第3節 住む世界が違うよな

 五時間目の授業を終え、HRを終え、放課後に突入する。


 龍崎はすぐさま席を立ち、そのまま学校を後にして、国道沿いにあるバス停へと向かった。バスを待っていると、デゥンデゥンバイクがデゥンデゥン音を漏らしながら、龍崎の眼の前を走り去っていった。


 バス停には東南高校の生徒がいて、普段バスを利用しない龍崎にとって、少しばかり居心地の悪い空間だ。


 しばらくするとバスが到着し、龍崎は30分ほどバスに揺られ、新深津しんふかつ駅で下車した。それから地下鉄北南ほくなん線に乗り換え、電車に揺られた後、大曲駅おおまがりで下車してから地上に出た。


 ここ大曲駅周辺はその昔、深津ふかつ城下町へ玄関口のような場所であった。が、地理的な要因か、もしくは戦略的な要因か、恐ろしく大曲な道が形成されており、その名残が今も残っている。  

 大曲駅前にあるマンションや建物は、大曲の道に沿うようにして立ち並んでいるために、曲線を描くかのように佇んでいるのだ。

 と、龍崎は日ごろの怖い人から逃げるため、詳しくなった深津市の地理を復習した。

(テストに出るといいな)

 そうやって、無理やりに別のことを考えなければ、気分が落ち込んでしまうと龍崎は思ったのだ。


 龍崎は湾曲した道に沿って歩く。しばら道なりに進み、そして本日の目的地である「Butyrum」という名前のマンションに到着する。


 マンションの外観は淡い黒色。傾いた太陽が筒のようなマンション全体を赤く染めていた。だが、エントランスからは柔らかな色をした光が漏れている。


 龍崎が初めてマンションを訪れた際、マンション名の意味が分からなかったが、のちに調べてみると、ラテン語でバターの意であることを知った。そして同時にこのマンションの耐震強度と、建物名にバターと付けるオーナーの神経を疑った。

 だが龍崎が神経を疑ったオーナーこそが、彼の叔父である。


 龍崎はエントランスへと向かい、呼び出し機械を操作して叔父を呼び出す。


「――はい」


 呼び出しの機械に取り付けられたスピーカーから声がした。低く、落ち着きのある声質である。

 龍崎は、呼び出し機械に備え付けれているカメラから視線を外した。


「俺です。龍崎、ひゅ‥‥‥ひゅどらです」

「ああ、よくきた。開けるね」


 自動ドアのロックが外れる音がして、龍崎はと小さく溜息を漏らす。

 龍崎はここに来るたびに自分の苗字と、名前を口にしなくてはならない。その度に彼は、このマンションに住む叔父と、自分の父親は兄弟であるのだと実感してしまうのだ。


 龍崎はエレベーターに乗り込み、階層を選択する。扉はゆっくりと締まり、選択した階まで来ると、管楽器のような音がエレベーター内に響き、扉がゆっくりと開いた。

 龍崎はエレベーターから降り、叔父の住む部屋までやって来て、すこしばかり時間をおいてからインターホンを押した。


 するとなんの前兆もなく扉が放たれ、部屋の中から叔父が姿を見せた。中から暖かく、柔らかい光が漏れている。


「おお、よく来たね。さあ、上がりなよ」


 顎に髭を蓄え、髪は白髪交じり。その顔は、どことなく龍崎に似ている。この人物ことが龍崎の叔父であり、龍崎の父親の、弟にあたる。

(……やっぱり似てんな)

 遺伝がどうとか、血がどうとか、そういう話を抜きにして、それこそ本当の兄弟か、もしくは親子のように似ていると龍崎は思っているのだ。

 そして同時に龍崎は、もし叔父が父親であれば、今のようにそれほど困った事態にはなっていなかっただろうとも思ってしまい、やや陰鬱な気持ちになる。間違いなく、叔父のような人間が父親であれば、何か間違いを犯すことなどないだろうと。

 と、そこで龍崎は笑みを作る。


「叔父さん、お邪魔します」


 龍崎は叔父の背中を眺めながら、リビングへと続く廊下を歩く。脇を流れて行く扉の向こうには、脱衣所、寝室、書斎、子供部屋があるのだろうと龍崎は考える。ただ、その中で龍崎が使うのは脱衣所ぐらいである。食事の前に手を洗うためだ。

 それぞれの部屋へと続く重厚な扉を見て、綺麗に磨かれたフローリングを見て、明るく温かな照明を見て 龍崎はどれもこれもが自分とは程遠いものであると思った。


(……住む世界が違うよな)

 まるで自分の住む家とは、世界が違うと思っているのだ。

 と、龍崎は正面に顔を戻して、前を歩く叔父の後ろ姿を眺める。きっと自分の後ろ姿も、あのような、やや猫背なのであろうと。それだけが叔父と自分が似ている部分であり、それ以外は全くの真逆である。


 龍崎と叔父は連れ立ってリビングへと入る。彼はチラリと横目で、部屋の中を見渡した。見渡してもロクな感情を思い起こさせないと知っていながら、目を向けてしまうのだ。


 部屋はリビング、ダイニング、キッチンが一体となっているが、広さは20畳ほどあり、恐ろしく広い。ソファ、テレビ、机、椅子など、設置している家具や家電の種類は龍崎家と同じである。だが、そもそもの質が違っていた。


 否、正確に言えば「所持する人間の格が違う」とまで龍崎は言いたかった。

 もし、叔父の家にある家具と、龍崎家にある家具をまるまる交換したとしても、叔父の家であれば龍崎家に設置されている古びた家具でも輝くだろうし、逆に龍崎家に叔父の家の家具を飾っても、間違いなく独立した存在、いびつになってしまうだろうと龍崎は想像するのだ。


 中でも一番目立つのは本であろう。大きな本棚に整理された小説やハードカバーが並んでいる。が、龍崎は本をロクに読まないために、そこにある本について論じることは出来ないのだ。


「いらっしゃい。ヒュドラくん。遅かったね」


 と、よく通る声がした。

 龍崎が声のした方向へ顔を向けると、キッチンカウンターから顔の覗かせている一人の女性がいる。


 龍崎の叔母。年齢は30代、顔は若々しく、いつも笑顔を浮かべている。叔父とは夫婦ということになる。


「ヒュドラおにいちゃん、おはよ……ちがった、こんばんは」


 と、口足らずの挨拶をしたのは叔父夫婦の娘である美香みかである。母親に似ているためか、美香もいつも微笑んでいるような顔の造りで、愛らしいという表現がこれほどピッタリな人間も珍しい、と龍崎は美香の顔を見るたびに思っていた。


「叔母さん、美香みかちゃん。こんばんは、お邪魔します」


 龍崎は軽く頭を下げた。と、そこで龍崎は、一週間前に葵から得た情報を思い出した。


「美香ちゃん誕生日おめでとう。いくつになったのかな」


 龍崎はその場にしゃがみながら美香に質問する。意図的にその質問をする。きっと美香は前の年齢を言うだろうと。

 すると美香は「んー」と唸る。


「えっと‥‥‥4さい! あれ? ちがう5さい?」


 と言って4本の指を立てる美香みか

 その姿に笑い出すのが叔父と叔母である。5歳の誕生日を迎えたにもかかわらず、未だに前の年齢を堂々と言う娘の姿が、面白かったのであろう。

(喜んでもらえたなら結構)

 なんとなく龍崎は、こうやって叔父夫婦を喜ばせるのだ。

 と、そこで叔父は笑みを浮かべながら龍崎を見た。


「さあヒュドラ君、座りなよ。晩御飯にしようか」

「そうですね。あ、いや、先に手を洗ってきます」


 龍崎はリビングを離れ、洗面所に向かう。手を濡らして、石鹸を手に取り、泡立て、そこで鏡を見た。


 鏡には映る龍崎焔雄虎である。その顔はどこまでも叔父に似て、それこそ親子だと言っても誰もが信じるであろう。

 だが親子ではない。

 叔父の子供は美香であり、龍崎の父親はあの男であるのだ。だから龍崎にとって叔父を見るということは、「俺は、あの男の息子なのだ」と再確認するばかりなのである。


 叔父の家にあるモノ。洗面所に置いてある泡立ちも香りが良い石鹸。先の揃っている歯ブラシ。水垢がない洗面器。毎日変えられているであろうハンドタオル。そのどれもこれもが、龍崎にとっては、自分が生まれ育った環境との違いを突きつけてくるようであり好きではない。


 龍崎はリビングに戻ると、料理が並べられている席につく。

 テーブルの上には、各々の前にはお盆があり、ご飯、みそ汁、ホウレンソウのお浸し、煮魚にサラダ、焼き豆腐など言った料理が並んでおり、湯気が立っていた。


(―――手が込んでる)

 龍崎は、叔父の家で食事をする際にはいつも同じことを思う。

 それこそ初めて叔父の家で晩御飯食べたときは、自分の家の晩御飯の違いに戸惑ってしまった。一目見ただけで、手が込んでいると思える料理を食べたのが、龍崎はその時が初めてであったのだ。


「じゃあ食べようか。美香みか、頂きますって言ってくれるかな」


 叔父がそう言うと、美香は胸の前で手を合わせ「いただきます」と間延びした声を出した。

 続いて龍崎も「いただきます」と言っては見たが、どうにもこそばゆい感じがしてならなかった。まだ両親と暮らしていた頃、そんなのは適当であり、ましてや家族そろっての食事というのも珍しかったのだ。


 龍崎は味噌汁を啜る。それから煮魚。甘辛く煮込まれた魚の身は柔らかく、箸で指すだけ難なく分けることができる。

 そしてごはん。白米ではあるのだが、紫色をした粒のようなものが混ざっている。雑穀米が混ざったいるのだ。その後に龍崎はほうれん草や漬物、そして焼き豆腐を頂く。


「ヒュドラ君。お腹減ってたのかい?」


 突然叔父に声を掛けられて顔を上げる。


「え、……ああ、はい。そうです」


 龍崎には食事中に会話をするという習慣がなかった。それはマナーがどうのこうのというよりも、ただただそういう環境で育ってこなかったからである。


 そしてそれは、自分の両親と同じ年齢あたりの叔父夫婦との食事であっても、同じなのである。ただ、葵とは食事中でも意図的に会話をしていた。なんとなく、そうしたほうがいいと思っていたからだ。


 と、そこで叔母は箸を止めて龍崎を見た。顔には変わらず笑みを浮かべている。


「ヒュドラ君も高校生なんだから、沢山食べないと大きくなれないよ。今日のご飯どう?」

「ありがとうございます。美味しいですね」


 龍崎はぎこちなく声を発した。彼にとっては、料理の感想を言うのが面倒というわけではなく、料理の感想を話す習慣がないのだ。

(飯を食わせてもらっている。仕方ない)

 別段、龍崎は叔父と叔母の事が嫌いではない。むしろ援助してもらっていることに感謝をしている。だからこそ彼は、出来る限りの愛想をふりまくのだ。

 と、そこで叔母は隣に座る美香に顔を向けた。


「この子もヒュドラ君ぐらいになると、もっと食べるのかしらね」


 龍崎も、同様に美香に顔を向けた。


「そうかもしれませんね。でも葵のヤツはそんなに食べないですね」


 龍崎は何気なく、葵の話題を食卓へと出した。叔母は、葵のことを好いているからだ。

 すると叔母が、


「葵ちゃん。食べないと大きくなれないのに心配だわ。家ではちゃんとご飯作ってるんでしょ?」


 と言えば、叔父が、


「大丈夫だって。葵ちゃんは料理が上手だろ?この前一緒に作った料理は美味しかった」


 と答える。


「確かに葵ちゃんは料理できから大丈夫よね。ウチの娘のお姉ちゃんになってくれないかしら」


 叔母は締めくくるようにして言葉を放ち、美香の顔を見る。

 龍崎はそんな叔母の眼を見て、

(母親の眼というヤツなのだろうか)

 どこまでも優しく、そして暖かい眼差しである龍崎は思った。


「あ、それされたら俺が餓死しますね」


 と、龍崎はそう言えば、叔父と叔母が顔を見合わせて笑う。冗談であると分かっている笑い。だが龍崎にとっては、叔父と叔母の機嫌を取るために言葉でしかない。

 叔父と叔母が、龍崎兄妹を見捨てることはしないだろうと思ってはいる。だがそれでも、できるだけ笑わせておこうと思っているのだ。円滑に何事もなく、面倒を見てもらうために。

 龍崎が地面に頭を擦り付ける相手は、怖い人か、もしくは叔父と叔母なのである。


 と、叔父と叔母の笑いが引いた辺りで、龍崎は手に持った茶碗と箸を置き、頭を下げる。


「あ、そう言えば今月の分頂きました。ありがとうございます」


 すると叔父は笑みをこぼした。


「ヒュドラ君。そんな気にすることはないよ。君たちが大人になるまで世話をするって決めているから」

「そうね…まあ娘みたいなのが増えたようなものよ」


 と、叔母が言って笑う。

(娘みたいなの‥‥‥な)

 と、龍崎は少しだけ自虐的な笑みをこぼした。しかしそんな顔を叔父と叔母には悟られないために、頭を上げるタイミングで笑みを消す。

 そこで叔父が「ああ、そうだ」と言葉を発した。


「そういえばヒュドラ君。葵ちゃんから推薦の話しって聞いてる?」


 叔父は箸を動かしながらそう言った。

 龍崎はピクリと眉を動かした。葵の推薦の話も、どこの高校の推薦なのかも、そしてその推薦を諦めようとしていることも、全て知っている。だが、なにも言えない。葵に釘を刺されている。


「ええ聞きました。さすがに時期が早いですけど、先生から成績的にイケるだろうって言われてる……やつですかね?」

「そうそう、いやスゴイよね。葵ちゃん、勉強ができるのは聞いていたけど、そこまでとは思ってなかったからさ。で、どのレベルの高校を目指すか聞いてるかい?」

「あー……いえ、そこまでは」


 龍崎はそう言いながら味噌汁を啜るふりをして口元を隠した。

 すると叔父は「うーんと声を発した。


「そうなのかい。実は叔父さんも何も知らなくてね。聞いても『まだ……ちょっと』って教えてくれないんだ」


 そして叔父の言葉に続くようにして、


「確かにそうね。葵ちゃん、何か隠しているわ」


 叔母が左手の親指と人差し指と中指を開き、顔に当てる。

 フレミングの左手の法則というヤツであろうと、龍崎は昔に見たドラマを思い出す。叔母は、お道化ているのだろう。

 事実、叔母は叔父の目を見ると叔父が小さく微笑み、それから叔母も小さく笑った。

 対して龍崎は苦笑いを浮かべた。

(よく笑う夫婦だ)

 と、そこで叔父が真剣な顔になる。


「でね、ヒュドラ君。葵ちゃんにどんな高校に行くか聞いておいてくれないかい?公立でも私立でも構わないけど、どのあたりを狙うか知っておきたくてね」

「……わかりました、聞いておきますよ。でもダメなときは‥‥‥そうんですね、美香ちゃんにでも頼みましょう。たぶん聞いてくれます」


 龍崎は顔を動かして美香を見る。

 突然に名前が呼ばれて美香は、キョトンとした表情を浮かべたが、右手を高く上げた。


「あい」


 その動作に叔父と叔母は再び笑った。

 だが龍崎には笑えない。なんとなく、こういったときにどう振舞えばいいのか、分からないのである。そしてなにより、葵の推薦の件は、もうすでに葵の中で諦めてしまっているのだ。どの高校の推薦なのかも知っている。そしてその推薦を蹴ろとしている。だから笑えない。

 と、そこで叔父は笑顔を浮かべたまま口を開く。


「じゃあ頼んだよヒュドラ君。もしこの近くの高校だったらさ、ウチに部屋とか余ってるし葵ちゃんとヒュドラ君で————」

「―――――あなた」


 叔父の言葉を叔母の声が遮った。


 龍崎は叔母を横目でチラリと見た。彼女は目に消えかけの焔のような、僅かな敵意のようなモノを滾らせていた。むろん、できるだけ隠してはいるが、漏れ出しているのだ。あの男の息子だから娘に近付けてはならない、と。


 叔父は、ばつの悪そうに机に視線を落とした。

 だが、場に沈黙を迎え入れるよりも早く龍崎が口を開く。


「まあその時はお世話になるかもしれませんが、それだと俺が高校から遠くなるんで。お世話になるとしたら葵だけですね」


 と、龍崎は笑みを浮かべて答える。降りかかった沈黙が、引いていく。


「美香ちゃんも葵姉ちゃんと住みたいよな?」

「え? お姉ちゃんと住むの? え? ホント? え?」


 と、美香は目を何度も瞬きをさせた。

 その仕草が余程面白かったのであろう。叔父と叔母は、お互いに顔を見てから微笑みを浮かべた。

 龍崎は誰にもバレないように、静かに溜息を吐き、叔母を横目で見た。


「とにかく分かったら報告します」


 龍崎はそう言って食事を再開する。確かに赤椿高校は、龍崎の自宅よりも、ここ大曲からのほうが近い。だが、葵が叔父叔母夫婦と住むことになる可能性は低い。なぜなら葵は、叔父と叔母にこれ以上の迷惑を掛けることを、諦めたのだから。

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