姫君の出仕あるいは出陣

 早々に着替えと朝餉あさげを終えた紅緒は、颯爽さっそうと父の待つ部屋へと向かっていた。

 口許くちもとにはうきうきとした笑みを浮かべて、翡翠色の瞳は瑞々みずみずしく輝いている。

 彼女が身に着けているのは、今日のために作らせた、の花色の真新しい真更衣まさごろもである。卯の花色はほんのわずかにあいがかったすっきりとした白色で、地味といえば地味な色目だが、良い生地を使っているだけあってほどよい光沢がみられる。真更衣の下に着こんでいる衣も同じ色で、派手な瞳の色ともして品よくまとまっている。

 卯の花色と呼ばれるこの色は無位むいの色である。つまり、位をさずかっていない者の着る色ということだ。

 位は一位から八位まであり、それぞれに本位もとい随位ずいいが存在し、その中で更に上下の別がある。本位は随位より高位であり、上はもちろん下より高位となる。例えば本五位下もとごいげ随五位上ずいごいじょうより身分が上となる。

 紅緒の家の格からすれば、初出仕の若造であってもそれなりに上位の位をさずかっても不思議ではないのだが、本人のたっての希望で、無位となっている。ちなみに、紅緒の父は随三位ずいさんみ上であり、中仰詞ちゅうぎょうしという高位の役職についている。

 ともあれ、紅緒は今日から役人として謌寮に出仕することになっている。

 役人とはいえ、謌生うたのしょうと呼ばれる学生のような立場であり、謌による呪術を行う『うたよみ』として一人前になるべく、雑務をこなしつつ学ぶことが当面の職務である。

 紅緒は浮き足立つ気持ちを何とか抑えつつ、目当ての部屋にたどり着くと、ひょい、と中をのぞく。端正な居住まいの壮年そうねんの男が一人、紅緒の無作法をとがめるでもなく、ただ無表情にこちらを見ている。きっちりと着込んだ上質な衣の襟元えりもとにも袖元そでもとにも一分の隙も無く、男の視線には静かな厳しさを感じる。それを全く意に介さない紅緒は、意気揚々と男の前に腰を下ろして口を開いた。

「父上、紅緒は本日より、謌生うたのしょうとして謌寮うたのつかさに参ります」

「…………」

 紅緒の父、尚季なおときは無言のまま、しげしげと自らの娘を眺めた。

 真更衣まさごろもを着ている。

 視線を中空にそらして、もう一度見ても、わが娘は真更衣を着ている。よく似合っている。布地から自分で見立てたものらしいが、目の肥えた尚季から見ても、趣味が良いといえる。問題があるとすれば、真更衣は男の衣装だ。ゆえにもちろん、はかまをつけている。しかしそのくせ、今日も娘は冠帽かんぼうの類を一切つけず、無造作に髪を結い上げているだけである。ここ数年、見慣れた我が子の姿であった。

 尚季は小さく嘆息たんそくした。

 どこでどうまかり間違えば、中仰詞ちゅうぎょうしの家の姫が、位的にも性別的にも、卯の花色の真更衣を着ることになるのだろうか。この子が小さいころ、すでに見目が麗しいその様子を見て、いつかは煌々きらきらしいそれは豪奢な百襲装束ももそのしょうぞくを着せて、後宮に送り出すこととなるのだろうと、人知れず涙ぐんだこともあったというのに。今、わずかな水分も自らの目からしたたる気配がないことを、喜んでいいやら悪いやら。

 とはいえ謌寮のうたよみたちは今や、呪術を要する宮中行事だけでなく、まつりごとにおいても欠かすことのできない存在となっている。謌を詠む才能も誰もが持ち得るものではない。これがもし男子であれば、本人が無位むいを望んだことを差し引いても、将来安泰と喜ぶところなのだが。

 実際、紅緒の謌の才は、親の贔屓目ひいきめでなく、優れているように見える。尚季自身は謌の方面がさっぱりであるため、いまいち娘の実力を正確にははかりかねるが、明らかに抜きんでているように思う。

 嗚呼、これが男子であれば。

「父上」

 そもそもこの流れでいくと、自分が孫の顔を見ることができるのは一体いつなのだ。この娘の弟にあたる息子はいるので、跡目あとめについては困ることはないものの、その息子はまだ六つの幼児なのだ。それに、跡目とか関係なく孫の顔は見たい。

「父上」

 見よ、あのように卯の花色の地味な衣などまとって……真更衣は真更衣でも、もっと七位あたりの深緋こきひなどがこの子には似合うというのに。というか何故、男ものの衣を着ているのだ我が娘は。本来ならばその容姿に相応ふさわしい瀟洒しょうしゃで洗練された装束を着せて涙のひとつもこらえながら……。

「父上、そのように同じことを何度も嘆かれても紅緒はもう謌生となりましたゆえ」

 いつの間にか紅緒はかしこまっていた姿勢をくずしてにやにやと父親を見ている。

 紅緒は父親似である。

 尚季は瓜実顔うりざねがおにすっきりと切れ上がった目をした美丈夫びじょうふなのだが、その端正な顔には感情が微塵も浮かびはしない。為人ひととなりが冷たいのでも厳粛げんしゅくなのでもなく、ひたすらに顔にでないだけなのだが、周囲にはもちろんそのようには理解されていない。無論、家族を除いては。

「何故父の心が読める」

「父上の無表情には慣れておりますれば。それに父上ほど心中の声のしかしましい方はそうそういらっしゃらない」

 尚季は小さく咳払いをして、話を変える。

「そなた、呼んだ刻限より遅れたな。今朝はまたやしきを抜け出しておっただろう」

「玉露ほどの優秀な女官ともなると、密告の素早さも一級品ですね」

 にこにこと笑いながら言う娘を、父たしなめる。

「そなたがあかときよりも早くにこそこそと出掛けるのは幼き頃よりのならい。玉露は何も言わぬよ」

 そうでした、などととぼけてから紅緒は再び居ずまいを正した。

「そんなことよりも、父上。私は本日より謌生となり、出仕いたしますゆえ、なにかお言葉を」

 尚季は返事の代わりにわずかにうなった。

 何故なのかわからないが、何か起きるような気がしてならない。

 この娘は、男装したり庶民に身をやつして、よくやしきを抜け出しては、いろいろなものと接してきている。そのため、普段滅多に人前に出ることもない普通の華家かげの姫君よりは、よっぽど世間を知っているので、しっかりした娘だとは両親も認識している。

 だというのに何故か、大事に巻き込まれるような予感がする。

 尚季は心配するあまり、再び思考にのまれそうになったが、きらきらと輝く娘の目をみて、思いとどまった。そのように嬉しそうな顔をされては、親として言うことなど限られている。

 尚季は僅かに息を吐いた。嘆息ではない。本人としては少し笑って見せたつもりだったのだが、口の端はぴくりとも上がっていない。

「そなたならきっと出来る。私の娘なのだから。しかし、女の身で無理はせぬよう、好きなように励むことだ」

 紅緒はふと真顔になると、父上、と膝でにじり寄る。

入内じゅだいのお話、我儘を言って申し訳ありません。父上が思うような門出ではありませんが、私は心から父上と母上に感謝しております」

 父の手に自分の手をかさねながらそう言う娘に、尚季は頷いて、その漆黒の前髪をくように撫でた。

「よい。それに、今生こんじょうの別れのように言うな。勤めが終わればく帰るように。さて、徒歩かちでゆくのであろう。そなたは一番下役したやくの謌生でしかも『卯の花』なのだから。遅れぬように行くがいい」

 にこりと片頬に笑みを浮かべて出て行く紅緒を見送った苦労性の父親は、中仰詞の姫が徒歩で出仕って、誰かにがいされでもしたらどうするのだ、いや、それは普段からひとりで出歩いている時点でもう今更か、いや、しかし……と再び心配に満ちた思考に沈むのであった。




 本日初出仕となる者は、謌生うたのしょうが四人、謌生の中でも特に優れている宿能生すくのうしょうが一人の、計五人である。

 その五人は今、謌寮うたのつかさの一室で、極めて気まずい初顔合わせを迎えていた。

 否、気まずいのは四人だけのようで、ただ一人、泰然たいぜん としている者がいる。卯の花の衣をまとって、にこにこと胡座あぐらをかいてる、美貌の何者かである。

 他の四人は畏まった姿勢で、ちらちらと互いに視線を交わしている。その視線には、この場にいる異分子に対する困惑が多分に含まれている。

 こいつ、女か? 男か?

 女だろう?

 いや、女だとして、なぜこのようなところに?

 衣の色からして無位むい なのだろうが、無位といえば庶民もいるほどの下役したやくであるはずなのに、明らかに貴人あてびとの空気をまとっていて、それがまた異様だ。

 また、この人物が女だとして、華家の女は人前に顔を晒すことはほとんどなく、名すら表に出ることがないというのに、御簾みすの内に入ることなく、扇で顔を隠すこともなく、目の前でにこにこと胡座までかいているので、やはりおかしい。

 これは果たして話しかけても良いのだろうか。何か一人で笑っているくらいなのだから、会話の門戸もんこを開いているようには見える。しかし、控え目に言って美人の、無言の笑顔が逆に怖くなってきたという、言い知れぬ不安も無視できない。

 そして何よりも、この異様な雰囲気の中、誰が一番最初に声を発するのか。

 押し付け合うような、譲り合うような微妙なやりとりを目だけで交わす彼らをよそに、呑気な声が響いた。

「いや、久しいのう、廿李ととり

 何ということだ、誰よりも先に当の本人が口を開いてしまったではないか。四人の間にさっと緊張が走った。

 その人物……紅緒は依然として楽しげな笑顔を右に向けて、明らかに特定の人物に視線を固定している。彼女の右隣に座っているのは八位の真赭まそおの衣を着た線の細い男で、その場の全員が一斉に彼に注目した。廿李ととりと呼ばれたその男は目を見開いて声を失っている様子だが、無理もない。人見知りするたちながらも、同じ志を持つ朋友ほうゆうを出来るだけ多く得たいと今朝から張り切っていた彼が、一目見て出来るだけ関わりたくないと早々に見切りをつけていた胡散臭い人物その人から、久しいななどと既知きちの仲であるかのように話しかけられ、あまつさえ名まで呼ばれたのだ。実際、廿李とは彼の幼名に相違ないのだった。

 ぴたりと固まって、目だけを泳がせている男の様子に構うことなく、紅緒は嬉々として続ける。

「ああ、もう廿李ではないのか……失礼した。今の名は何という?」

「あ、いや、え?」

「昔言っていたとおり、謌生になったのだな。良かった。きっと廿李ならすぐにうたよみになれるだろうな。そうだ、姉君は息災そくさいか?」

「へ?! は、はい、良き縁があり昨年嫁ぎまして、今は腹に子が……」

「何と! 知らなんだ。水くさいではないか。今度祝いの品を贈ろう」

「はぁ、それは……どうも、あの、有りがたきことですが……」

 男のよそよそしさと困惑に満ちた声色にようやく気付いた紅緒は、笑みを引っ込めて、しげしげと男を眺めた。

 周りの者たちは好奇の目で二人のやりとりを窺っている。

 目を細めた紅緒が膝でにじり寄り、男の濃い紅梅こうばい色の瞳をのぞき込んだ。

「なるほど、私が誰だかわかっていないのだな」

「……申し訳ない」

 どぎまぎとしながら何とか謝罪の言葉を絞り出した男に、紅緒は首をかしげて少し考える様子を見せたあと、ではこれでどうだ、と高く結い上げているもとどりを解いた。長く少し豊か過ぎる艶やかな黒髪が、さらさらと紅緒の顔を半ばまで隠す。口許くちもとだけでにやにやと笑うその姿を見て、男は記憶を手繰たぐる目つきで顎に手をやった。

 たっぷり三十数えられるほど間を置いた男の顔は、徐々に驚愕の色に染まっていったが、次にみるみる青ざめていき、最終的にはどうか間違いであってくれとでも言いたげな表情を浮かべてやっと口を開いた。

「……あ、吾丸あまるさ」

 様、と敬称をつけようとした男の口を、べちんっと音のする勢いで紅緒のてのひらおおった。というよりふさいだ。むしろ張り手。なんなら結構痛い。突然の俊敏な動きに周りの者たちはびくりと身をすくませた。

「思い出したか! いかにも吾丸あまるは私の幼名。幼き頃にともに野を駆けずり回ったぼさぼさ頭の吾丸よ」

 精神的にも物理的にも衝撃を受けた紅緒の幼馴染は口から離れていく白魚しらうおのごとき手を目で追いながら、めまぐるしく思考を巡らせる。何ということだ。残念なことに彼女は今をときめく中仰詞ちゅうぎょうし様の娘で間違いない。自らの母親が彼女の母君の下仕しもづかえだったので、何もわからぬ子どもの頃はともに遊ぶこともあったが、身分の差ゆえに徐々に近付くことさえ出来なくなってしまった。それにしてもなんとも美しくなられてとかそういうことは今はいい。何故、高位の華家の姫君が男装してこのようなところにいるのか。よりによって無位の卯の花色の、よりによって男物の真更衣を着て。よりによって、よりによって、

「謌生って貴女あなた! 身分違いにもほどがッ」

 再び口に張り手を受ける。

「そう、私もいやしき身分ながら、お前と同じ謌生になれたのだ。主上しゅしょうは実に懐深きお方だのう。これからは幼き頃のように仲良くしてたもれ。して、お前のあざなは? このままでは幼名を呼び続けることになるぞ、廿李」

 賤しき身分の者はそんな喋り方しないだろう。華家言葉をまくし立ててくる幼馴染に頭の片隅でそう思いながら、半ば呆然としたまま元服後の字を答える。

「……玄梅くろうめと……申します」

「そうか、良き名だ。私は今は紅緒という。皆、よろしく頼む」

 顔にかかったままだった髪を、やけに艶めかしく掻き揚げて、くるりと周りの者に視線を巡らせながら名乗った紅緒は満足気に笑った。

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