第21話 春の嵐と幸せの方程式

 子頼こよりさんが言っていた通り、春の嵐は訪れた。


 僕はグチャグチャに折られて役に立たなくなった傘を縮めることも出来ず、無理矢理バンドで束ねて傘立てに突き立て、小説の部屋へ向かった。

 仕事が終わる前に、瓦来かわらいさんに呼ばれた。


「終わってから、ちょっといいかな?」


 遂に来た。僕が打った布石に、会社が反応したのだ。


 話が長くなることはわかっていたため、子頼さんには先に帰ってもらった。

 パソコンの唸る音以外は何もしない静かな部屋の中。そこには僕と瓦来さんが二人きり。僕は歩み寄り切り出す。静かな声で。


「なんでしょうか?」

「君が前回会社名義で送った新人賞を覚えているよね。そこからうちの会社宛に一つの疑問が投げられた。君と同姓同名で住所も同じ人から会社の名義を使わずに作品が送られているのだが、どういう事か。と。そのまま君に問うよ。これはどういう事か?」

「事実そのままの通り、僕は同じ新人賞に作品を送りました。個人的に」

「それは就労時間内に書いたものではあるまいね」

「もちろん、プライベートな時間を使って書いたもので、会社の勤務時間内に書いたものではありません」


 それを聞き、瓦来さんは安堵のため息を漏らした。


「そうか。良かった。ならば会社としては君を罰しないし、今後疑いもかけない。だからここからは俺の個人的な興味で聞くけれど、どうしてそんなことをしたんだい? CTHPの名義を使えば、ちゃんとお金が発生する時間で作品を書けるのに」

「その名義を使っていたら、絶対に新人賞を受賞できないからですよ!」


 僕は叫んだ。同時に、ガラスに雨が殴りかかって、部屋は一瞬だけうるさくなった。

 叫びは怒りを呼び、今まで内包していた疑問を爆轟させる。


「僕が個人的に出した作品の連絡がなぜわざわざこの会社に来るんですか! それはこの会社と出版社が結びついているからでしょう? 最初からこの会社の名義で書いたものは必ず2次選考で落とされる仕組みになっているんだ! だからこの間のコンテストでも鎌富さんは5位狙いとか訳が分からないことを言っていたんだ。頑張っても、どれだけ頑張ってもどうせ1位に成れないと、初めからコンテスト主催者側とCTHPでそうなる様に約束が交わされているってわかっているからそういうセリフが出てくるんだ! 僕がどれだけ真面目に頑張って書いても、絶対に落とされるんだ! 人の努力を踏みにじりやがって! あなた達はいったい何のためにこんな嫌がらせみたいなことをやるんだよ!」


 一気に怒りをぶちまけたせいで、呼吸が乱れて咳が出る。咳が出た所為で涙も溢れてきた。いやもしかしたらこれは気付かないうちに途中から流れ出ていたものかもしれない。その前後の関係、記憶さえも曖昧になるほど、僕は普段通りではなかった。


 しかし瓦来さんは怪訝そうに僕を見つめ、先程とは違った種類のため息を吐いた。呆れているようにも、疲れているようにも取れた。


「これは君を馬鹿にする為に言う訳じゃあないんだが、今言ったことは本気で君が思っていることかい?」


 呼吸を整えながら、頷きだけを返す。


「そうかい。とりあえず最後の嫌がらせと言う部分だけは否定しておこう。これはれっきとしたビジネスだからね。しかしそれ以外は概ねその通りだ。と言うか、何を今更言っているのやら、逆に俺にはそれが疑問でならない。今まで君はそれを知らずにこの会社で働いていたのか?」


 え。


 言葉を失った。


 まさか真っ向から肯定されるとは。


「この会社に入ったのは、広告を見たからだったよね」

「はい」


 広告の内容は確かこうだ。


 中途半端な才能を探しています。

 あなたの諦めてしまった夢、昔得意だったこと、人よりは少し上手だけどプロになるほどではないことなどはありませんか? 我が社ではその『中途半端』の方々を育成し、プロにします。4週間ほどの研修期間ののち、試験を受けて頂くだけの簡単なもので、その間の給料は保障いたします。


「内容の中にしっかり書いてあるだろう。中途半端の方々を育成し、プロにしますと」

「ええ、だから小説家になりたくて僕はこの会社に」

「プロになるのは小説のではない。中途半端のだよ」


 あ。


 あ?


 何を言っているんだこの人は。中途半端にプロなどあるものか。そんなの聞いたことないぞ。


「疑わしいという顔をしているが、俺は嘘を吐かないよ。だいたいたったの4週間で小説家になれるんだったら、皆小説家になっているし、俺だってとっくに小説家になっているだろうよ。しかもその上給料まで発生するだとか、もはや夢想を超えてお伽噺とぎばなしじゃあないか。幸せすぎるほどに前向きか君は」


 人差し指をヒュッと向ける瓦来さん。それはナイフよりも鋭い刃物に見えた。


「俺からしてみれば、君の方こそ、小説、歌、囲碁諸々のプロの方の努力を踏みにじっているよ。だってたった4週間誰かに教われば届くレベルのものだと思っていたという事だろ?」


 ナイフは放たれていないのに、僕の眉間に突き刺さる。


「い、いや、決してそういうつもりではないんです」

「どういうつもりだったんだい? いったいどんな理論の上に君の幸せの方程式は出来上がっていたのか是非聞きたいよ」


 今、目の前にいる人は本当に瓦来さんだろうか。人は目だけ笑わずに微笑むとこんなに怖い表情になるのか。


「理論というか、その、勘違いする原因はいくつかありました」

「ほう」

「第一に、僕には才能があるともてはやされていたこと。第二に、先輩方の厳しい査定の中で研修が行われており、才能が無いと判断されれば即解雇されるという現実。これにより、4週間で小説家になる素質が僕にはあるのだと、勘違いをしていたのです」

「なるほど。第一の才能は中途半端の才能が素晴らしいという事で、第二の厳しい査定は中途半端をずっと維持できるかを見ていた。その結果君は一生中途半端で食っていける才能があると判断されたわけだよ」


 中途半端中途半端と一番言われたくない言葉を何度も何度も連呼される。まるで僕の名前を言うように。

 いくら僕が勘違いしていたとはいえ、言い過ぎではないだろうか。


「ここまでCTHPへの認識が無いとなると、君はここに入社するまでに一度もCTHPの名前を聞いたことがなかったようだね」

「はい」

「今後、間違えの無いようにはっきりここで説明しておくよ。CTHPがなぜ中途半端のプロを育成しているのか、理由を教えよう。小説の場合、期間内に1次選考は通過するが2次選考では落とされるレベルの作品を書きあげる。これがミッションになる。これを成せばどうなるか。順を追って見ていく。企業は募集をするからには応募の多少に関わらず全ての作品に目を通さなければいけない。大きい賞になればなるほど、その数は膨大だ。それゆえ、送られてきた全ての作品を1人の人間が読むわけではいかなくなる。何人かに作品を割り振る必要がある。例えば100作品送られてきて5人に割り振られた場合、1人当たり20作品を読むことになる。そしてその中で10作品を1次選考通過作品とするとした場合、どんな問題が起こるか、わかるかな?」

「何も問題ないように思いますが」

「NO。問題は既に起きている。もうこの割り振りがくじ引きみたいなものだ。一人の選考委員の元に20点の良作が送られ、また別の選考委員の元には20点の屑作品が送られる可能性が間々ある。その中での相対評価は愚行だ。なぜなら本来1次選考どころか最終選考まで残る可能性のあった作品10点が1次選考で落とされ、本来なら1次選考で落ちるはずの作品10点が2次選考へ進む。大問題だ。これを解決するのが、CTHPの作品。割り振られる20作品の内に必ず1つだけCTHPの作品が入るとする。すると企業はこの作品を基準に絶対評価で選考をする。すると、屑19作品を受け持った選考委員はCTHPの作品1点のみを1次選考通過作品として選び、良作19作品を受け持った選考委員はCTHPの作品を含め20点を1次選考通過作品として選出できる。これにより今までは成し得なかった平等性が発揮できるんだよ。つまり、どんな古参の新人賞でも、今回が初めてとなる新人賞でも、CTHPとの契約会社は皆、同じレベルの作品を上に通すことができる仕組みを確立できる。これにより新人賞から排出される作品の高品質は大賞だけでなく、佳作まで保証される。なぜなら屑20作品から運よくのし上がってきた佳作ではなく、確実に良質な作品群の中から選ばれた佳作なのだから。ここまでは理解できたかな」

「ええ」

「現時点で企業側にも送る側にもメリットがあるのはわかってもらえていると思うけれど、更にメリットはある。まず企業側は屑作品を読むのは1次選考に携わった人間のみで、2次選考以降には良質な作品しかいかない。という事は、1次選考に人件費を割けば、それ以降の人件費は随分浮かすことができる。少ない人数で、少ない時間で選考できる。その上、良質な作品が揃い踏みとなれば、当然ふるいの目も細かくなる。より良質な作品のみが最終選考に残ることになるんだ。仮に絶対評価により、相対評価の時より多くの作品が2次選考まで上がってきたとしても、それは質の高い作品がそれだけ集まってきているという事だから、企業としての損はない」

「なるほど」

「続いて送る側のメリット。数多ある新人賞の中で、どこの賞のレベルが高くて、どこの賞のレベルが低いのかわからないという人が大勢いると思う。実際人気のある新人賞は応募件数だけは桁違いに多いだろうが、送られてくる作品のレベルが高いのかどうかまでは数字に表れてくれない。それを数字化できるのがCTHPの企業名だ。例えば新人賞の1次選考通過者の名前にカッコ書きでCTHPと書かれているものが殆どであれば、そこの新人賞のレベルは低い。なぜなら送られてきた作品の殆どがCTHP社の人間の作品よりも質が悪いということになるから。逆にCTHP社の名前が殆どなければ、その新人賞のレベルは高い。他の賞であれば1次選考通過するはずのCTHPの作品さえ落とさざるを得ないという事は、送られてきた殆どの作品が良作であるからだ。これを見て送る側は新人賞のレベルを判断でき、自分が送るべき新人賞を決められる。正直、レベルの高い賞に送っても最終選考で落とされるような作品でも、レベルの低い賞に送れば佳作くらいは取れるかもしれない。そしてそこから才能が開花していくという可能性もあるだろう。これが送る側のメリット。けれども、送る側のメリットは勝者にだけ存在しているわけではない」

「と言うのは?」

「敗者の為にもCTHPの名は必要なんだよ。先程も説明したが、CTHPの存在によりかつてのくじ引きのような運要素のない募集となっている。CTHP社作品を基準に絶対評価をする為、レベルの低い作品は1次選考で必ず落とされる。必ずだ。この必ずと言うのが非常に重要でね。もしも自分が書いた作品が軒並み1次選考で落とされてもう書くためのネタが湧いてこないとなったら、きっと人は諦めるだろう。別の道を目指して進んでいけるだろう。けれどももしも1点でも自分の作品が1次選考を通過していたとすればどうだろう。諦めきれないのではないかと俺は思うよ。実際俺も昔、まだCTHPが創設されるよりも前に、あらゆる新人賞に乱れ撃ちをしていた。そしてそのうちの1点が1次選考を通った。が、それだけ、それ以降はどこに送ってもただ落ちるだけだった。もしかして1次選考を通ったあの作品は運が良かっただけなのか。その考えに行き着き、その作品を別の新人賞に応募したら1次選考で見事に落とされたよ。やはり運が良かっただけだった。気付くのも試すのも遅すぎた。もうその頃には30歳を過ぎていた。もっと早くに自分の才能の無さに気付けていれば、別の道があったかもしれないのに。前を向いてバリバリ働いて、もっともっと昇進していたかもしれないのに。上司に目を付けられ同期に嫌な顔をされながら、仕事を毎日定時で上がってせっせと拵えた作品の山が、何の支えにもなり得ないただのゴミの山なんてあまりに悲し過ぎるじゃあないか」


 瓦来さんは上ずった声で鼻をすすって上を向いた。話していく内、過去の苦労を思い出したのだろう。しかもその苦労が苦労ですらないという絶望。虚無。そんなものが家に帰ればあたり前に存在するという、底冷えするような恐怖。


 瓦来さんは、ふうと大きく息を吐き、眉間のしわを指で摘まんで自嘲気味に笑った。


「すまないね」

「いえ」

「とにかく、あの時自分の作品が運よく1次選考を通りさえしていなければもっと輝かしい舞台の上で己を揮えていたかもしれない、と言う思いを、きっと他の誰かもしているんだ。少なからず俺が作品を書いていた時代、同じく作品を送っていた人たちの中にはいるはずなんだ。そんな人たちの中には自分の才能を信じ続けて、ニートになって餓死した愚者もいるかもしれない。大げさかもしれないが、俺にとっては直ぐ傍に存在していた現実なんだよ。だからCTHPの存在はそんな愚か者を出さないための、制御装置とも言える」


 瓦来さんは壁に飾ってある額縁入りの紙を僕に見せた。何かの認定証の様だ。国家認定と書いてある。


「これは、俺たちの会社が国から全面的な支援を受けるに値する会社であるという証明だよ。先ほど言った、自分の有り得ぬ才能を信じ続けた結果ニートになって餓死ということが大げさではないと国も思っているんだよ。それだけじゃあない。本来は別の分野においてその力を発揮すべき人間が、いつまでも子供の頃からなりたかった夢に縋り続けたせいで、本領を発揮できぬままに生涯を終える事。これにより、本来100成長すべき日本の国力が50の成長に留まってしまう事。そうならない為に、日本の為に、この会社をいかなる手段を用いてでも存続させる意思が国にはある。非正規労働者の縮小化とニートの撲滅。並びに国民の生活水準の底上げには、この会社の存在が必要不可欠であるという事だよ」


 ここまで説明されて気付いたことがある。僕はこの会社に入ろうとするまで、一度も新人賞に送ろうとして、ホームページや雑誌を見ていなかった事だ。そこを見れば、一度くらい1次選考通過者の名前を見る機会がある。そしてCTHPという不可解な名前に気付き、もっとよく調べたかも知れない。ここに入社する際にインターネットで必死に検索したのは、CTHPに対しての悪評が無いかどうかだ。そんな検索の仕方をしていれば、引っかかってくるはずがない。この会社が国に対してどれだけの貢献を果たしているのかということなど。


 しかし、僕の勘違いであったとは言え、自分の問題と会社の正しさを横並びにしてはいけない。


 僕は、勘違いしながらも、しかし本気でプロになれると信じて今日の日まで小説を書いてきた。その行為は、会社の真実を知ったからと言って、過去に戻って否定するようなことではない。だから、懇切丁寧に説明してくれた瓦来さんには、いずれにせよ告白しなければいけない。僕がこの会社を辞める事を。


 外はまだ土砂降りが止まず、空からゴロゴロと不吉な音が鳴っている。


「瓦来さん。丁寧な説明、ありがとうございました。でも、僕が小説のプロになるというのは本気で思っている事ですので、諦めきれませんので、この会社を辞めようと思います」


 瓦来さんは、それを聞いて、何かを言いたげであったが、目を瞑り、それを呑み込んだようだった。が、やはり言わずにはいられないというように、一歩前に出る。


「こんなこと、本来君に言うべきではないけれど、吾忍辺あしのべさんはどうなる?」

「え?」

「彼女は本来クビだった。と言うか、そうせざるを得なかった。中途半端を維持できなかったから」

「でも、維持できるようになったのだから、いいじゃあないですか。それはそれ。これはこれです。僕も同期として彼女には説明しますよ。自分が思っていた会社とは違ったから、夢を諦めたくないからって」

「彼女は叶いそうな、いや叶うはずの夢を捨てて、君と一緒に居る事を選んだんだぞ!」


 ピッシャーン!


 一瞬だけ電灯が切れ、外の暗さが部屋を覆い、青白い稲光が部屋の中を駆けた。

 一秒数える程もない内に電灯は点き、部屋に明るさが戻る。


「どういうことですか」

「前にも言ったが、彼女はプロットを提出した時からは想像もできない程、文章が変貌していた。それはとても魅力的な文章だった。本文を書きだすと急に日本語が上達する人間がいるが、彼女は群を抜いていた。しかもプロット通り書かない。君はプロット通り最初から最後まで一貫して書き上げ、設定にもストーリーにもブレがないから駄作か良作の判断がつきやすいが、彼女は違った。プロットの時点では2次選考では間違いなく落とされるレベルのものだった。しかし本文はどんどん良い方向へブレて行って、最後にはプロットを一度読んだ俺さえも夢想だにできなかった結末が待っていた。もうこれは確実に1次選考どころか、どの新人賞に応募しても大賞を受賞してしまうだろう。そう思った俺は、すぐさま部長に掛け合い、彼女の作品を読ませた。部長も間違いなく受賞すると言って、俺に謝ってきたよ。面接では見抜けなかったと」

「え、え、ちょっと待って。待ってください」

「なに?」

「いや、これも勝手な勘違いと言うか、彼女は文章が下手くそになってしまったからクビになったと思い込んでいんたんですけど、そうじゃあなくて、このままだと受賞してしまうからクビになったんですか?」

「そうだよ。CTHP名義で大賞を受賞するレベルの作品を送るわけにはいかないだろう。そんなことをしてしまったら、その新人賞だけレベルが異様に上がってしまう。いや、そもそも企業側からしてみたら、何の為にCTHPと契約を結んでいるのかわからない。企業からもクレームがつく上、送る側も混乱してしまう。良い事なしだ。だから、本人に自分の名義で送る様に言ったんだ。ただし賞を取ってプロになったら、新人賞への応募はもう無理だから、この会社を辞めるように、とね」

「それで彼女はここに残ると?」

「そう。初めはもちろん悩んだようだよ。彼女だってそもそもそんなハイレベルな作品を書くつもりでこの会社に入社していない。自分の受賞しない作品が少しでもお金になるならと思って、夢を諦めつつも、諦めた夢でお金を稼ぐためにこの会社に入社したんだ。それなのに、突然諦めたはずの夢が向こうから走ってきたんだ。それは驚くし、悩むだろうよ」


 それはそうだ。だが、僕なら、即決だ。この会社を辞めて、大賞を受賞する。


「俺は、いくら悩んだって最後にはこの会社を辞めると思ったからね。君には彼女はクビにしたと言ったんだ。しかし彼女が持ってきた答えは違った」


 瓦来さんはデスクの上に置かれた、分厚いA4の紙の束を指した。


「彼女はプライベートの時間を使い、ちょうど1次選考を通りそうな、でもそれでいて2次選考で落ちそうな、絶妙な作品を新しく書き上げ、俺に提出した。これを提出するので、これからもここで働かせてください。と」

「どうして!?」

「俺も当然聞いたよ。だが彼女から繰り出される言葉の数々には舌を巻いた。全てが芯を突いたもので、俺には反論の余地がなかった」


 瓦来さんが聞いた話ではこうだ。


 まず、今回大賞を受賞するレベルの作品が書き上がったのはたまたま筆が乗ったおかげで、次回からも同じく良質な作品を書ける保証がない事。次に、実際二つ目に書き上げた作品はやはり2次選考止まりの作品であるのが明白である事。それから、この会社を辞めないでおけば給料の保障は半永久的だが、辞めてプロデビューしてしまうと安定した収入が望めず、生活水準が格段に下がる可能性がある事。そして、これらの事を踏まえるとプロになる利点が無いということを考えてしまうくらい自分に対して自信がない人間が、プロになって自分を律してやっていけるとは到底思えないという事。だそうだ。


「しかし、俺にはこの4つの不安材料は大したものじゃあないと思う。確かにリアリストに反論の余地はないけれど、最後に付け足すように、か細い声で言ったあれが、彼女の本音。辞めたくない理由だと思う」


 それは、この僕、多楽多守一たらくたしゅいちと同じ職場で働きたい。ただ傍に居たい。だそうだ。


 そんな小さな幸せが、自分の子供の頃からの大きな夢を食ってしまったというのか。

 僕には理解できなかった。

 何せ僕は辞めようと思っていた人間だ。

 子頼さんの事は好きだ。一緒に居たい。

 けれどもそれと夢を叶える事とは違う。別次元の話だ。

 しかしながら、彼女のそんな思いを知ってしまった以上、今ここで辞めるという決断は出来なかった。


 そこで瓦来さんから提案があった。


「俺としても君はこの職場に残って欲しい。そして彼女の気持ちもある。ならばどうだろう。君には少し酷な事だが、今回みたいに、自分名義の作品と会社名義の作品をそれぞれ作るというのは。勿論君がプライベートで書いた小説が大賞を受賞する分には何も問題はない。うちの会社と出版社でのコネクションはあるが、それはCTHP作品のみで、君の個人的な作品にケチがつくことはない。そこは安心して送って欲しい。そう、君の夢を追う姿勢は否定しない。ただ今回は勘違いしていたことに対して、俺も腹が立って意地悪な事を言ってしまったというだけだからね。君の気持はよくわかるよ。だが、挫折して今の職を全うしている俺から見たら、君の幸せはこの職場にあると思うよ。君のように勘違いして、ここを去って行った人間もいるけれど。君にはそうなってほしくないんだよ」


 恐らくそれは雫間さんの事であろう。


「君は心底中途半端と言う言葉に苛立ちを覚えているようだが、この状態をブレなく維持し続けるという事は、簡単な事じゃあない。それを君は全く意図しないで当たり前みたいに維持しているんだ。これは俺からすれば尋常ならざる才能だと思うよ。狙い過ぎて1次選考で落ちてしまう作品を書いてしまう事は、誰にだってあるはずなのに、君にはそういうブレが無いんだから。部長も言っていたくらいだ。見た瞬間わかったって。この人間には中途半端の素質がある。より多くの人間を救う価値ある仕事ができる人間だって。何度も中途半端と言って申し訳ないが、俺はこの仕事に遣り甲斐を感じているから、中途半端と言う言葉で君を馬鹿にしているわけじゃあないんだ。寧ろ、大げさじゃあなく、一緒にこの国の才能亡き者を救いたいと切に願っているんだ。これは本当の事なんだ。二度と過去の俺みたいな人間を作ってはいけない。俺は、嘘は吐かないよ」


 子頼さんの事。

 瓦来さんの事。

 自分自身の事。


 全てを踏まえた上で、俯瞰的客観的視点で考えると、瓦来さんの提案に乗るべきだと思った。


 大丈夫。何とかこなしていける自信はある。それに、これはいいチャンスだ。作品をとにもかくにも量産し続けるというのはなかなか根気のいる作業だが、こうして使命感を持ってやれば、辛さも半減する。


 それに、僕は瓦来さんにNGを食らったネタがいくつもある。そのネタでもし新人賞を受賞したら、瓦来さんに言ってやるのだ。

 僕は中途半端なんかじゃあない。僕の才能を誰も理解できなかっただけだ。と。

 そしてこの会社は間違っている。その間違いを僕が気付かせてあげたのだ。と。

 更にできる事なら、瓦来さんにもう一度、無駄になってしまってもいいから作品を書いてくれと頼もう。無駄に無駄を重ねて作り上げたゴミの山の頂上から、初めて見える景色に、もしかしたら新しい道があるかもしれない。視界はきっと広いはずだ。


 子頼さんの言っていたことが本当なのであれば、僕が受賞してしまえば、彼女もここで働く理由はなくなるのではないか。そうすれば、二人そろってこの会社を辞めて、プロの小説家になるのだ。


 まるで夢のよう。

 子供染みた夢想妄想。


 幸せの方程式と瓦来さんは馬鹿にしていたが、それでもいい。


 子頼さんだってここに来たときは僕と同じレベルだったはずだ。それが恐らく僕と関わることで、彼女の中に変化をもたらし、プロでも通用するレベルになったのだ。であれば、僕だって同じ可能性を秘めている。

 入社当初、中途半端の才能の持ち主と言われた僕だって、部長にも見抜けなかった才能を開花させることができるって証明するのだ。度肝を抜いてやる。会社を変えてやる。


 グシャグシャに折られた傘を引っ提げて会社の外に出ると、雨はもう止んでいた。

 しかし近い様で遠い様な頭上の曇天で、ゴロゴロと雷鳴は不気味に鳴り続けていた。


 いいさ。降るならば降れ。


 鏡のように光る水たまりを避け、ビルのネオンを鈍く反射するアスファルトを全力で駆け抜けて行った。一陣の風の如くに。

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