第6節 愛してるわヒュドラくん。はーと

「で、ヒュドラ君。本当に妹さんの悩みに心当たりはないのかしら。上手く聞けないなら、もう探るしかないけれど」


 涼香はそう言いながらフォークに挿したパンケーキを口に運び入れた。そしてもしゃもしゃと嬉しそうに咀嚼を始める。


(……黙ってモノ食べてりゃ可愛いのに)


 龍崎の自室にて、二人はテーブルに向かい合って座り、パンケーキを食べている。

 パンケーキ作り終え、紅茶を淹れたとことで涼香が「ではヒュドラ君の部屋に行きましょうか」と言った。

 龍崎は「リビングでもいいぞ」と言ったのだが、涼香が「ご家族が帰ってきたとき気まずいわ」と言ったからだ。


「心当たりなあ……でも葵のヤツから悩みらしい悩みとか聞いた覚えがない。可愛いし、勉強もできるし、料理もできるしな。俺と違って完璧なんだ。はは」

「さらっと自分を卑下するのやめなさいな。それに完璧に見える人間でも悩みの一つや二つくらいは持っているもよ」


 と、涼香は紅茶を一口飲んで息を吐いた。その唇は紅茶に濡れ、吐息のためもあってか艶めかしさえ帯びている。

 そんな涼香の唇から龍崎はパッと目を逸らす。なんとなく見ていられなかったのだ。


「アイツが悩みなあ……できる人間の悩み、ね……」


 と、言いながら龍崎はまたしても涼香に視線が向く。

(……コイツも完璧じゃん)

 浮舟涼香という人間は、ときに可愛く、ときに美人で、勉強もできて、金持ち。さらには人を骨抜きにしてしまうな犬かぶり能力を身に付けている。むろん葵と違うとことはあるが、似通っている部分が多い二人であるだろうと龍崎は思ったのだ。


「完璧ってなら浮舟もデキる人間だろ。そういう人間なら、なんとなくわかったりしねえのか?」

「さすがにわからないわ。まあ確かに、私は可愛いし、綺麗だし、あと勉強もできるほうね。ちなみに学年成績は10位以内よ。あれ? 私、本当に完璧ね。こまっちゃう」

「……浮舟ってさ。さらっと自慢するの好きだよな。嫌われたりしない?」

「いいえ。まったく。犬かぶりがあるもの。話しかけやすくて天然。それが私のイメージ。マヌケな子犬のような人間を見て、嫌悪感を抱く人間なんてそうそういないのよ。ワンワン」


 と、涼香は最後に犬の鳴き真似をした。

 (……キモ)

 と、龍崎は思ってみたが、黙っておくことにした。事実、間違いではない。


「ところで」


 涼香がジッと龍崎の眼を見た。

 見られて龍崎は、息を飲む。涼香の眼が特別な魔力でも込められているような、妖艶な輝きを放っていたからだ。否、見る者の眼の輝きを奪ってしまってしまう、そんな眼であったからだ。

 そうして涼香がゆっくりと口を開く。


「ヒュドラ君、そのパンケーキ、食べないなら私にくれないかしら」

「――は? パンケーキ?」


 龍崎が涼香の皿に視線を落とすと、ホットケーキはもうなくなっていた。

 そして涼香は龍崎の前にあるホットケーキが盛られた皿を見つめた。ジッと、モノ欲しそうに。たしかに龍崎はすでにホットケーキを食べることを放棄している。量が多すぎたのだ。涼香が調子に乗って作りすぎたために。


「ああ、いいぞ。くれてやる。ほら喰えよ」

「あら、愛してるわヒュドラくん。はーと」


 と、言って涼香は皿ごとパンケーキを奪い取った。そして嬉しそうに「美味しい」と言ってパンケーキを頬張りはじめる。

 対して龍崎は、まことに不本意であると思いながらも、自分の心臓が跳ねるのを感じた。不覚にも、可愛らしく思ってしまったのだ。だが。

(騙されるな……この女は犬被りなんだ)

 と、自分を戒める龍崎。


「あーはいはい、俺も愛してるぞ。超大好き」

「……調子に乗らないで。私が愛しているのはパンケーキをくれたヒュドラ君であって、アナタ本体じゃないの」

「……はい」


 龍崎は首をもたげた。疲れているのだ。

 そして涼香は、龍崎から受け取ったパンケーキを貪り、紅茶を飲んでからひと息ついた。「はあ」と息を漏らし、恍惚のような表情を浮かべる。そして彼女はおもむろに唇を動かし、


「さて、ヒュドラ君。私はパンケーキをご馳走になったし、そろそろお暇するわね。もうじき妹さんも帰って来るでしょうし」


 と言って立ち上がった。

 すると龍崎も何気なしに、


「あ? まだ帰って来ないと思うけど、お前がそれでいいならいいぞ。あと見送りは面倒だ……いや、待て違う。ざっけんな、パンケーキだけ喰って帰る気かテメェは」

「……なにかしら? いったいなにを言ってるのかわからないのだけれど」

「舐めてんのかお前。とっとやることやるぞ」

「やること……とっとと……ああ、そういうことなのねヒュドラ君」


 涼香は言うとストンとその場に腰を下ろしてから、龍崎をジッと見た。

 龍崎は涼香が何を思い出したような口ぶりを見て、胸を撫で下した。パンケーキだけ喰って、本題である葵の『カワイガリ』に対する話し合いを忘れているのではないかと思ったのだ。

 と、そこで涼香はゆっくりと口を開く。


「そうね。私はヒュドラ君からパンケーキを貰ったわ。ならアナタに何かお礼をするべきなのでしょう。ギブアンドテイク、これが私だもの」

 と、涼香は頷き続けざまに言う。

「で、なにが欲しいのかしら。なにをして欲しいのかしら。なにをすればいいのかしら。パンケーキを貰ったお礼だからそうね……なんでも言うこと一つ聞いてあげるわ」

「……なに言ってんのお前?」

「だから、パンケーキのお礼をせずに私が帰ろうとしたからヒュドラ君は引き留めたのでしょう? ほらこんなに可愛い美少女がなんでも言うこと聞いてあげる、と言っているのよ?」

「浮舟、お前なんか勘違い――――」

「ああ、いいわ。もうわかった。それにさっき『とっとと、やること、やるぞ』って言ったものね。ヒュドラ君も男の子だもの。しかたないわ。さすがに私も、そこまで世間知らずの生娘ではないもの」


 涼香は言うのが早いかパッと立ち上がり、そのまま部屋にあるベッドまで歩いていく。そして滑り込むようにしてベッドに入る。

 龍崎はそんな涼香の姿を眺めながら立ち上がり、ベッドに歩み寄る。


「……だからなにしてんだお前」

「もう、女の子にそんなことを言わせる気なの? パンケーキのお礼に、私の身体でもなんでも好きにしたいのでしょう? いいのよ? パンケーキのお礼だもの」

 と言って涼香は、右手で首元のリボンをするりと解き、セーラー服のチャックを鎖骨辺りまで下す。同時に左手を使って、セーラー服の裾をたくし上げる。衣擦れの音がして、白い肌がチラリと覗いた。

 だが龍崎は、小馬鹿にするような眼を涼香に向けた。


「わかった……浮舟。お前ホントはアホなんだろ。勉強できるアホなんだ」

「失礼ね、アホではないわ。これはパンケーキのお礼。そのお礼に私の身体を差し出そうと言っているのよ。価値はつり合っているわ。ちゃんと対価は受け取るべきよ」

「自分の身体がパンケーキと同じ値段と思ってんのか! やっぱアホだろ!」


 龍崎は久しぶりに叫んだ。普段から大きな声を出すことはしないため、少々声が裏返ってしまっている。


「ああ……すごい……ヒュドラ君の匂いがするわこの枕……」

「頼むからもうやめてくれ! 恥ずかしいだろ!」


 龍崎は両手で顔を覆いながら、おいおいと泣きそうになってしまった。事実、彼は涙目になっている。

(セクハラだ。出るとこ出て訴えてやる)

 龍崎はそう決意して涼香に睨みを聞かせた。

 すると涼香は、枕に顔を埋めるようにして龍崎を見上げた。上目遣い、というヤツである。


「それとも……わたしじゃ……嫌?」


 涼香はそう言いながら、右手をゆっくりとスカートの裾へと伸ばし、細い指先で掴む。そしてそのまま、スルスルと捲し上げていく。白く透き通った、丸みを帯びた脚が露わになっていく。

 そんな光景を見た龍崎は、思わず生唾を呑み込んだ。


「う、う、浮舟、お前いい加減に―――」

「ふっ……ふふ」


 突然、涼香が笑みをこぼした。こぼしてから、笑い出した。


「あー、あはは。面白いわねヒュドラ君は。冗談よ。冗談。本気にしちゃダメよ、これがパンケーキのお礼ね。いい夢見れたかしら?」


 涼香はベッドに転がったまま「あははは」と笑っている。

 対する龍崎は、「へっ」と笑った。純情な気持ちを弄ばれたと気づき、同時に自分がいささか期待を持っていたという事実に嫌悪したのだ。


「このクソビッチめ……男の心を弄ぶようなことしやがって」


 ところが涼香は心底心外、という顔をして唇を尖らせた。


「あら。私、ビッチではないわ。そもそも経験がないもの。だから私への言葉使いすら優しくする必要があるのよ? それができないってことは、童貞なのかしらヒュドラ君は」

「……童貞への言葉遣いも優しくしてもいいと思うぞ?」


 そう言って龍崎は首をもたげた。少々疲れたのだ。

 が、そこで。涼香の右手が龍崎のネクタイを、ガッと掴んだ。


「浮舟、なにして―――」


 涼香は龍崎の言葉を無視するようにして、彼をグイと引き寄せた。

 すると龍崎はベッドに倒れ込むようにして、涼香の上に覆い被さるような体勢になってしまった。自然と2人の顔の距離は近くなる。吐息が掛かってしまうほどに。


「でも、私、ヒュドラ君のこと……けっこう好きよ?」


 涼香は悪戯をする子供のような笑みを浮かべた。ピンク色の唇が揺れる。甘く、粘着質な声色だった。

 が、龍崎は「へっ」と笑みを浮かべる。


「もういいって。騙されねーから。男子高校生はそこまでチョロねーぞ」

「あら残念。でも、手を出す勇気がないことぐらい知っているわ」


 涼香はそう言ってネクタイから手を離し、龍崎も身を起こすために身体を動かしかけた。

 と、そのとき。―――ガチャリと音がする。その音は部屋の入口付近から聞こえた。

「――――ちょっとお兄ちゃん! さっきからうる……さ…………い? い?」


 そう声がした瞬間、龍崎は肩越しに振り返った。考えての行動ではなく反射に近い動き。名前が呼ばれたから振り向くのと同じ。そして視線の先にいるのは、葵。

 龍崎の妹である葵は口の形を「い」を発音するときのままにして固まっていた。


「お、お、お、お、お、お兄ちゃん……え、えええぇぇぇ」


 そんな妹の姿に龍崎は「ん?」と首を傾げる。なぜそんな顔をしているのだろうかと。顔を前に向け、視線を涼香に戻した。

 すると涼香は苦笑いを浮かべながら、


「ヒュドラ君……この体勢はマズいわ。不味い」


 と力なく「ははは」と笑った。

 だが龍崎は、首をさらに傾げ、


「あ? 何がまずいん――――あ」


 とそこで気が付いた。

 涼香に跨るような恰好の龍崎の姿勢。しかもベッドで、しかも涼香の制服は乱れていて。これを見て葵がなにを思うのかという話である。

 瞬間、龍崎は涼香から飛び退いて、ベッドの横に立った。


「違うんだ……葵……これは、これはっ!」


 龍崎は額に小さな汗を浮かべ、頭を働かすがなんの言分けも出てこなかった。

(これは一体なんだなんだッッ!)

 龍崎は、ばっと後ろを振り返る。この状況を説明できるのは、この状況においてもっとも発言力が高いのは、女であると。だから浮舟涼香という女が、葵という女に誤解だと説明するしかないのだと。

 すると涼香は、龍崎のそんな考え、想い、思考を感じ取ったのかもしれない。身体を起こして、ベッドの上に座り直した。


「葵ちゃん……これはね……実は……」


 と、そこで犬被りの涼香が現れた。そして口が開く。


「実はコレは……パンケーキのお礼なの。龍崎君からパンケーキを貰ったからなの! 私の身体はパンケーキと同じ価値なの!」


 葵がぴしゃりと扉を閉めた。シン、と部屋が静まり返る。


「このポンコツがあああああああ!」


 龍崎は久しぶりに大声を揚げた。

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