誰もいない部屋の中で、魔法使いは立ち尽くした。

家中を探し回っても、彼女の姿はどこにもない。

そんな時にね、開けっ放しだった窓の向こうから、遠く微かに声が聞こえたんだ。

それは、啜り泣きと悲しげな余韻漂う、葬送の歌。

魔法使いは、その歌声を追いかけた。声が聞こえる方へ、窓から彼女の部屋を飛び出して。

段々と近くなる涙の混じった歌声と、それに呼応するように高鳴り出す心臓。

魔法使いが辿り着いたその場所で、彼女は静かに目を閉じていた。

色濃く漂う死の気配に、彼女を囲んでいる者達は涙にくれる。

呆然と立ち尽くす魔法使いに気づくものはなく、魔法使いもまた、彼女以外の存在など視界に写ってすらいなかった。


――ああ、そうか。ついに来てしまったのか。


彼女との永遠の別れが、すぐそこにあった。

その時、息絶える間際の彼女が、不意に目を開けたんだ。

その目はしっかりと魔法使いを捉えていて、捉えられた魔法使いは、引き寄せられるように彼女の元へと近づいていった。

咎めるものは誰もいない。

まるで、誰ひとりとして魔法使いの姿など見えていないように。いやむしろ、彼女と魔法使い以外の全ての人間の時が止まってしまったように。

そこには気配がなく、音もなく、啜り泣きも葬送の歌も聞こえては来なかった。


“やっと、会えた”


嬉しそうに唇を動かした彼女が、そっと手を伸ばす。かつて若々しさに溢れていたその手は、今では年相応の皺を刻んで冷たい。

伸ばされた手を無意識に取って握り締め、魔法使いは頷いた。

この時、自分が鳥の姿に変わることをすっかり忘れていたのを思い出したけど、もうそんなことはどうでもよかったんだ。

だって彼女が、とても嬉しそうに笑っていたから。


“あなたに会いたくて、何度も探しに行ったの。だって一人ぼっちは、とても寂しいものだから”


彼女が森へと足繁く通った理由は、優しくて、単純で、だからこそ魔法使いには理解できなかった。

一人ぼっちは寂しいから、だから彼女は会いに通った。少しでも、魔法使いの寂しさを和らげるために――。

彼女の願い通り、魔法使いは寂しくなかった。彼女と一緒にいる間だけは。

でもおかげで、寂しいという感情を知ってしまったんだ。もう、彼女はいなくなってしまうのに。


“会えてよかった”


最期にそう言って、彼女は笑顔で息を引き取った。その瞬間、周りに音が戻ってきたんだ。

だから、彼女の傍らに立つ魔法使いに気がついた人達が驚いたように彼を見た時、魔法使いは逃げるようにしてその場を離れた。

大切な存在が、その大切さに気づいた途端に遠くにいってしまった。

いつかはそうなると分かっていたけど、あまりにあっけなく訪れたその瞬間に、魔法使いといえども心が追いつかなかったんだ。

一人ぼっちの寂しさを紛らわせてくれた、一人の少女。彼女の優しさも笑顔も、もう二度と魔法使いを癒すことはない。

最期の瞬間、会えてよかったと嬉しそうに笑った顔を思い出して、彼は泣いた。

穏やかな日々をくれた彼女に、何一つ返すことができなかった自分を悔やんで泣いた。

彼女と同じ時間を生きられない、自分の内にある力を呪って泣いた。

かけがえのないものを失ってしまった、その喪失感に泣いた。

夜が明けて日が昇り、また次の夜が来ても、魔法使いは泣き続けた。何日も何日も、涙は止まることなく溢れ続ける。

その悲しみに呼応するように、空が次第に厚い雲に覆われていったんだ。

魔法使いの強すぎる力が、意図せず天候を支配してしまった。

――――やがて、雨が降りだした。

何日も何日も。夜が明けて日が昇り、また次の夜が来ても、その雨が降り止むことはおろか、雲が晴れることもない。

魔法使いの涙は、雨になったんだ。

悲しみも、悔しさも、絶望も、喪失感も、全てが雨に変わって、それから何日も降り続いた。

その雨は時に人々の生活を潤し、時に人々を災害にて苦しめる。

魔法使いのやるせなさと、少女の優しさが混じりあった雨、それが――



「――雨季の始まりだって、言われているんだよ」


なるほど、と一旦頷いてみせたルウンは、しかししばらくしておずおずと口を開く。


「……前に聞いた、雨季にも、意味があるって話と……どっちが本当?」


不思議そうに首を傾げるルウンに、トーマは笑って答える。


「そうだね。一般的には、雨季の雨はやって来る暑い季節への備えだって言われている。このお話は本当にあったことだって聞いたけど、それは実際のところ誰にも分からない」


雨季は、やって来る暑い季節への備えなのか。それとも、悲しい別れの末に生まれたものなのか――。


「何が正しいとか、間違っているとかじゃないと僕は思っているんだ。もしかしたら、雨季にはもっと別の意味があるのかもしれない。別の物語が隠されているのかもしれない。それか、そこにはそもそも意味なんてないのかもしれない。でも、“ない”って決め付けてしまったらつまらないけど、“何かある”って思ったら、なんだかワクワクしてこない?」


トーマの瞳が、言葉通りワクワクしたように輝き出す。


「何が本当かなんて、誰にも分からない。そんな物語が、この世界には溢れているんだ。それって、凄く面白いことだよ」


楽しそうに語るトーマの姿を見ているうちに、ルウンの中にも次第に同じ気持ちが湧き上がり始める。

トーマがそんなにもキラキラした瞳で語るのならば、それはきっと楽しいことであるに違いない。

もうどちらが本当かなんて、ルウンの中ではさしたる問題ではなくなった。ただトーマの言う通り、ワクワクして、楽しかった。

もっともっとトーマの話が聞きたい。トーマの知っているお話が聞きたい。

それなのに、不意に零れた咳に、トーマの楽しげな表情が申し訳なさそうに一変する。


「そろそろ休もうか。ちょっと待っていて」


早足に寝室を出て行ったトーマは、氷水の入ったボウルを持って戻ってくる。


「新しいのに変えよう。それから、ゆっくり休むといいよ」


額に感じる、ひんやりしたタオルの温度は心地いいが、残念な気持ちは拭えない。

ルウンがそっと伸ばした手で袖口を掴むと、トーマは苦笑しながら丸椅子に腰を下ろした。

それでようやく気持ちが少し落ち着いて、ルウンはそっと目を閉じる。


「大丈夫。ここに居るから」


聞こえてきた声に一度目を開けると、ルウンは掴んでいた袖口から手を離して、ジッとトーマを見つめる。

袖口を掴むのはトーマをこの場に引き止めるためであったが、“ここにいる”と言ってくれるのであれば、もっと別のものが欲しかった。

ん?と首を傾げるトーマに向かって、ルウンは一度引っ込めた手をまたおずおずと伸ばす。

伸ばした手は袖口を掴むことなく、所在無さげに空を漂った。

それをしばらくジッと見つめて、トーマはその意味を考える。

何が欲しいのか、何を求めているのか。ルウンの表情を窺うと、その唇がとても小さく動いて微かな音を発した。

そのたった一言は、確かにトーマの耳に届く。

しばらく迷うように視線を彷徨わせていたトーマは、やがて意を決して、所在無さげに浮かんでいた手をそっと握った。


「……トウマの手、あったかくて……おひさま、みたい」


ようやく繋いでもらえた手に、ルウンは嬉しそうに呟いて、安心しきった顔で目を閉じる。

やがてその胸が規則正しく上下して、微かな寝息が聞こえてきたところで、トーマは深く息を吐きながら、繋いでいない方の手で顔を覆った。

包み込んだ小さな手は、弱々しくも確かにトーマの手を握り返していて、求めるように自分を見つめていた瞳と、”手”と微かに動いた唇を思い出す度に、心臓が痛いほどに高鳴り出す。

次第に強く確かなものになっていく感情は、確実にトーマを侵食していた。


「予想外の事態なんて旅人にはつきものだけど、これは流石に……」


幾度もの出会いと別れを繰り返し、ひとところに留まることのない旅人である自分が、まさかこんな気持ちに悩まされる日がくるなんて、トーマは思ってもいなかった。

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