10

 ふにゃりと顔全体の筋肉を緩めたルウンが、楽しそうに笑う。

 話を聞いているのかどうかは定かでないが、完全に酔っ払っているこの状況では、それも仕方がない。


「中心地にあたる街の大きさで言ったら、やっぱりここ西方が一番だと思うけど、住みやすさで言ったら、断然東方が一番だと僕は思うよ。まあ、フラフラと故郷を離れて旅をしている僕が言えたことじゃないけど」


 話しながら苦笑するトーマを眺めて、ルウンはふにゃりと笑ったまま、頭を左右にゆらゆらと揺らしている。

 完全に話が頭に入っていないことは見れば分かるが、それでもトーマは懐かしい故郷の景色を思い出しながら話を続ける。


「いって、みたい……」


 不意に、ポツリと呟くような声が聞こえた。

 トーマが一旦口を閉じると、ルウンが再びポツリと呟く。


「トウマの、うまれたところ。……東方の町、いってみたい」

「うん。僕もルンに、ぜひ見て欲しいな」


 自分でもビックリするくらい、あっさりと言葉が零れ落ちた。するとルウンが、嬉しそうに笑う。

 酔っ払って漏らした言葉は、約束と呼ぶには少し頼りないけれど、いつか本当に、連れて行ってあげたいとトーマは思った。

 その白銀の髪は、きっと故郷の美しい川の流れによく映える。

 青みがかった銀色の瞳は、キラキラと好奇心いっぱいに輝いて、澄み切った青い空を見上げるのだろう。

 故郷の懐かしい景色の中に、ルウンが立っている光景を思い浮かべて、トーマは微笑む。

 すると突然、フラフラと左右に揺れていたルウンの頭がピタリと動きを止め、次いでコテンと左に倒れた。


「ル、ルン!?」


 突然のことに、我に返ったトーマは具合でも悪くなったのかと慌てる。

 そんなトーマを、ルウンは見るともなしにぼんやりと見つめた。

 そのぼんやりとした視線と、体調を窺おうとするトーマの視線が絡み合って、二人はしばらく無言で見つめ合う。

 ほどなくして、ルウンはふにゃんと笑って左に倒れていた頭を起こすと


「とうまー!」

「うわっ!?」


 なんの前触れもなく、トーマに飛びつくようにして抱きついた。

 慌ててトーマが抱きとめると、ルウンの座っていた椅子が、大きな音を立てて床に転がる。


「とうまぁー」

「ル、ルン……!?」


 甘えたような声で名前を呼んで、えへへと可愛らしく笑ったルウンが、トーマの胸に顔を擦り付ける。

 トーマは目を白黒させてルウンが転げ落ちないように支えるばかりで、中々状況に頭がついていかない。

 柔らかくて、温かくて、小さなものが、自分の腕の中にいる。

 強く抱きしめたら壊れてしまいそうで、でも抱きしめる手を離してしまったらその小さな体が床に落ちてしまうから、戸惑いながらも、トーマはふんわりと包み込むようにその体に腕を回す。


「とうま……」


 ルウンは幸せそうにふにゃりと笑って、歌うようにトーマの名を口ずさむ。

 名前を呼ばれるたびに、胸元に顔を押し付けられるたびに、トーマの心臓がドクンと強く脈打った。

 顔を上げたルウンと目が合って、赤みが増したその頬に、潤んだ瞳に、またトーマの心臓が音を立てる。


「ル、ルン……ちょっと、離れようか」


 思わず抱きとめてしまったが、状況を理解するうちに心臓が高鳴るばかりでなく、顔にも熱が集まってくる。

 引き離すように抱きとめていた腕に力を込めると、ついさっきまでふにゃりと力なく緩んでいたルウンの表情が、その瞬間悲しげに崩れた。


「なんで……」

「え?」


 ポツリと呟かれた声が聞き取れずに疑問符を返すと、見開かれた瞳に見る間に涙が盛り上がる。


「えっ!?あっ、ちょっとルン!」


 慌てふためくトーマの前で、ルウンの瞳からポロリと涙が零れ落ちた。


「なんでぇ!」


 最初のひと雫を皮切りに、堰を切ったように次々と涙が溢れて止まらない。

 声を上げて泣き出すルウンに、トーマはわたわたと慌てるばかり。なんで、なんでと繰り返し、ルウンはひたすらに泣き続けた。


「ご、ごめんねルン。別に嫌だったとかそういうことじゃなくて、なんていうか……だってほら!あっ、いや……とにかくごめん!本当にごめん!」


 わんわんと声を上げてひとしきり泣いて、次いでぐすぐすと鼻を啜り、涙に濡れた顔を上げて、ルウンがトーマを見つめる。


「ひとりはね、さみしいの。でも、ほんとはさみしかったのに、わからなくて……。でも、ずっと……さみしかった」


 自分でもきっと、何を言っているのかよく分かっていない。そんな熱に浮かされたような言葉だったけれど、“寂しい”と繰り返すルウンの声は、確かにトーマに届いた。

 それは、ルウンが今まで我慢して、押さえ込んで、気づかないようにしてきた気持ちが、涙と一緒に溢れ出した瞬間。


「ルン……」


 こみ上げてきた愛おしさが零れ落ちるように、トーマはそっと名前を呼んだ。


「ごめんね……」


 力を入れすぎないように細心の注意を払いながら、一度は引き離そうとしたその小さな体を、もう一度ギュッと抱きしめる。また、ルウンが鼻を啜り上げる音が聞こえた。


「大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫だから。だってほら、僕がここにいるでしょ。今はもう、一人じゃないよ」


 抱きつくルウンの腕に、きゅっと力がこもる。まるで、トーマの存在を確かめるように。

 子供をあやすように優しく背中をさすっていると、やがて泣き声が小さくなり、ルウンの体からふっと力が抜けた。

 代わりにトーマの腕には、ずっしりとした重みが伝わってくる。

 落とさないよう横抱きにして膝に乗せ、トーマはふうと息を吐く。

 顔にかかった髪をそっと指先で寄せてみると、頬に残った涙の筋が目に映った。


「そんなに、寂しかったのか……」


 出会った時から今まで、そんな素振りは全く見せなかった。

 けれど考えてみればそれも当然で、突然現れた旅人なんかに、自分の心の奥深くに閉じ込めた思いを口にする人はいない。

 アルコールの力があったとしても、普段決して見せないようにしていた感情を表に出してくれたことが、素直な気持ちを自分に話してくれたことが、トーマには嬉しかった。

 ”寂しい”と言って泣いた少女は、こんなにも小さくて、こんなにも脆い――。


「気づいてあげられなくて、ごめんね」


 小さな体が次第に熱を持ち、その額に薄らと汗が浮かぶ。

 ベッドに運ばなければと立ち上がった時、倒れていた椅子が足に当たって、カタンと微かに音を立てた。

 その瞬間、幸せそうに頬を緩めて飛びついてきたルウンの顔が頭に浮かぶ。

 窓の向こうは、相変わらずの雨。しかしいつかは、その雨も止む。

 雨が止み、雨期が過ぎてしまったら――。

 トーマはふるりと一度頭を振ると、それ以上考えるのをやめて、抱き上げたルウンを落とさないようにゆっくりと寝室に向けて歩き出した。

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