10

「具合が悪くなったらすぐに言うこと。さっきみたいに、走り出したりしないこと。できるだけ大人しく座っていて。分かった?」


 コクっと頷いたルウンは、まるでお人形さんのようにちょこんと椅子に腰掛け、神妙な顔のトーマを見上げている。


「よし。じゃあ僕はキッチンに戻るけど、何かあったら呼んでね」


 まるで首振り人形のようにコクっと頷き返すルウンに、トーマは苦笑しながらそっとその頭を撫でた。

 撫でられる感覚に、ルウンは浸るように目を閉じる。

 その穏やかな表情をしばらく眺めてから、トーマは名残惜しい気持ちを振り切って手を離した。


「すぐにできるから」


 トーマの声に目を開けたルウンも、離れていく手の平に名残惜しさを感じながら頷き返す。

 足早にキッチンに戻ったトーマは、調理を再開すべくまずは片手鍋を取り出した。そこにぶどう酒を注ぎ入れ、調理台に並べたスパイス類を次々と放り込んで火にかける。

 分量なんかは正直適当で、記憶を掘り起こしながら、時にはカンを頼りに入れていく。

 そもそも、教えてくれた人が大雑把だったので、分量なんてあってないようなものだった。その時はあまりの雑さに、本当にこの人は料理人なのか……と疑ったほど。


「ビックリするくらい雑なんだけど、出来上がるとなぜか美味しいんだよな……」


 くつくつと音を立てる鍋を前に、トーマは納得のいかない顔で首を捻る。

 その様子を隣の部屋から眺めていたルウンは、やがて漂ってくる匂いに我慢できなくなって立ち上がった。

 そうっと足音を忍ばせて、背後からトーマに近づいていく。

 鍋の中では一体何が起こっているのか。嗅いだことのない香りが漂い出せば、どうしてもそれが気になって、ルウンは好奇心に突き動かされるようにゆっくりと歩を進める。

 トーマの背中が近くに迫ると、気づかれないように慎重に、そうっと脇から手元を覗き込む。

 背後からだと見えづらいので少し高さを出そうと背伸びして、それでも見えないから今度は僅かに身を乗り出して、どうしても見えないから次は一歩前に出て――


「こんな感じ。どうかな、見える?」


 突然トーマが横にずれて視界が開けたかと思ったら、鍋が自分の方に傾けられた。

 ルウンが驚いて顔を上げると、可笑しそうに笑うトーマと目が合う。


「ルンってば、猫みたいだったよ。そっと忍び寄ってくる感じとか、一生懸命覗き込もうとしているところとかが凄く」


 気づかれていたのかと思うと途端に恥ずかしくなって、ルウンは堪らず俯く。その瞬間、鍋の中で揺れる赤紫が視界に広がった。

 立ち上る湯気に乗って、先程から漂っていた嗅ぎ慣れない匂いが強く香る。複雑なスパイスと、爽やかなハーブが混じりあった、不思議な香り。


「もうすぐできるよ。あとはカップに注げば完成」


 言いながら鍋を火から下ろしたトーマは、あらかじめ調理台に並べておいた二つのカップに、中身をこしながら注いでいく。

 鮮やかな赤紫の液体が、網目を通ってとぽとぽとカップに注がれていく様子を、ルウンは興味津々でジッと見つめる。


「はい、できた。行くよルン」


 鍋を置いて、カップを二つ手にしたトーマは、ルウンを誘って歩き出す。

 あとを追いかけたルウンは、促されるままに元の椅子に腰を下ろした。


「どうぞ、召し上がれ」


 目の前に置かれたカップを、ルウンはまず興味深げに見つめる。


「冷めないうちに飲んでね」


 その様子を苦笑しながら眺めつつ、トーマは先に一口。

 思わずほうっと漏れた満足気な吐息に、ルウンもすかさずカップを両手で包み込むようにして持ち上げた。

 カップの中で揺れる赤紫の上には、薄切りのレモンが一枚ぷかりと浮かんでいる。

 立ち上る湯気から香る初めての香りを目一杯吸い込んでから、何度か息を吹きかけてようやくルウンも一口。

 どこか大人の風味を感じるぶどうの中にシナモンが香り、何かがピリリと舌を刺激した。

 ほのかにショウガを感じたと思ったら、爽やかなレモンがハチミツの甘さをまとって口に滑り込んでくる。カリッと一口齧って飲み込めば、何とも言えない複雑な味が口いっぱいに広がった。

 トーマに習うように、ルウンもほうっと吐息を漏らす。


「ホットワインって言うんだけど、ルンは初めて?」


“ワイン”という単語に、先ほどトーマが見せた瓶の中身を、ルウンはようやく理解する。

 何度か料理に使ったことはあったが、こうしてちゃんと飲むのは初めてだった。


「温めたワインに、スパイスやハーブなんかを入れて作る飲み物なんだけど、体を温めてくれるから風邪に効くと思うよ。地下でぶどう酒を見つけた時に、前に教えてもらったレシピを思い出して作ってみたんだ」


「分量なんかは適当なんだけどね」と笑ったトーマは、記憶の味と比較するようにじっくりと味わう。


「うん……でも、こんな味だった気がするな。ブラックペッパーは、ちょっと入れすぎた気がしないでもないけど」


 苦笑するトーマを眺めながら、ルウンはちびちびと舐めるようにホットワインを口に含む。

 次第に、体がポカポカと温まってくるのを感じていた。頭もどこかぼんやりして、ふわふわした感覚が不思議と心地いい。


「おいしい……」


 いつになく頬や目元が力なく垂れ下がり、ふにゃんとした顔でルウンが呟く。


「それは、よかっ……た」


 ルウンの方を向いたトーマの笑顔が固まった。


「ルン……?」


 声をかければ、楽しそうにふにゃんと目尻を緩めたルウンが小首を傾げる。サラリと肩から零れ落ちた白銀の髪が、テーブルを撫でて落ちた。


「おいしい」


 もう一度、同じ言葉が繰り返される。

 トーマの顔から笑顔が消え、次第に困惑した表情に変わっていく。


「もしかして、酔ってはいない……よね?」


 こてんと首が傾くと、またサラリと髪が流れる。


「おいしい!」


 三度目となるそのセリフに、トーマは答えを待つことなく納得した。


「アルコールは飛んでいるはずなのに……なんで?」


 聞いたところで本人は、ふにゃりと楽しげに笑って首を傾げるばかりで、答えが返ってくることはない。


「おいしー!」


 体が火照っているのか、赤く染まった頬を緩めて楽しそうに笑い、四度目のセリフを発してルウンがカップを傾ける。

 一気に半分程飲み干して、ぷはーと豪快に息を吐くルウンは、いつもとは全く様子が違ってトーマを困惑させる。


「ル、ルン、もうその辺でやめておいたほうが……」

「ルウン!」


 カップを取り上げようと伸ばしたトーマの手が、その言葉にピタリと止まる。


「ル・ウ・ン!」


 もう一度、今度は一音ずつ区切るようにして放たれたルウンの言葉に、トーマは「ええっと……」と困惑しながら返す言葉を探す。


「ルウン!ルウンは、ルウン、だから!」


 猫がシャー!っと歯を剥きだして威嚇するように、ルウンがだんっとテーブルを叩いてトーマの方に身を乗り出す。


「わ、分かっているよ。分かってはいるんだけど、僕の故郷ではそういう時、“ルーン”って発音するから、上手く言えないんだって最初に説明し」

「トウマの故郷、どんなところ?」

「……え?」


 先ほどの怒りはどこへやら、突然ころりと話題を変えたルウンが、今度は目をキラキラさせて更に身を乗り出してくる。

 今にも椅子から転げ落ちそうなルウンに、トーマは気が気ではない。


「えっと……東方にある町だよ。大きな川が流れていて、水が綺麗だから魚が凄く美味しいんだ。元々は小さな村が点在していたのが、寄り集まってできた町らしいんだけど。だからなのか、人の距離がすごく近くて。えっと、なんて言うのかな……あったかいところ、かな」

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