9 想定外の気持ちとトマトのスープ

 そっとルウンの額に手を当てると、途端にトーマの表情が険しくなる。


「まだ、下がらないか……」


 氷水で冷やしていたタオルを額に載せてぼそりと呟くと、返事の代わりにルウンが小さく咳をした。

 中々下がらない熱は、次第にトーマに不安を抱かせる。本当にこの体調不良は、ただの風邪なのかと――。

 辛そうな様子に、一刻も早く何とかしてあげたい気持ちも日に日に強まっていく。


「……やっぱり、薬か」


 ルウンには聞こえないように小さく呟いて、トーマは窓から外の様子を覗った。

 今日は雨ばかりでなく強い風も吹いていて、容易に外に出られる状況でないことは、窓を叩く雨音からもよく分かる。

 第一、体調の悪いルウンを一人残していくのは心配なので、結局トーマは今この家の中でできる最善を尽くすしかなかった。


「何か元気になれそうなものを作ってくるよ。何がいい?何か食べたいものはある?」


 途端にルウンの顔が嫌そうに歪んだところを見ると、今日も食欲はないらしい。

 それでも食べてもらわなければ困るので、トーマは宥めるようにそっとルウンの頭を撫でた。

 これまでは躊躇していたその行為も、一度受け入れられてしまえば、次からは容易く手が伸びる。


「お話の続き、よかったらまた聞いてくれる?」


 嫌そうな顔が一変して、返ってきたのは嬉しそうな頷き。


「じゃあ、ご飯の後でね。何が食べたい?」


 間髪いれずに続けた言葉に、ルウンの表情がまた嫌そうに変わりかけるが、観念したように渋々と唇が動いた。


「分かった。すぐだから、待っていて」


 頭を撫でていた手が離れていく瞬間、ルウンはほんの少しだけ名残惜しそうにトーマを見やる。その視線に気がつかぬまま、トーマは寝室を出てキッチンに向かった。


「薬、か……。きっとルンは、嫌がるだろうな」


 種類によって差はあれど、総じて薬とは高価なもの。簡単に他人に贈れるものではないし、贈られた側も、よほど近しい間柄でない限り普通は気に病む。

 雨季の間の宿代として受け取ってもらえればトーマとしては気が楽なのだが、きっとルウンの方はそうもいかないだろうことは容易に想像できる。


「どうしたものか……」


 キッチンの調理台の前、トーマは難しい顔で腕を組み立ち尽くす。

 素人の触診はあまり当てにならないかもしれないが、おそらく初日からほとんど熱が下がっていない。

 そのせいか食欲もなく、スープならばというオーダーに従って作ってはみても、食は思ったほどに進まない。

 思考が薬を求め始めたところでぶつかるのは、窓を叩く横殴りの雨。

 雨が嫌いではないトーマも、この時ばかりは流石に煩わしく感じてしまう。


「どうしたものか……」


 同じセリフを呟きながらため息をついて、トーマはようやくルウンの食事を作るために動き出した。



 体力をつけるためには肉だ!と至った結論の元、まずは地下の食料庫からベーコンを持ってきて粗く刻む。

 宿屋の女将自慢の野菜出汁がまだ残っている鍋から、ニンジン、セロリ、キャベツを取り出し適当な大きさに切ったら、炒めたベーコンと一緒に小鍋に移した野菜出汁に投入。そこに更にトマトを加えて潰しながら煮込んだら、塩と胡椒で味を整える。

 器に盛ったところで上から粉末にしたチーズをかけ、出来上がった二人分のスープをお盆に載せて寝室へと運ぶ。

「入るよ」と一声かけてから寝室を覗くと、声に反応したルウンがもぞもぞと体を起こすところだった。


「大丈夫?ふらふらしない?」


 コクっと頷いたルウンの膝にお盆を乗せると、トーマは自分の分の器を取り上げて丸椅子に腰を下ろす。


「今日はね、トマトスープにしてみたんだ。熱いから気をつけてね」


 器の中を覗き込んでいたルウンに声をかけると、早速その手がスプーンを掴んだ。掬ったスープに息を吹きかけて、慎重に口に運ぶ。


「……美味しい」


 向けられたはにかむような笑顔に、トーマも釣られて微笑み返した。


「それはよかった」


 相変わらず、ルウンの笑顔に反応して心臓が高鳴りだす。

 けれど今日はそこに、大きな不安も絡みついていた。


「一緒に、パンも食べない?スープにつけて食べるの。どうかな」


 トーマの提案に、ルウンは小さく首を振る。

 答えは予想通りだったけれど、ついガッカリする気持ちが表に出てしまって、トーマは肩を落とす。

 それを見たルウンは、おずおずと口を開いた。


「……トウマ、お腹空いてる?」

「え?あっ!違うんだよ。僕はね、全然。これで充分だから」


 予想外の言葉に慌てて言い募るトーマに、ルウンの表情が疑わしそうに変わる。

 ルウンが体調を崩して寝込んでからこの方、同じものを食べ、どうしても食べられないときは一緒に食べないという日々を送ってはいたが、ある程度の空腹には慣れているトーマにしてみれば、これくらいなんてことはなかった。

 旅人をしていれば、時には水だけで何日も凌がなければならないような事態にも陥ったりする。

 その時のひもじさに比べたら、こんなのは空腹のうちにも入らない。


「僕のことは、何も心配いらないから。それよりルンは今、自分の体のことを心配するべきだよ」


 疑わしそうな視線を真っ向見つめ返すトーマに、ルウンは勢いに押されたようにコクっと頷く。

 よし、と一つ頷いたトーマは、スプーンを口に運ぶ直前で、思い出したように顔を上げた。


「ところでルン、この家には風邪に効くような薬ってあったりするのかな?」


 ないだろうと今まで勝手に決め付けていたが、万が一ということもある。

 万策尽きかけているトーマは、僅かな希望を抱いて問いかけた。けれど、ルウンからの答えは予想通り。


「……薬、高いから」


 理由もまた思った通りで、トーマは今度こそ落胆を表に出さないように気をつけて、「そっか」と答えた。

 いざとなったら、やはり薬は買いに行くしかないらしい。

 そうなったら、薬を買うついでに医者も呼んでこようか。それとも、連れて行って医者に見せてから薬を買ったほうがいいだろうか。

 密かに頭の中で計画を練っていたトーマは、不意に視線を感じて顔を上げる。

 どこか気まずそうな顔のルウンと目が合った。


「おかわりあるよ」


 笑顔で声をかけると、ルウンの首が小さく横に振られる。そして、手にしていた器を遠慮がちにお盆に置いた。

 その意味は、言われずともトーマには分かる。

 残ったスープを勢いよく飲み干して立ち上がると、何も言わずにルウンの膝の上からお盆を持ち上げた。


「先に片付けてくるよ。少し待っていて」


 言いながらさりげなく器の中を覗けば、確かに減ってはいるものの、食べた量は半分にも満たっていない。

 思わず漏れそうになった悩ましげなため息を既のところで飲み込んで、トーマは寝室をあとにする。その背中を見送るルウンの瞳には、申し訳なさと少しの寂しさが滲んでいた。

 近頃、戻ってくると分かっていても、どうしても離れていく背中に寂しさを覚えてしまう。

 これまでは感じたことのなかったその感情が、風邪で弱ったルウンの心をじわじわと侵食していく。

 トーマの姿が見えなくなると、今度は少しでもその存在を感じようと足音に耳を澄ます。

 音だけでも、トーマが確かにそこにいると感じられれば、不思議と安心できた。

 トーマの足音以外にも、耳を澄ませば、色んな音が聞こえてくる。

 キッチンから聞こえてくる水音や、食器がぶつかる危うげな音、窓や屋根を叩く雨音に、吹き付ける風の音まで。

 しばらくそうして聞こえてくる音に浸っていると、やがて待ち望んだ足音が近づいてきた。

 かつて扉があった空間をジッと見つめていると、トーマが遠慮がちに顔を覗かせる。目が合うと、トーマは笑って寝室に足を踏み入れた。

 ルウンは、起こしていた体をいそいそとベッドに横たえ、お話を聞く体制を整える。寂しさも申し訳なさも、もうとっくに吹き飛んでいた。

 可笑しそうに笑って丸椅子に腰を下ろしたトーマは、咳払いを一つして声の調子を整え


「それじゃあ、また続きから」


 ほんの少し、思い出すような間を空けてから、語り始めた――。

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