「とにかくこれから私はただの“紅緒”ゆえ、そういう感じで頼む」

「……あぁ、はい」

 早くも精神的な疲労を感じて適当な返事をする玄梅に、気分を害した様子もなく、紅緒はきょろきょろと周りを見回している。

 すると、不意に好奇心に満ちた声がかかった。

「ねぇ、あなたは女の子だよね?」

「……おい」

 前方に座している、先ほど宇賀地うがち日和はるたかと呼ばれていた男が振り返ってこちらを見ており、隣の氷雨ひさめと呼ばれていた兄の方が低い声で咎める。

「ああ。確かに私は女性にょしょうではありますが、男として扱っていただいて構いませぬ。それでもまぁ、女のくせにとしゃくさわるでしょうから、それは謝ります。しかし、きっと私には構うだけ体力と精神力の無駄ですので、できれば放って置いてくだされ」

 にこにことそう言い放つさまは、変人以外の何者でもなく、玄梅は両手で顔を覆う。

 この顔ぶれの中では、この大叢おおむら兄弟の家格が一番高いが故に、紅緒は慣れない下手くそな敬語を使っている。いや、真の身分で言えば、紅緒の家格が段違いに高いのだが、何故か紅緒は下級貴族の子としてここに来ている様子なので、玄梅はそっとしておいた。因みに家格の順位は大叢家、高鞍たかくら家、鴫沼しぎぬま家となっている。玄梅が指の隙間から横目で確認すると、だがもしかして、仲良うしてくださるのなら是非お願いしたい、などと今更もじもじしている紅緒が見えた。そんな彼女を、日和は目をみはって眺め、氷雨は無視を決め込んだのか、無表情で前に向き直った。

 何故か玄梅一人だけが気まずいしばしの沈黙のあと、日和は噴き出した。

「あはは、変なの」

「変なの?! 変なのですと?!」

 そしてまた何故か玄梅一人だけがいきどおって立ち上がる。自らの人見知りも忘れているようだ。

「友にはなれぬでしょうか?」

 非常に残念そうな様子の紅緒に、日和は名の通り陽だまりのような笑顔を向けた。

「いや、面白い。紅緒殿、とりあえずお知り合いからよろしく」

「見ろ、玄梅、私についに友柄ともがら候補ができた。あ? 何を棒立ちになっているのだ? あまり騒ぐとうたよみ殿が起きるぞ」

「……はい」

 上機嫌な紅緒を前に、静かに脱力して座り込んだ玄梅は、これからの心労を思って頭を抱えるのだった。




 彼女には、悪癖あくへきがある。

 本人は無意識なのだから、輪をかけてたちが悪い。

 自分には到底手に負えないと、その悪癖を止めさせることは幼少のみぎりに諦めたのだったと、玄梅は不意に思い出した。そう、目の前で今一人、いや二人、彼女の手に堕ちようとしているその現場を見て、思い出したのだ。

「まぁ、それでは謌生でいらっしゃるの」

「では何か謌を詠んでくださる?」

「美しい女性を前にしては、神に魂魄を捧げるのも惜しいものです。貴女たちへ私の魂を贈る謌を詠んでも?」

「あぁ! その言葉だけでもう御心をいただいた心地ですわ」

「私たちは代わりに何をお返しすれば良いかしら。ただの女では神のように不思議な力をお貸しできませんわ」

「もういただいていますよ。貴女方とこのようにお言葉を交わす時をいただいておりますれば、あとは何も。あぁ、ただ……」

「何? 仰って」

「遠慮なく仰って」

「本日は日が強く照っております。これから、ここで実技の講義なのですが、少し喉が渇いてしまって。我々謌生に何か喉を潤すものをいただければ」

「お任せになって」

「すぐに大炊殿おおいどのからお持ちしますわ」

 品を損なわない程度の最大限の早足でその場を去る二人の女官をにこにこと見送って、紅緒が謌生が集う輪に戻ってくる。

「やったな、玄梅。麦湯むぎゆを持ってきてくれるらしいぞ」

「ええ……またそんな高級飲料を……」

 次の講義は、謌の力量を示す実技であった。

 おもむろに眠りから覚めた宇賀地の先導により、場所を屋外に移した謌生たちは、その場で待機を命じられ、今宇賀地は席を外している。その間に、宮中の女官が通りかかり、その様子を笑顔で眺めているだけという紅緒の無意識の罠にはまった結果がこれだ。

 彼女には、悪気なく人をたらしこむ悪い癖がある。子供のころはこの癖のせいで、周囲の大体の大人は彼女に籠絡ろうらくされ、その様子を妬む子どもからはいじめにあっていた。彼女のきらびやかな容姿も嫉妬を産む一因ではあったが、変に人をたらしこむこの癖さえ何とかすれば、子らのいじめもまだマシになるのではと玄梅は幼い紅緒に何度も言って聞かせたが、全くもって意味をなさなかった。

 本人は、きょとん、だった。

 そして、一部始終を見ていた他の謌生は、一様に口を開けて紅緒を見ている。

 最初に立ち直ったのは日和であった。

「べ、紅緒殿は女の子なんだよね?」

「しつこいぞ、日和様。私がいくらこんななりをしているとはいえ、つい先程答えたことをもうお忘れになったのか」

「違う、ごめん、違うんだけど、え? ちょっと、えーと……玄梅殿、でしたか」

「あ、は、は、はい?!」

 早くも紅緒の日和に対する敬語が怪しくなってきたことにはらはらしていた玄梅は、急に声をかけられ、生来の人見知りもあって、盛大にどもった。そのうえ、日和の目から微妙に位置を外した顎の辺りを見ている。先程「知り合い」になったのはあくまで紅緒と日和であって、その場にいたとはいえ、自分は含まれていないのだからちょっと距離感が掴めない。そんな少し面倒な性格の玄梅に、日和は困惑した表情で尋ねる。

「紅緒殿と親しいんですよね?」

「はぁ、まぁ親しいというか……」

「彼女はいつもあのような感じなの?」

「あの、はい。他意はないのです。本当に思っていることを口に出しているだけなので……別に最初から飲み物が欲しくてあのように口説いているわけではないのです」

 それはそれでどうなんだよという更に困惑の深まった顔になった日和の横で、氷雨が冷めた視線を紅緒に送っている。

 鴉近に至っては不快そうな表情を露わにし、舌打ちまでした。

「何だあの女は。遊びに来ているのか」

 呟くような悪態は、戻ってきた女官から麦湯を受け取っていた紅緒には届かなかったが、玄梅にははっきりと聞こえていた。

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