第5節 愚民に刺されますように

 人間、なにかしらの欠点がある。

 龍崎はそんなふうに思っていた。例えば美人で可愛くて完璧な容姿をしている人間は、料理ができないとか味オンチだとか抜けた部分があるとか。


 だが龍崎は、背もたれを抱くようにして椅子に座り、台所で調理している涼香の後ろ姿を眺めながら「できるやつはなにをさせてもできる」と思い直していた。


 あの後、龍崎は涼香を家に招き入れパンケーキを作りましょうという流れになった。すると涼香は台所にあったエプロンを勝手に持ち出し、勝手に調理を始めてしまった。

 龍崎は「俺も手伝うか」と思いたち、涼香に「なにすればいい?」と尋ねたところ「では、薄力粉とベーキングパウダーを混ぜて、粉振るいをしてくれるからしら」と言われた。

 しかし龍崎が「粉振るい?」と疑問形で尋ねたところ、涼香は眉をひそめ「……ではお玉を出してくれるからしら。見当たらないの」と言い放つ。

 そこで龍崎は「あ、お玉な。ん? お玉ってなに使うんだ?」と疑問形で尋ねつつおたまを渡したころ「アナタが料理できない人間なのは分かったら、座っておきなさい。料理ができない人間ほど台所で邪魔な存在はないわ」と言われた。だから龍崎はおとなくし涼香の後ろ姿を眺めているのである。


「浮舟……お前料理できるんだな」


 龍崎は調理を続ける涼香の後ろ姿を眺め、そんなことを言った。別段、パンケーキの一つや二つ作れることがその他の料理も作れるという理由にはならない、と龍崎は知っている。というより葵からそんな話を聞いているのだ。『料理ができるってのはねお兄ちゃん。冷蔵庫の中にある食材で一品作れるってことなんだよ』と。

 すると涼香は、ボールの中身をかき混ぜている手を止めることなく、言った。


「それは料理ができるという言葉の定義にもよるけれど……でも、そうね。しいて言うなら『冷蔵庫の中にあるものだけで一品作れるというのが本当に料理のできる人間……というよりも家庭料理が作れる人間』だと思うわ。ま、料理ができないヒョドラ君にはわかないでしょうけど」

「……なるほど、認める。浮舟、お前も料理がマジでできるらしいな。すげえな」

「……? なぜ褒められたのか謎だけれど。というより、ヒュドラ君が料理できなさすぎなのよ。ちょっとは学んだらどう?」

「あ? 俺が料理できるようになっちまったら、葵がメシを作ってくれなくなるだろうーが。俺は三食とも妹の飯が食べたいだよ」


 そう龍崎が言うと、そこで涼香は首を傾げ、なんとなしにであろう、言った。


「あら。御飯は妹さんが作っているかしら。珍しいご家庭なのね」

「は? あ、いや……」


 と、龍崎はばつの悪そうな顔をして、自分の失態に気が付いた。龍崎家ではなぜ葵がご飯を作っているのか。答えは簡単。両親がいないから。だが、もしこの話題が続けば、そのあたりのことに涼香に触れられるかもしれない。それを避けたかった。というよりも、言いたくなかった。そもそも言う必要もないのだ。


「ま、昔からだな。葵がメシを作るのは」

「……へえ。そうなの。てことは親御さん、共働きで結構遅い時間まで働いているとか?」

「……だな。ウチでは普通なんだよ。てか、そういうもんだろ。どこにでもある家庭の事情ってやつだ」


 すると涼香は「ふーん」と何気なさそうに呟いた。


「家庭の事情ね」


 とだけ一言。

 そこで龍崎は小さく息を吐く。嘘を付いた。だが、だからと言って罪悪感はない。涼香になにか勘繰られたかもしれないが、色々と突っ込んで聞いてくる人間ではないようで、そこだけはありがたかった。


 ふとそこで龍崎が顔を上げる。すると涼香が、温めておいたフライパンをコンロから持ち上げた。それからフライパンの底をふきんに押し当て、再びコンロの上に戻す。続けてフライパンに生地を流し込み、生地を焼き始める。

 と、そこで涼香は「ああ、もしかして」と口にした。


「ヒュドラ君……アナタ、両親を一緒に住んでいないのかしら」


 龍崎の身体が固まった。いったい全体、どこをどう辿ればそんな結論に辿り着くのか。


「いや、え? いやいや、そんなわけ」

「ほら、フィクション作品によくあるでしょう。父親は世界を股にかけるビジネスマンで海外に単身赴任とか。母親はそんな夫と一緒に海外にとか。でも子供は日本での生活があるから一軒家に暮らしているとか。もしかしてヒュドラ君のお家って‥‥…」

「いやねーから。なんだそのアニメとか漫画の主人公みてぇーなヤツは。妹と二人暮らしとかねーから」

「あら、そう。残念ね。そんな人に一度会ってみたかったのよ。実在するのかどうかってね」


 そう言って涼香はプライパンの中にある生地を、フライ返しでひっくり返す。

 そんな涼香の姿を眺めつつ龍崎は、半笑いを浮かべた。涼香の言った内容がまったくの見当違いとは言え、妹と二人暮らしという点だけは合っていたからだ。


「つかなんだ? なんでそんなヤツに合ってみたいだ? 憧れてんの?」

「……別に憧れてはいないわ。まあ強いて言うなら下世話な話だけれども、私、他人の家庭というものに興味があるのよ」

「はあ。興味ね。なんか変わってんな浮舟」


 そう龍崎が言うと、涼香はチラリと肩越しに後ろを見た。


「……まあ変わっているのでしょうね。私の家、一般的に言えば変わっている……というよりも少数とでも言うのかしら。だから人様の家庭というものに興味があるわ」

「ふーん。そうかよ」


 龍崎は自虐的に笑った。龍崎家は一般的などではない。一般的でないと言えないのであれば、大多数ではない。そんな家庭だ。


「へっ……変わってるってアレか? 家がすげぇ金持ちで。だから庶民の暮らしが気になるとか、そんなのか?」


 なんて、龍崎は冗談を飛ばす。人は見かけによらないとは言う。パッとしない人間が実は偉い人なんてのよくある話。しかし怖い人は除く。見かけ通り怖い。

 すると涼香は龍崎に向け身体を向け、台所にお尻を預けるかのようにして姿勢を崩した。そして彼女は人差し指を顎に当て、何かを思い出すかのようにして、眼を左上に動かす。


「んー、そうね。資産にキャッシュ、その他もろもろの収入源。それらを鑑みれば裕福な家庭ね」


 そんな涼香の言葉に固まる龍崎。聞きなれない言葉が多かった。


「……資産……キャッシュ……なんの話をしてんだ」

「だから収入とかお金の話でしょ。なにをもってそう言うのかはわからないけれど、所謂お金持ちなのよ、私の家」 


 龍崎は眉をひそめ、涼香をまじまじと見つめる。爪先から頭のてっぺんまでなぞるように見た。


「え、え? じゃあなにか? お前はお嬢様かなんかなの?」

「……そうね、たぶんお嬢様。父が大きな会社を経営していてね。それで母は……まあ専業主婦かしら。私の家は昔からそうなのよ。お家柄というやつ」

「へ、へぇ……あーそう」


 龍崎は顔を引きつらせ、涼香の顔を見る。これが、眼の前にいる女が、世で言うお嬢さまなのかと。容姿が良く、赤椿高校に通うほどに頭がよく、それでいて金持ち。完璧になにもかも揃っている人間、満ち足りている人間。だが性格に難がある。


「えぇ……嘘だろ……お前が? もっと……なんだ? お嬢様らしくしろよ」

「なによ、悪いのかしら。この愚民」

「おお、いまのはお嬢様っぽいぞ。最後は愚民に刺されて死ぬタイプの」

「それはお嬢様じゃなくて、お姫様でしょう。でも私、刺されるくらいなら愚民全員をギロチンにかけるタイプよ」


 龍崎の歯がカタカタと鳴った。時代が時代であれば浮舟涼香という人間は暴君になっていたのかもしれないと。

 そうこうしていると、涼香は焼き上がった生地を皿に移す。そして続けて、手際よく次々に生地を焼いていき、焼き上がったものを皿に移す。そうして涼香はしばらくの間、無言で生地を焼き続けていた。

 と、そこで涼香は呟くようにして言った。


「……ま、お嬢様なんて聞こえはいいけれど大したことはないわ。色々とあるもの。でもヒュドラくんにはわからないよね。毎日お気楽に過ごしていそうで。ああ、私も普通の家に生れたかったなー、いやーほんとにー」


 龍崎は、そんな涼香の言葉を聞いて皮肉交じりに笑う。


「お前が普通の家にどんなイメージを持ってるのかしらんが、貧しいけど温かい家庭とか絶対に嘘だと思うぞ、俺は」


 と龍崎は、いささか自虐的であると知りつつも、そんなことを言ってしまった。

 すると涼香は肩越しに龍崎をジッと見つめ、フッと笑みをこぼす。


「……まあ実際はそうでしょうね。貧すれば鈍するともいうもの。でも、私。別の家に生れたかったっていうのは、時々だけど本当に思ってるわ。アナタにはわからないでしょうけど」


 と、少しばかり、ほんのすこしばかり涼香は暗い顔をした。その顔は普段のぶっきらぼうな物言いをする彼女でもなく、ましてや犬かぶりのときの顔でもない。

 だがらこそ龍崎は、涼香の発言に何も言えずにただ口を閉じていた。


 と、そこで涼香がくるりと反転した。両手にはパンケーキが盛られた皿を両手に持っている。熱を帯びた生地からは湯気が立ちのぼり、甘い香りが辺りに漂う。

 涼香はニコリと微笑み、眼を輝かせながら口を開いた。


「ところでヒュドラ君。バターどこにあるのかしら? 冷蔵庫の中には見当たらないのだけれど」


 ところが龍崎は心底不思議な顔をして、首をかしげる。


「え? バター? なんで? パンケーキってバター必要だっけ? 高いから買わないんだウチは」


 すると涼香は一気に鬼の形相に変化した。


「これだから料理の出来ない人間はダメなのよ。ほんとダメね。大っ嫌いよヒュドラ君」

「おかしいだろ! なんでそんなことで俺は嫌われてんだ!」

「ああ、もういい。もういいわ。バターのないパンケーキなんて、パンケーキのないパンケーキみたいじゃないもの」

「ああわかった! お前パンケーキが食べたいんじゃないくて、バターが好きなだけだろ!」


 すると涼香は、龍崎を見下した眼を向ける。


「あのね。パンケーキにバターは絶対に必要なのよ。ああ、とろとろに溶けたバターを乗せたパンケーキがよかったわ。ああパンケーキ」


 涼香はわざとらしく肩を落とし、溜息をついた。その姿はしおらしく、可愛らしく、犬かぶりの涼香の動作だけを流用している。

 だから龍崎は犬かぶりだとわかっていても、それでもどうにかしてやりたいという気持ちが湧いてきてしまった。

(バター……バター……トロトロに溶けたバター)

 と、そこまで考えて龍崎が「あ」と声を出すと、その声に気がついたのであろう涼香が顔を向ける。


「浮舟。俺の家にバターはない。高いから買わないんだ。でもな……マーガリンならあるぞ!」


 そう言って龍崎は冷蔵庫をビシッと指さすと、涼香は小さく舌打ちをして、


「これだからお金のない家は嫌いなのよ。マーガリンをかけたパンケーキなんて、パンケーキではないわ」


 と言い放った。

(愚民に刺されますように)

 龍崎はそう祈らずには得なかった。

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