12

 食器を洗い終えて戻ってきたトーマは、テーブルの上に置き去りにされたハンカチをしばらくぼんやりと見つめ、それから寝室の方へと視線を移した。

 パタパタと駆けていく足音は聞こえていたけれど、振り返ってはいけないと思っていた。

 ルウンが突然泣き出した理由は分からない。だから振り返ってもし目が合っても、かけるべき言葉が見つからない。

 目を合わせて黙り込んでいるくらいなら、最初から振り返らない方がずっといい。

 女の子を泣かせたことなんて未だかつてなかったことだから、やはり恋愛の物語を読み込んでおくか、もしくは旅芸人一座の花形で、落とした女は数知れずと豪語する男にもっと話を聞いておくべきだったと後悔する。

 それをしていたところで、今の自分の助けになったかと考えれば、また難しいところではあるが。


「……それでも、もうちょっとマシな対応は、できたはずだよな」


 今のトーマには、ハンカチを置いて席を立つことが、精一杯の対応だった。それが最善かと問われれば、答えに詰まってしまうけれど。


「悲しいって、そう思って泣いてくれたのかな……」


 そうだったら嬉しいけれど、そうである保証はない。どうしても、また自分に都合のいいように仮定を組み立てているだけなのではと思えてしまう。

 人の気持ちは複雑怪奇で、涙にも様々種類がある。それを思うと、ルウンの涙のわけが計りきれなかった。

 はあ……と重たい息を吐き出すと、トーマは疲れたようにドカッと椅子に腰を下ろす。本当はベッドに体を横たえてしまいたかったが、二階まで階段を上がっていく気力がない。


「なんか……思っていたのと、全然違うな」


 人を好きになるというのは、もっと甘くて温かくて優しくて、まるで砂糖菓子を食べているような気持ちになれるものだと思っていた。

 カリッと歯を立てた砂糖菓子が、ほろりと崩れて口の中で溶けていくような。その甘さに思わず頬が緩んでしまうような――恋とは、そういうものだと。


「春の日溜まりの中にいるみたいな、そんな温かな気持ちになれるものだと思っていたのに……。実際は、木枯らし吹き荒れる冬だな」


 自分で言ってから自嘲気味に笑って、また重たく息を吐く。

 こんなに辛いものなら、恋なんてするんじゃなかったと思ってしまうのは、逃げだろうか――。

 例えそうだったとしても、綺麗な思い出だけを胸に旅立ちたかったと思ってしまう。


「僕もまだまだだな……。物書きとしても、男としても、半人前だ」


 旅立つことを決めたのは、これ以上気持ちが大きくなっては困るから。それなのに、一緒にいればとめどなく気持ちが溢れ出す。

 背もたれにだらしなく預けていた体を起こし、トーマは窓に視線を向ける。

 見えた空は、灰色の雲間から綺麗な青が覗いていた。


 **


 パッチリと目を開けたルウンは、今自分がどこでどういう状況になっているのか理解できずにしばらく瞬きを繰り返す。

 もぞもぞと体を動かしてみれば、体をすっぽりと包む柔らかい感触があって、やがて自分はベッドの上で布団にくるまれていた事に気がついた。

 ギュッと縮こめていた手足をゆっくりと伸ばしていくと、長時間曲げっぱなしだった関節が悲鳴を上げる。それでもグッと体を伸ばして、上に伸ばした手で布団を掴んで顎の下まで引き下げる。

 顔を出してみても、そこは布団の中と変わらない暗闇に包まれていた。

 首を巡らせて窓の向こうを見れば、すっかりと夜の帳が下りている。

 どうやら、お昼ご飯もお茶の時間も、ルウンはすっぽかして寝てしまったらしい。

 夕飯にはまだ間に合うだろうか……でも、さほどお腹は空いていない。

 暗さに目が慣れるまでしばらくジッとしていて、ようやく薄ぼんやりと周りが見えるようになってきた頃に、ルウンは起き上がってベッドから下りる。

 寝室と隣の部屋とを仕切っている壁に手をついてそっと隣を窺ってみると、そこもまたしんとした暗闇に沈んでいた。

 当然そこには誰もおらず、人の気配がなくなってから相当時間が経っている事を感じさせる、冷え冷えとした空気に満ちている。

 それでもルウンは足音を忍ばせるようにして寝室を出ると、そっと隣の部屋に移動して椅子の背もたれに手を掛けた。

 テーブルの上には、あの時トーマが出してくれたハンカチが、そのまま置きっぱなしになっている。

 背もたれに手をかけたままそのハンカチをジッと見つめ、しばらくして屋根裏へと続く階段に視線を移す。

 彼は、お昼を食べただろうか。お茶はしていないにしても、夕飯はどうだろう。

 聞きに行こうかと足が前に出たが、すぐに躊躇うように歩みを止める。

 会いたいけれど、会いに行くのが怖かった。

 階段を上った先で、荷造りなんてしている姿を見てしまったら、すぐそこに迫った別れを実感させられるから。

 階段から逸らした視線を今度は窓に向けると、ルウンは吸い寄せられるように窓辺へと近づいていく。

 雲が流れるたび、その隙間を縫うようにして顔を出す月が、淡く柔らかい光で庭を照らす。穏やかなその光景でさえ、今は見ているのが辛かった。

 雨が止んでしまった空は、ただただトーマとの別れをルウンへと突きつける。

 二人で過ごした、温かい日々が終わる。また、一人ぼっちに戻る。

 一度温かさを知ってしまったら、もう知る前には戻れない。何も知らなかった頃のようには、暮らせない。

 出会った日から今日までの間に、トーマがくれたたくさんの優しさ。

 本人は何も返せなかったと言うけれど、ルウンはもう充分すぎるほどに貰っていた。

 日向の香りがする太陽は、森の奥に佇む古びた洋館を、そこで暮らす一人の少女を、明るく優しい光で照らしてくれたのだ。

 この気持ちを、伝えたい。

 ありがとうでは伝えきれないこの気持ちを、全てトーマに届けたい。

 胸が熱くて、痛くて、苦しいほどのこの感情を――。

 けれど、言葉にすればきっと簡単なはずなのに、ルウンにはその言葉が分からない。この感情を表すはずの名前が、どうしても。

 トーマには、嫌だ行かないでと喚く代わりに、その言葉を伝えたい。決して引き止めてはいけない旅人に、今のルウンが贈れるもの。贈りたいもの。

 窓の向こう、雲間に覗く月を見つめて、ルウンは必死に探していた。

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