二幕:覚醒 2


 空気の壁を突き破っての超速の突撃は、立ちはだかる障害すべてを粉砕する。

 咄嗟に動かした蒸気馬の後ろ足が、突進の余波によって粉砕された。足を失ったことでバランスの崩れ、二人の乗った蒸気馬が頭から落下する。

 咄嗟にアゼレアを腕に抱えて飛び降り、少女を庇う形で背中から廃屋の屋根に落ちる。落下の衝撃で元々脆かったらしい屋根が倒壊し、廃屋の中に二人揃って転がった。

 数メートルの高さを落ちたうえでしたたかに背中を打ったトーリは、声にならない悲鳴を上げる。


「いつつ……トーリ、大丈夫かい」


 腕の中のアゼレアが、帽子を抑えながら顔を上げてそう訪ねてくるのに対して「まあ、なんとか……」と言って顔を顰める。

 パラパラと破片が降ってくる中で、トーリはどうにか身体を起こして立ち上がると、アゼレアに手を差し伸べる。その手を取って立ち上がるアゼレアが、溜め息交じりに言った。


「まったく……君は本当にとんでもないね。いったい何者なんだい?」

「何者……って言われてもね。一番答えに困る質問だよ、それ」


 この世界における自分の立ち位置とは、なんだろう。

 現実ならば市内の高校生。

 電脳都市ならばハッカー。

 だけど、この鋼鉄と蒸気機関の都市における『トーリ』とは、何者だろうか。いや、そもそもに――


「今更だけど……此処の街ってなんて言うんだい?」

「そういえば、そんな話をしていたね。すっかり忘れていたよ……」


 溜め息交じりにそう言ったアゼレアが、まじまじとトーリの顔を覗き込んできた。その眼差しは最初に見せた訝しげなものとは違っていて、まるで何かを確かめるような――あるいは値踏みするような、そんな視線だった。

 そして微かに聞こえる、キチキチキチ……という歯車が噛み合うような、螺子が捲かれるような機械音。

 その音の出所は、目の前の少女で――

(一体……何の?)

 その疑問を口にするよりも早く、アゼレアが両目を瞬かせ、「ああ、そういうことか」と、得心が言った様子で大仰に首肯する。



「――君、夢幻体ゴーストだったんだね」



 少女の口から零れた科白に、


「ゴー……スト?」


 自分でも随分と間抜けだなと思えるような科白を零した。

 ゴースト。直訳するならば幽霊を意味する言葉。一聞しただけならば随分と莫迦げた科白だと思えるが、アゼレアは至極真面目な様子で言葉を続けた。


「そう。ゴーストだ。この世界に時折やってくる、異なる次元の住人のことを、この都市――ノスタルギアに住む私たちは、そう呼んでいるよ」

「は? 異なる次元? やってくる?」


 アゼレアの口から齎された情報を反芻しながら、トーリは困惑する。そんなトーリに、黒衣の少女は抑揚のない声音で続けた。


「そう。やってくるんだ。何処からともなく、突然に。唐突に。意図せずに。夢幻体は我知らずとこの世界にやってくる。迷い込む、と言ってもいい。そして夢幻体の皆は、口を揃えてこう言うんだ――『此処は何処か?』と……そしてこの世界の住人を見て、皆叫ぶんだよ――『化け物』と」


「どうだ? 君は言わなかったかい?」と尋ねてくるアゼレアに、トーリは沈黙した。沈黙せざるを得なかった。

 その通りだった。

 口にこそしなかったが、それは概ねトーリが思ったことに相違なかった。

 人ならざる姿をしたこの都市の住人を見て、トーリは恐れた。恐怖を抱き、戦慄に身を震わせ、そして逃げた。逃げて、逃げた果てに、目の前の少女に出会ったのである。

 その少女が、淡々とした口調で語る。


「……一〇〇年前の蒸気機関の発展によって、人類の進化と衰退は同時に、そして一気に訪れたんだ」


 そう言って、アゼレアは天井に出来た穴の向こう――漆黒の雲に覆われた空を見上げる。


「発達した蒸気機関は技術を飛躍的に進化させた。それに伴って様々な技術者が無差別に研究を行った。そして、そのうちの一つ――遺伝子研究の実験に伴って廃棄された物質が、蒸気機関の排煙に混じり世界中に散布されたんだよ。そして、それが悲劇の始まりだった。

 排煙に混じった物質は、遺伝子を改変させる力があった。それを吸引した人間の遺伝子は徐々に変貌していき――結果、遺伝子の変化に耐性を持たなかった多くの人類は死滅し、耐性を持っていた人間の多くも、その身を異形へと変えた。それが今のノスタルギアの住民たちだよ」


 少女が語るこの都市――ノスタルギアの住人たちの、あの異形の姿の、人獣一体となったような異貌の理由がそれか。

 蒸気機関の異常発達。そして公害による遺伝子変異。まるで在り来たり(チープ)なサイエンスフィクションのような展開だ。しかも巨大な鋼鉄の怪物に追い掛け回されるなんておまけつき。

 なんて場所に迷いこんでしまったのだろうか。

 ――冗談じゃない。

 と、心底本気でそう思う。

 破壊音が耳に届いてこなければ、その場で途方に暮れてしまったことだろう。異形の迫る足音に、トーリは苦渋に眉を顰めた。


「くそ、しつこい!」


「君、どうにも変なのに好かれてしまったみたいだね」と、意地の悪い笑みを浮かべるアゼレアの科白に、トーリは「全然嬉しくないね……」と肩を落としながら小さく零す。

 だが、軽口が叩けたのはそれまでだった。

 強い衝撃がトーリたちの立つ建物を襲う。

 壁に罅割れが走り、一部の欠けた壁から異形の姿が現れる。



『――GRRRRRRRRRRRRRRRR!』



 壁の向こうから轟く、異形の咆哮。

 お前たちに逃げ場はない――そう宣告するかのようなエネミーの唸り声に、トーリはアゼレアを庇うように立ち身構える。


「――アゼレア」


 少女の名を呼ぶと、翡翠の瞳が「何?」と問うようにトーリを見据える。トーリは亀裂から覗く異形から視線を逸らさらずに静かに告げた。


「あれの狙いは僕だ……だから、何とかしてあいつを引き付ける。その間に、君は逃げろ」


 瞬間、少女の双眸が零れるのではないかというくらい見開かれ、続けてその表情は渋面に変わる。


「……トーリ。英雄的決断と言えば美談だけど、それはあまりに無謀。私が逃げた後、君は……どうするつもり?」


「……どうにかして逃げるさ」意識して口の端を吊り上げながらそう言う。

 もっとも、それができるとは到底思えない。そもそもあんな巨大な怪物に、電脳の肉体ならざるただの生身で、どう対応できるか。

 戦う術はないに等しい。あるのは電脳都市で培った格闘技術だけ。しかしそれが、果たして鋼鉄の怪物に通じるか……。

(……二分持てば御の字ってところかな)

 怪物の殺戮能力と自分の持てる技術を考慮して、それだけ対応できればマシだろう。少なくとも、後ろの少女がエネミーから遠退くには充分な時間のはず。

(まったく……今日は厄日か)

 胸中で苦笑する。

 ただ昨日と同じように電脳都市に潜り、対クリッター用プログラムを調整して、エコーと合流し、クリッターの出現場所を予測して待ち伏せする――そんな予定でいたはずなのに。

(……なにがどうしてこうなったんだか)

 単に運が悪かったのか。それとも誰かの悪意なのか――どちらにしても碌でもないことに変わりはないけれど。


「やると決めたからには……やるっきゃないよな!」


 肩幅に足を開き、半身になって左手で手刀を作る。

 それはいつもの構えだ。

 ハッカー・トーリの基本的な構えスタンダード・スタイル

 ――意識を切り替えるマインドセット

 平常状態から戦闘状態へ。《電脳視界》の表示はされないが、自分の中でそれが切り替わるのはしっかりと判る。

 それとほぼ同時。再び衝撃が建物を襲い――目の前の壁を突き破って鋼鉄の剛腕が飛び込んできた。


「――走れ!」


 アゼレアに向かって叫びながら、トーリは穿たれた壁から飛び出す。

「ま、待て! トーリ!」アゼレアの呼びかけを無視して、跳躍と同時に異形の眼前へ。

 赤眼と視線が交錯する。

(――行くぞ!)

 胸中で鼓舞し、同時にその赫い瞳へ渾身の蹴足を叩き込む。ブーツ越しに感じる固い感触。硝子のように見えて、しかして分厚い鉄塊を叩いたような抵抗感に眉を顰める。


「――固いっ」


 舌打ちと共に即座に行動を切り替える。蹴った足とは逆の足で赫眼を足場にし、後ろへと跳んで距離を取る。廃屋の壁をもう一度足場代わりにして、別の廃屋の屋根へと移動した。

 背後から凄まじい風切音が追ってきた。

 振り返るまでもない。

 鋼鉄の怪物が、その鋭利な爪を宿す鋼鉄の腕を振り被っていた。

 受け止めるのは論外だ。しかし、受け流すというのも不可能に近い。

 ――ならばと、トーリは瞬時に回避行動を選択。

 鋼鉄の巨爪が頭上から押し迫る情景は、トーリの脳裏に死の既視感ヴィジョンを克明に描かせた。しかしそれを振り払い、迫る爪の範囲を見極め、最小限の体捌きスウェーで躱す。

 目の前に振り下ろされたクロームの爪。そこから繰り出される一撃はトーリの立っていた廃屋を一撃の下に粉砕した。

 瓦礫と粉塵が衝撃によって四散し、それらが散弾の如くトーリに降りかかり、咄嗟に顔を庇いながら大きく飛び退く。瓦礫の雨が齎す痛みを耐え、しかし視線は鋼鉄の怪物から逸らさない。

 振り下ろされた腕とは逆の腕が持ち上がる。死神の鎌のような左フックが、今なお四散する瓦礫を砕きながらトーリへと襲い掛かった。

 ――同時に跳躍。

 エネミーを見据え、トーリは迫り来る鋼鉄の腕の上に軽く手を当てて滑るように飛び越える。

 目の前には鉄材が組み合わさって出来た、骨組みのような身体がある。それは分厚く、継ぎ接ぎのように合わさった鉄板で覆われた鋼の肉体。

 たかが拳撃ではかすり傷すら追わせられないだろうことは瞭然。しかしトーリは果敢にもその懐へと飛び込み、引き絞るように構えた左腕を打ち込む。

 固い感触と共に跳ね返る衝撃。

 その巨体が誇る重量に質量。そして分厚い鋼鉄の鎧の如き肉体に挑めば――当然、弾き飛ばされたのはトーリのほうである。

(――まあ、通じるわけないよな……)

 左拳に痺れたような痛みを覚え、顔を顰めながらエネミーの懐から即時離脱。

 見上げた先には赤眼。

 まるでこちらを嘲るように、鋼鉄の無貌が歪んで見えた。

 同時に左右の巨腕が同時に動く。左右それぞれが異なる軌道を描き、必死の拳がトーリを襲う。

 それぞれの拳を見上げて軽く跳んで後退して初撃を躱すと同時、目の前に突き刺さった拳に足を掛けて高く跳ぶ。

 遅れたもう一方の拳の先が、ブーツの爪先を掠る。だが、どうにか凌いだ。

 空振った拳によって壊されていく廃屋を見下ろしながら安堵の吐息を零し――そうして持ち上げた視線の先に移った光景を認識した瞬間、トーリの表情は一転する。

 ――ギギギギギ……

 鋼鉄の軋む音と共に。

 異形の背中が――隆起する!

 まるで固い殻を打ち破るように、鋼の背中から出現する新たな腕。しかもその数は一つに非ず。いや、それは腕ですらない。

 背中から生えるように出現したのは三本の巨刃。武骨で飾り気のない、それ故に物々しく鋭利な鋼鉄クロームの刃。それが、異形の背中から聳えるように伸び――

 目にも止まらぬ速度で、トーリへと殺到する!

 一本一本が異形の両腕に匹敵する巨大さを持ち、かつ腕の一撃よりも遥かに速くトーリを襲う。

(――くそったれが!)

 文句を声に出す暇すらなく、三本の刃はそれぞれ異なる角度からトーリへと振り下ろされ、あるいは穿たれ、薙ぎ払われる。

 付け入る隙のない太刀筋はまるで達人の放つ一刀そのものだ。

 トーリは嵐のような斬撃に対し回避行動に徹する。否、回避せざるを得なかった。

 それぞれの刃は無駄なく、そして緩慢なく、トーリの回避行動と回避行動の間隙を狙い澄ますように振るわれている。一部の狂いもなく、徹底的にこちらの動きを殺しに来る太刀筋だ。

 対してトーリは全神経を研ぎ澄まし、持ち得るすべての技術を用いてどうにか斬撃の合間を縫うようにして回避することに成功していた。しかし一手でも読み間違えれば、間違いなく必殺の刃が身体を両断するだろう。

 だが、反撃に出ることもできない。何せ打つ手がないのだ。

 こちらの物理攻撃は、その悉くがエネミーの鋼鉄の身体によって防がれてしまう。《電脳義体》ならざるこの半異形の身体では成す術もない。

 さあ、どうする?

 今、どれだけの時間が過ぎた?

 一分か? 二分か? あるいはまだ三〇秒も経ていないのか。

 アゼレアはもう逃げただろうか?

 ならば、自分はどうすればいい?

 一瞬刹那。

 時間にすればコンマ〇・〇一秒程。

 そんな――そんな僅かな思慮すらも。



 眼前のエネミーとの戦いにおいて、致命的な隙を生む!



 縦横無尽に舞っていた剣閃の嵐。その嵐を突き破るようにして姿を見せたのは、巨大な鋼鉄の塊。

 エネミーの拳。それが成す拳撃。

 気づいた時にはもう、拳は目前にあった。

 回避は――不可能!

 咄嗟に腕を眼前で交差し、僅かの抵抗と後ろに跳んだ瞬間――世界が一瞬、白く染まる!

 全身をくまなく襲った衝撃。まるで二トントラックが突撃してきたかのような錯覚に、意識が僅かに飛ぶ。

 殴り飛ばされて無防備となった身体が空中を文字通り飛翔し、重力の手に引かれて落下する。身体が何度も廃屋の屋根を跳ね、挙句に掘立小屋のような建物を突き抜けて漸く勢いを止めた頃にはもう、エネミーから数十メートル近く離れて場所だった。


「――……く……あ……ぁぁ……っ!」


 激痛。激痛。激痛。激痛――。

 最早どこが痛いのか判らなかった。

 身体の各所――違う。全身が痛みを訴え、痛みはまるで炎に焼かれているような感覚で襲いかかる。

 さっき殴り飛ばされた瞬間、一瞬だけ意識が飛んだが――いっそ意識を手放せていたほうが幸せだったのではないだろうか?

(なんて……思うのは甘え、かなぁ……)

 痛みを堪えて体を起こそうとするが、意識に反して身体はまったく言うことを聞かず、帰ってきた反応は指先が微かに動く程度。

 これは――本格的に拙いかもしれない。

 諦観を覚えながら、それでも意識して痛みを認識する。特に強い痛みを訴えているのは右腕と腹部。目を見開いて右腕を見る。腕はあらぬ方向を向いていた。どう見ても使い物にならないのは瞭然だった。腹部――正確な個所は脇腹で、おそらく肋骨が何本かイカれているのだろう。折れて内臓を傷つけていないのは運がいいのか悪いのか……。

 そう思うと、自然と口の端が吊り上った。

 死ぬほど痛いって思えるような怪我を負っているにもかかわらず、何故だか笑えるような気がしてしまった自分に笑えてしまう。



『――………………grrrRRRRRRR!』



 声。

 聞こえてくるのはエネミーの――鋼鉄の怪物の咆哮だ。

 ゆっくりと、だが着実に奴は近づいてきている。まるで魂を狩りに来た死神のように。死の足音をひたひたと。その速度は先程までの、俊敏な動きで標的を追い立てる肉食獣が一転して、牛歩の如きゆったりとしている。

 それは――まるで無数の虫が足元から這い上がってくるような悍ましさだった。

 そう思うと同時に、ああ……とトーリは理解する。

 あの怪物は熟知しているのだ。

 如何にすれば獲物ヒトが恐怖を感じるのかを。

 如何すれば標的の魂を戦慄せられるかを。

 実に、実に悪趣味だ。圧倒的な力を以て蹂躙すればいいだけのモンスターが、それをせずに恐怖を演出するなんて。

 恐怖は人の心を挫く。抗おうとする意志を奪い、戦おうという気持ちを砕く。

 それはある意味、戦いにおいて最も強力な武器になるのだ。どれだけ強力な力を持とうとも、その力を振るう気概がなければ、力はなんの意味をなさないのだから。

 鋼鉄の身体を持つ怪物。しかしその内側はまるで人間のようではないか。


「……性質悪いなぁ……くそ……」


 悪態を吐いて、漸く重い身体を起こす。指一本動かすだけで全身が軋みを上げているが、だからって動かないわけにはいかない。

 戦うのは無理だ。

 蟻が弾道ミサイルに挑んで勝てるわけがないのと同じ。今のトーリは蟻にも等しい矮小な存在だ。ましてや身体はたった一撃喰らっただけでボロボロ。勝算はなしに等しい。

 だが、だからと言って無為に殺されてやるつもりもない。

 どうにかして逃げないと――そう思って立ち上がった時である。




「――トーリ!」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る