四章:交錯 2



 アゼレアがその景色を見て「ああ、これは夢なんだなぁ」と確信する理由は、それをもう何度も、眠るたびに見ているからだ。


 ――アゼレア。


 名を呼ばれる。

 自分に呼びかける誰かの声に振り返る。そこには長く艶やかな黒い髪をした女性が微笑んでいた。

 それは母だった。

 アゼレアの母――ベアトリーチェ。

 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、アゼレアの頭を撫でるベアトリーチェ。その撫でる手の温かさを、アゼレアは擦り寄るように受け入れる。夢だと判っているからこそ、この瞬間を噛み締めるのだ。

 記憶の中の母。

 思い出の中の母。

 今は亡き彼女との思い出。

 覚えている数少ない記憶の追想。

 どうか、この瞬間が一瞬でも長くあれ。そう、強く願う。

 頭を撫でられて、その温かさに酔い痴れて――気づけば目が覚めるから。

 だけど、どういうわけかこの日は違っていた。

 目を開いてもまだ母の姿は消えなかった。代わりに彼女がゆっくりと後ろを振り返って、誰かを呼んでいるふうに見える。

 どうしたのだろう? そう思って首を傾げていると――誰かがやってきた。

 当時の自分とそう違いない年頃の男の子。白い髪の男子が、母と何やら難しそうな話をし始めて――やがて、少年がこちらを見た。



 ――はじめまして、ミス・アゼレア。



 穏やかに微笑んで、男の子がこちらに手を差し出す。

 一瞬、どうしたらいいのか判らなかった。これは夢で、自分の記憶のはずなのに、その少年が誰なのか判らなかったからだ。

 おどおどと視線をさまよわせ、母を見る。母は可笑しそうに声を抑えて笑っている。

 男の子が、不思議そうにアゼレアを見つめていた。差し出された手と、男の子を交互に見て、ようやく握手を求められていたんだということを理解する。

 それくらいのことも察することのできなかった自分に恥ずかしくなりながら、アゼレアはそっと手を差し出して、少年と手に自分の手を重ねて――

 


 ――そこで目を覚ました。



 暫く呆けながら見上げた天井が、見慣れた掘立小屋――自宅のものであることを理解するのに数分を要した。

 寝転がっていたソファから身を起こし、視線を巡らせれば、そこは普段通りの自宅の風景で。

 当然、母の姿も、男の子の姿もない。


「……むぅ」


 未だ微睡みにある頭を働かせて、アゼレアはソファから降りて立ち上がる。そのままふらふらとバスルームへと向かった。

 ぞんざいに服を脱ぎ捨てて浴室に入る。

ノズルを捻ればお湯が吹き出し、湯気が浴室内に満ちた。

熱いシャワーを頭から浴びる。

お湯の熱が身体を包み、微睡んでいた意識が晴れていく。

 ――ああ、うん。おはよう。

 誰にともなく心の内で、そう呟く。

 身体を打つ沢山の水滴を見上げて……ふと、アゼレアは夢の内容を振り返る。

 いつも見る夢。

 だけど、いつもと違った夢。

 その違いは、あの少年だ。


「……あれは、誰だったんだろう?」


 記憶を掘り返してみるのだが、元々自分の古い記憶は曖昧だった。幼少期のころの記憶はおぼろげで、気づいた時にはもう、一人でノスタルギアを生きていたのだ。

 ただ、どうにも見覚えはある。確かに、あんな少年と、自分は昔出会っていた――という程度のものだが。

 もし、彼のことを思い出せれば、


「……何かが、判るのかな?」


 そう、誰にともなく呟いて、アゼレアはそっと自分の胸元に手を当てた。

 柔らかい肌の下で脈動するもの。本来は心臓があるはずの――その部分に収まっているもののことに思い巡らせて……




 ――…………あああああああああああああああ




 ふと、シャワーの音にまぎれて、何かが聞こえたような気がした。

 気のせいか、と思ったがどうやらそうではないらしい。声は確かに聞こえてきた。そして、それは徐々に近づいてきている。

 何処からだろうと耳を澄まそうとしたアゼレアだったが、その必要はなかった。

答えは、頭上から降ってきた。

 凄まじい衝撃と共に、天井を突き破って何かが屋根と一緒に転がり込んでくる。


「い……ってぇー!」


 突然の事態にぎょっと目を剥き言葉を失うアゼレアの目の前に転がり込んできた何か。

 白い外套に白い髪。左半分が爬虫類のそれを思わせる異形の少年――あの日突然姿を消して以来出会うことのなかった彼。

 トーリが、アゼレアの眼下に横たわっていた。




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