第一章

皇都に訪れたとある暁

 都の夜が明ける。

 あかときを過ぎようという刻限こくげん、東に一枚の影絵のように黒々とそびえる真伽羅山まきゃらやま山稜さんりょうは、くっきりと夜陰やいんと朝焼けをわかっている。

 赤い払暁ふつぎょうは空の高いところに向かって橙、黄、白、紫紺しこん紺青こんじょうと濃密さを保ちながら変化していて、山の向こうから白々とした曙光しょこうが差すにはまだわずかに早いようだ。

 季節は秋である。

 すっきりと澄んだ空気に、色付き始めた葉や秋草のかもす甘いような香りが混じっている。

 どこもかしも、ひんやりした群青ぐんじょう色に染まった皇都おうとは、ひっそりと静まり返り、質素、あるいは粗末な家々がひしめく庶民の居住区でも、物の売り買いがにぎやかに行われる小屋が並ぶ市でも、今日という営みが始まるには、ほんの少し早い刻限だ。ただ、貴人あてびとたる華家かげの住まう何棟なんむねもの平屋と広大な庭からなる美しい邸宅においては、下働きの者たちがごく静かに仕事を始めていて、木戸の開く音や水を汲む音、早口のささやき声が聞こえ始めた。

 そんなひそやかな空気を切り裂くように疾走しっそうする者がある。夜と朝のあわいにおいては、騒々しい程の生気をみなぎらせ、少々汗ばむほどに急いだ様子で息を切らせて駆けていく。

 どうやら忍び歩きの様子で、着込んでいる簡素な男物の常衣つねごろもは夜陰に紛れる烏羽色からすばいろだが、ほの明るくなりつつある中では、逆に目立ってしまうのも時間の問題である。

 そうでなくてもその人物には人目をひく点がいくつかある。

 成人に達した男は普通、まげを結って冠帽かんぼうをかぶるものなのだが、この人物は頭の高い位置で一つに結った髪をまげにせずにそのまま垂らしている。おまけに男にしてはふさふさと長く艶々しく、持ち主が若鹿のように軽やかに駆ける間、乱暴に揺れているにもかかわらず、さらさらとしてもつれる気配がまるでない。

 さらに、まさに白皙はくせきというに相応ふさわしい肌をしており、顔や首はもちろん、黒い衣の袖や、まくられた差袴さしばかまの裾から覗く身体の一部がきりりと映えて、透き通るようであった。そのおよそ日に焼けたことのなさそうな肌から、華家の者であることは間違いがなかったが、それであっても珍しいほどに美しい肌をしている。

 やがて空からは赤みが消え、今日が晴天であることを予感させる白藍しらあいへと変わりつつあり、皇都の複雑な路地を疾駆しっくする黒点のごとき人物は、更に足を早めた。

 華家の居住区に入り、通り慣れた様子でいくつかの角を曲がった先で、その人物は僅かに砂埃すなぼこりをあげてようやっと止まったのだった。

 とある華家の屋敷の西門の前である。築地ついじの塀がどこまでも続いていて、ひどく大きな屋敷であることがうかがえる。

 しばし両膝に手をついて肩で息をしていた黒衣の人物は、やがて周囲を見回して誰もいないことを確認したあとに、しっかりと閉じた門扉から築地塀ついじべいを伝って少し歩いたところで唐突にへいを押した。

 すると、ごぼり、と音を立てて塀の一部が向こう側へ抜け落ち、人が一人やっと通れるほどの穴が現れた。自然に崩れて出来たものではない、誰かが、恐らくはこの人物が作った抜け穴なのだろう。

 いそいそとその穴をくぐって塀の内側に降り立った黒衣の侵入者は、一抱えある築地塀の破片を二つ、穴にきっちりとはめ込んで大きく息を吐いた。

 額の汗を拭って、顔にかかった艶やかな黒髪をばさりと払う。涼やかに切れ上がった翡翠ひすい色の目が露わになり、薄紅うすべにの小作りな口許くちもとには安堵あんどの色が見えた。

「あー、良かった。間に合っ」

「てない」

 独り言の続きを強い口調でかすめ取られて、びくりと背後を振り向くと妙齢みょうれいの女官が一人、厳然がんぜんたる仁王立におうだちで立っている。垂れた目尻と、黒目がちな瞳の柔和な雰囲気を持った上級女官だが、今は肩をいからせて黒衣の人物をめつけている。

 恐るおそるといった体で首をすくめ、ご機嫌うかがいの笑いを唇に乗せた黒衣の麗人はもう一度独り言を言う。

「いやー、何とか、間に合っ」

「てない」

 先程と同じ、にべも無い女官の言に、途端に無表情になると、すたすたと歩き出す。

「わかっておるわい、一応もう一度言ってみただけよ」

「また早朝から屋敷から抜け出されて。どうせいつものアレなのでしょうけれど、、もういい加減になさってくださいまし。あっ……あぁ! ちょっ……んもう! はしたない!」

 履物はきものを脱ぎ散らかして、濡縁ぬれえんに上がった『姫様』は、西のたい をずんずんと歩きながら、当帯あておびや黒い上衣うわごろもを脱ぎ捨てていく。

 それをいちいち拾いながら後を追う女官は、玉露たまつゆといって、姫の側仕そばづかえの者である。

「お前は早起きだのう。今少し寝ていても私は構わんぞ」

あるじの初出仕の朝に、呑気のんきに寝こけている女官などおりません!」

「そうかそうか。まぁ、急ぎ着替えるゆえ、許せ」

 まるで悪いと思っていない様子で、差袴さしばかますらき始めた主に、玉露は諦めの眼差しを送りつつ、尋ねる。

「本当に昨夜お選びになったお召し物でよろしいのですね?」

「よい。早よう持ってきてたもれ。あぁ、その前に身体を拭きたい」

 玉露と姫の声を聞きつけたのだろう。何処からともなく、空のおけとてぬぐいを捧げ持った玉露よりも少し幼い女童めのわらわたちが現れ、そのまま二人の後を着いてくる。

 玉露はこめかみを押さえてため息を吐いた。

「姫様、先程も申し上げましたが、本日は姫様の初出仕しゅっしの日でござりますれば、殿もお方様も心配なされて……っ?!」

 唐突に立ち止まったうえ、くるりと勢い良く振り向いた姫にぶつからないように焦りつつ足を止めた玉露だったが、軽く主の胸に飛び込む形となってしまった。

 姫は細身ではあるが肩幅があり、上背うわぜいもあるので、玉露のように小柄な女性が至極しごく近くに寄ると、まるで男性と向かい合っているようで無闇にどきどきとしてしまう。玉露はこれを『何ら生産性のないときめき』と呼んでいる。

「玉露」

 ぐいと腰を抱き寄せられた憐れな女官は「ひい」と小さく声をあげる。

 口を開けた少々はしたない呆け顏で二人を見ていた女童たちは、黄色い悲鳴をあげかけて思いとどまった。

 玉露が恐るおそる見上げれば、涼し気な目尻と口の端で上品に微笑む中性的な美貌があった。

「お前には私の傍若無人ぼうじゃくぶじん我儘わがままでいつも苦労をかけておるのう」

 わかっているならやめてほしい。

 切にそう願えども願えども、一片いっぺんたりとも主には届いたことはない。

 翡翠色の瞳がきらめく様に、生産性のないときめきを感じながらも玉露はげんなりとした表情を浮かべる。

「だが、大事ないぞ。この紅緒べにお謌寮うたのつかさで必ずや出世頭となり、お前にもよいの君を見つけてきてみせようぞ」

 違う、そうじゃないと白眼になりかけたが、優秀な女官は何とか持ち直す。

「姫様! 出世などなさらずともよいのです!そもそも出仕ではなく入内じゅだいなさってくださりませ! わたくしではなく御自らの……」

 そう、あろうことか、この姫は父親がぎ着けた入内の機会を蹴ったのである。

 つまり、皇帝おうていの妻の一人として後宮に入ることを拒否したのだ。

 娘が入内することにより、その実家の家格は上がる。更に御子みこ身籠みごもれば、また更にそれが男子であれば……。それは一般的に言って華家社会に生きる者にとっての夢である。

 とはいえ、この姫はもともと優雅に派閥はばつを争う華家社会に馴染みにくい性質ではあったので、後宮という女の戦場と言っても過言ではないような場所に入内したらしたで心配だと、周囲は気を揉んでいたのだ。

 すると当の本人はよほど入内が嫌だったのか、生まれてこのかた一六年、親にすら隠し続けてきた人並外れた『うた』の才能を告白し、あろうことかその才を生かして、父親と同じように出仕すると言い出した。

 つまり、女の身で男性に混じって公務に就くというのである。

 勿論、常識的に言って、ただごとではない。

「姫様のその美しさなら、次期皇帝の御腹おんはらになられるに間違いありませんのに」

 よよ、と泣き崩れる玉露の背を二、三度優しくさすって、姫、紅緒は笑った。

「まぁ、落ち着いてよく聞きなさい、たま。私は美しいとか美しくないとかもう本当どうでも良い。後宮の女人の世界なども空恐ろしくて絶対に行きとうない。たとえ御子を産んだとて、私の幸せはそこにはないのだよ。なればこそ、面倒が起きぬようこれまで隠してきた謌の力を披露したのだ。私の生きる場所は公務にこそある」

「姫様……」

「やもしれぬ」

「…………」

「何より、皇帝の妻になど死んでもならぬ」

「姫様!」

 その柳眉りゅうびを歪めて悪い笑みを浮かべながら大不敬だいふけいを働いた紅緒に、玉露は悲鳴をあげたが、当人は全く気にした様子もなく自室へと入る。

 御簾みすの内に入ると、姫は女童の一人がささげ持つ空の桶に、ちら、と目を向けると小さくうたを口遊んだ。独特の節回しのゆったりとした拍子の謌であった。幼子をあやす乳母めのとの唄のように、囁くほどの低い声で、紅緒は謌う。

『み み みな みつ つちのみ そらのみ すがしみよ しらねのおんみの むすびしみての うちよりたまみづ こぼしたまはらむ あがたまを かそけづる やよ かそけづる』

 すると、桶の底板の中心から水がこんこんとき出てくる。思わず手を差し入れたくなるような透きとおった冷水である。それがくにつれて、ほのかに薔薇そうびの香が漂う。

 水は桶の深さの八割に達すると湧くのをふつりとやめた。

 姫はまだ初々しさのある女童から、そっと桶を取り上げる。

「持とう。お前には重いであろ」

「あ、そんな……」

 自らが仕える貴人にそんなことをさせてはならないと焦る少女に、片頬かたほおに笑みを浮かべて「よいよい」と呑気に応える主を玉露は諦め半分、諦め切れない不満半分で眺める。

 その視線を素知そし らぬ顔でかわして、紅緒は上機嫌で身体を拭き清め始めるのだった。

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