二幕:覚醒 1


二章 覚醒


 彼我の距離は目測一〇メートル。

 約一七〇センチのトーリの足並みに対して、巨大な怪物が追いつかれずに済んでいるのは、偏にこの都市の奇妙な構造のおかげだった。

 トーリが逃げ込んだ地区は、打ち捨てられている大小様々な建造物が、まるで前衛芸術のように折り重なるように増築されていた。曲がりくねった細い道が無数に連なっていて、エネミーの巨体では建物をなぎ倒して突き進む以外追いかけるすべがない。

 視界を遮る建物を破壊し、標的を探す。その間にもトーリは走り続けているのだ。如何にその爪腕が猛威を振るう力を有していようと、標的が捉えられなければ威力を発揮することはない。

そしてもう一つ。追いかけながら攻撃するのと、逃げながら躱すのでは、僅かにだが後者のほうが有利だった。またトーリにとって、巨大な異形と相対するのは初めてのことではない。電脳の怪物たるクリッターとの物理戦闘の感覚と経験値があるからこそ、辛うじてエネミーから逃げ延び続けられている。

(だけど……このままじゃだめだ)

 現状を冷静に分析し、トーリは内心で舌打ちをする。

 今直面している危機は大きく分けて二つ。

 一つは如何に大型の化け物との戦闘経験があろうと、それは電脳という一種の仮想現実ヴァーチャル。アカウント喪失の危機はあるが、対峙したクリッターが悪性の攻性防壁ブラック・アイスでも保有していない限り、生命的な死の危機はまずないと言える相手だったのに対し、このエネミーは違う。もしこの世界で致死的ダメージを負った結果、現実の自分――弥栄透莉に同レベルの影響が及んだ場合。それは間違いなく最悪の結果といえる事態だ。

 いまだ現状に及んだ理由が解明できていない以上、何としても避けたい事態である。

 だが、この状況からの生還――エネミーから逃げ切ることを目的とした場合。それがトーリの危惧するもう一つの問題。

 肉体的な限界――つまりは体力の限界だった。正直な話、そろそろ限界が近い。

 当然だ。あの黒衣の少女アゼレアと別れてからずっと走りっぱなしなのだ。呼吸は乱れ、全身は汗だく。走り通しの足は震えているし、集中力はとっくに乱れている。

 破砕音が遠い。

 エネミーが廃屋を薙ぎ倒してトーリを探しているのだ。

 だが、距離がある。

 耳に届く音からそう判断し、トーリは立ち止まって壁に手をついた。

 乱れた呼吸を整える。意識して呼吸を一定に保ち調息する。汗をぬぐい、さてどうしたものかと思案する。勿論、大した案など浮かんでこない。なにせあの鋼鉄の怪物エネミーは、トーリの知る電脳の怪物クリッターと違い明確な対抗手段がないのだ。

 クリッターならば、解体術式がある。

 だがエネミーにはそれが存在しない。

 対処する術が――相対し、戦う術がないのだ。

 壁についている左手を見る。

 それは、鱗に覆われた異形の腕だ。

 人ならざる、禍々しい黒鱗の腕だ。

 しかし、それはトーリの武器にはなり得ない。

 アカウント・トーリの武器である、解体術式を内蔵した電脳義手ではない。

 右足も同じく。故に、トーリはただ逃げることしかできないのである。

 この腕が電脳の義手であれば。

 あるいは、この身が電脳の義体であれば。

 ――あのような怪物が相手であろうと、決して後れを取ることなどないのに!

 そんな強い憤りを抱き、しかしすぐにかぶりを振った。今はそんなことを考えている場合ではないだろう。

 とりあえず、呼吸はある程度整った。まだ暫くは走れるだろう。

 そう思って走り出そうとした――その時である。



『――GRRRRRRRRRR……』



 唸り声が背後から。

 反射的に身体が動き、プールに飛び込む要領で前に飛び出す。寸前まで立っていた場所に振り下ろされる鋼鉄の爪。敷き詰められた石畳が粉砕され、粉塵を背に浴びながら地面を転がる。

 数度身を転がしながら体勢を立て直し、相手を振り返る。

 振り返った先に悠然と佇む、鋼鉄の怪物――エネミー・オブ・クロームは、その無貌に備わった赫眼でトーリを見下ろしていた。

 同時に周囲が靄に包まれる。

 その正体は、吐息を零すようにエネミーの身体から吹き出した蒸気だ。

 轟々、と全身の到る個所から噴き出る蒸気の熱波で、怪物の周囲の気温が上がったのが判る。

 同時にその鋼鉄の身体から、まるでトーリを嘲笑うように響く、軋むような音が周囲に木霊する。


「くそっ」


 小さく悪態を零すトーリ目掛け、振り下ろされるのは鋼鉄の巨腕。

回避しようと咄嗟に走り出すが――駄目だ、避けられない!


「トーリ!」


 絶体絶命――自分の死を予感したトーリの耳朶を叩いたのは少女の声だ。その声の正体を確かめるよりも早く、トーリの身体が宙に引っ張り上げられる。「ぐえっ」と間抜けな毛を零すトーリの眼下で、エネミーの腕が地面を叩き割る光景が広がる。

 あと一歩遅ければ、間違いなく参事になっていたことだろう。

(何がどうなってるんだ……?)

 宙を舞う自らの状況に驚き目を瞬かせるトーリが、何気なく背後を振り返ってその姿を見る。

 馬だ。

 空中を跳んでいるのは、トーリのコートを銜えた馬だった。

 しかもただの馬ではない。鋼鉄の馬だ。鋼鉄と蒸気機関によって組み立てられた人工の馬――だろうか?


「なんだい? 蒸気馬スチームホースを見るのも初めてなのかな?」


 見慣れぬ鋼鉄馬の姿に目を点にするトーリに向け、馬の背に跨っていた黒衣の少女が微笑と共にそう訪ねてきた。意地悪気に笑うアゼレアに対し、トーリは空笑いを零しながら「お察しの通りだよ」と肩を竦めて見せる。

 そんなやり取りをしている間に、蒸気馬が廃屋の屋根の上に軽やかに着地してトーリを開放する。


「まったく……トーリ。危うく死ぬところだったね。大丈夫かい?」

「まあ、今のところは。走りすぎて疲れたってことを除けば……ね」


 曖昧に微笑んで応じながら、トーリはアゼレアの跨る蒸気機関(エンジン)式の馬を見る。


「それ、随分便利そうだね」

「市場に放置されてたのを拝借してきたんだ。乗るかい?」


 悪戯っぽく片眼をつむって見せるアゼレアに対し、トーリは「是非」と即応して少女の後ろに飛び乗った。

 トーリが後ろに乗ったのを確認すると、アゼレアは「行くぞ!」と手綱を操り蒸気馬を走らせる。


「エネミーは?」

「しつこく」


 馬を操りながら問うてくるアゼレアに、トーリは振り返りながら言葉少なに答えを返した。

 ビュン――という空気を切り裂く音と共に、鋼鉄の怪物が眼下から飛翔する。鋼の塊のような肉体を軽々と中空に跳ね上げて、落下と同時にその腕爪を振り下ろし――



 蒸気馬が走り抜けた廃屋を、その巨体が持つ大質量を以て粉砕する!



 破砕の勢いは一撃に留まらなかった。凄まじい腕撃が生み出す衝撃波は、まるで両県の如く伝播し、家屋を破壊して蒸気馬を追いかける。


「右に跳べ!」


 咄嗟に馬を操るアゼレアに叫ぶと、少女は「無茶を言ってくれる!」と憤慨の声を零しながら馬を走らせた。

 走っていた家屋が倒壊する寸前に、蒸気馬が大きく跳躍して別の家屋へと退避する。


「人間二人も乗せてもこれだけ跳べるなんてね……驚いた」

「当たり前だ。これは蒸気馬だ。蒸気馬に使われる人工筋繊維は生物としての馬などより遥かに強靭で柔軟だし、蒸気機関を内蔵するが故に疲れを知らないぞ」

「へぇ。そいつは便利だね」


 思わず感嘆の科白を零すトーリに対し、アゼレアは得意げに微笑んだ後小さく付け加える。


「もっとも、蒸気機関が熱暴走オーバーヒートしたら即座に機能停止だけどね。ちなみにただ今臨界点寸前だよ!」


 そう言ってやけくそ気味に失笑したアゼレアに、トーリは信じられないという風に目を剥いた。


「いやそれ笑えないから!」

「そうだな。全然笑えない状況だよ。しかもあいつは君を狙っているみたいだしね――来たぞ! しっかり摑まれ!」


 アゼレアが叫ぶ。

 同時に頭上から何かが降ってくる気配に、トーリは視線を上空へと向けた。

 降り注いでくるのは凶器――それは鋼鉄クロームの鑓。

 巨大なクロームの鑓が雨の如く降り注ぐ情景に、さしものトーリも、自分の表情が青ざめているような感じがした。


「――アゼレア!」

「喋るな、舌を噛むぞ!」


 名を叫ぶと、焦りの混じったような叱声が返ってくる。アゼレアは握る手綱を巧みに操り、降り注ぐ鑓の雨の間隙を縫うようにして蒸気馬を疾駆させた。



『――GRRRRRRRRRRRRRRRR!』



 怪物が叫ぶ。

 声に惹かれるように、蒸気馬を駆る二人が振り返る。

 視線の先で、鋼鉄の怪物がまるで陸上選手がスタートを待つように佇んでいた。

 ――マズイ!

 直感が齎す戦慄に、トーリは咄嗟に身を乗り出してアゼレアの握る手綱を摑む。「おい!」と咎めるような科白が飛んでくるが、トーリはその声を無視して手綱を思い切り引っ張った。

 蒸気馬の身体が大きく傾ぎ、蒸気馬が再び横に跳んだ――その瞬間。



 鋼鉄の怪物が、凄まじい速度で飛来した!




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