第15話 病弱だった定家

 定家が式子にお披露目される予定の日が近づいてきたが、

生来気管支が弱かった定家は発熱と咳が止まらず、

体調不良で訪問は延期になった。

「畜生!頭がガンガンする。せっかく憧れの高貴な女性に

 会えると決まって楽しみにしてたのに。よりによってなんでこんなときに

 風邪なんかひくんだろ。いつかだったか天然痘で死にかけたこともあったし、

 おれはつくづく運がない。」

 定家の姉である竜寿は訪問が中止になったことを内心喜んでいた。

「それは残念だけど病を得てしまったのでは仕方がないわね。」

と式子内親王は大して残念でもなさそうに言った。

「ところであなたの弟は何の病になってしまったの?

 姉弟なのだから見舞いに行った方がいいのではないかしら。」

と式子内親王が尋ねた。

「おそらくただの風邪だと思います。」

と竜寿は言ったが、

「一番の問題は恋患いなのです、それも重度の。」

と心の中で付け加えた。

 式子内親王は文机の上に紙を広げ、歌を詠むために構想を練り始めた。

邪魔をしないよう竜樹は黙って絵物語の巻き物を整理していたが、

作歌に没頭する式子の様子をちらりと見てはっと息をのんだ。

つややかな黒髪が額に垂れかかり、透き通るような

肌の白さを際立たせていた。少しうつむいていたので、

鼻筋が通っているのが際立ってみえた。新しく仕立てたばかりの

薄色(淡い紫)の衣がきめの細かい白い肌に照り映えて、

輝くばかりに美しかった。

「なんて美しいお方なのだろう。わたしが男だったら、激しく

 恋い焦がれて死んでしまうでしょう。これほどすばらしい美貌の持ち主を

一目見ておかしくなってしまったわが弟を責められないわね。」

 日ごろがみがみ言ってはいるが大勢の兄弟姉妹の中で

竜寿は定家と一番仲がよかった。風邪とわかっていても

心配していた竜寿は定家を見舞うため里帰りした。

 竜樹が女房装束のまま、定家の居室に向かうと、

「会いたかったよおー。」

と言いながら、定家がいきなり抱き着いてきたので竜寿は面食らった。

「いきなり何するの!このど変態野郎!

 寝込んでると聞いたのに元気じゃないのっ!」

と叫んでふりほどいた。いつのまにか定家は

竜樹より頭一つ分背が高くなっていた。

「だって、いつも姫宮様のおそば近くにいるお姉さまを

 抱きしめたら、お姉さまを通して姫宮様に触れたことになるじゃない。」

と定家が甘ったれた声でわけのわからない理屈を述べ立てたので、

「熱でいかれたのかしら。頭がどうかしてる。

 これはもう手の施しようがなく、治る見込みなしね。」

と竜寿は嘆息したのだった。

 さて、式子内親王の住む御所ではとんでもない事態が進行しつつあった。

「ねえ、いいだろう。俺とお前の仲ではないか。

 また宮の寝所に手引きしてくれたって、ねえ。」

と以前夜中に御所に侵入して、犬に化けた定家に足をかまれた不埒な男が

女房にまとわりつきながら口説いている。

「だめよお。また邪魔が入ったらどうするの。」

などと言いながらも、扇で口元を隠しながら

女房は男に媚びるようにニヤニヤ笑っている。

この不実な女は新入りの竜寿をいびった女房と同一人物である。式子内親王が

父である後白河法皇と同居していたころは悪い虫が近づけなかったのだが、

式子内親王が引っ越して父と別居するようになったので、

再び悪だくみが蒸し返されようとしていた。

「じゃあ、今晩あたりどうかしら。あの生意気な新入り(竜寿)

 が里帰りしていつもより人が少ないし。」

と女房が言うや否や、晴れているのにいきなり稲妻が落ちてきて、

2人の悪人は気を失った。

 しばらくして、女房は目を覚ますと、自分の姿が黒い犬に替わっていることに

気づいてがくぜんとした。傍らにいた男は姿が見えない。

 突然狐の面をつけた女が現れて、

「この性悪女め!女主人の信頼を逆手にとって

 男を手引きしようとはけしからぬ!」

と叫ぶとむちでピシャピシャと黒い犬を打った。

キャインキャインと犬は悲鳴を上げたが、

「今度ばかりは許さないぞ!」

と狐の面をつけた女はさらに強く鞭打った。

「心から謝るなら解放してやるぞ。」

となぞの女は言ったので犬は拝むふりをした。しかし本心では

「ふん。何であんな暗い女がもてるんだ。歌詠みだからってちやほやされて。

 おまけに父親にもたいそう可愛がられて。絶対陥れてやるんだから。」

と毒づいていた。邪な心の声が聞こえたのか、

「反省していないようなので、しばらくこのままの姿に留め置くぞ。」

というと、狐女は犬をかっさらってどこかに消えてしまった。

 さてこちらは式子内親王の御所にほど近い場所にある、以仁王の御所である。

そよ風が吹く晴れた日だった。笛を吹きながら、以仁王は数日前に

八条院暲子内親王の御所を訪ねた時の出来事を思い出していた。

 叔母である八条院暲子内親王は独身なので

実子はもちろんいなかったが、

楽才に優れた以仁王をわが子のようにかわいがっていた。

数日前、八条女院はこのお気に入りの甥と差し向かいでいた時にこう言った。

「兄上(後白河法皇)はなぜそなたのように

 できのよい息子を後継者として指名せずに

 出家などさせようとしたのであろう。

 もしあの時わたしが弟(近衛天皇)の跡を継いで即位していたなら、

 そなたを東宮に立てることができたものを。」

 自身も19歳の若さで出家した暲子内親王は

権力をもちたいという意思をあらわにした。

暲子内親王の同母弟である近衛天皇が若くして亡くなったときに

その父の鳥羽法皇が鍾愛の皇女である暲子内親王を女帝に立てようと真剣に

考えていたことを以仁王も知っていた。

 以仁王は裕福な八条院暲子内親王の手厚い庇護のもと、

風流な遊びにうつつを抜かしているように

装っていながら、満たされない思いを抱いていた。

「まろに運がめぐってくるのは一体いつになるのだろう。

 治天の君として君臨している

 あの父上だって今様狂いの四ノ宮だといわれていたころは

 誰も即位するなんて思ってもいなかったのに。

 兄上(二条天皇)だって本当は出家するはずだったのだ。

 まろにだって可能性がないとはいえないではないか。世渡り上手な

 兄上(守覚法親王、仁和寺御室)は中宮お産の祈りで父上に勅書でねぎらわれ、

 その名声はいや高まるばかり。一方でこのおれは中途半端な立場で

 決まった役割もなく、大の男なのにのらくらしているだけ。

 何のために生きているのかわからなくなる。

 このまま埋もれ木になるよりは

 一か八かで、あの誘いに乗ってしまおうか。」

と考え込んでいると、以仁王の息子である若君のにぎやかな歓声が聞こえた。

「テイカ、そんなに高く毬を蹴ったら塀を飛び越えてしまうではないか。」

と小さな若君は元気いっぱいにはしゃいでいる。この若君は

八条女院の筆頭女房である、三位局との間に生まれた子供である。

「おや、テイカではないか。しばらく顔を見なかったな。

 若君の相手をしてくれてたのか。」

と以仁王は定家の姿を見るといった。

「もっと早く伺いたかったのですが風邪をひいたりしたせいで

 ご無沙汰してしまいました。」

と定家は言った。

「宮様、素性の知れない物の怪に大切な若君の遊び相手を

 させるのはいかがなものかと。」

と乳母兄弟の六条宗信がそっと以仁王に耳打ちした。

「物の怪だと。何を言う。影があるではないか。」

とすっかり全快して蹴鞠に興じる定家の姿を指さして以仁王は言った。

この頃には生霊になるのではなく、小犬に化けて侵入してから人間の姿に

戻るのが定家の習慣になっていた。

「獣に化けるなど怪しい術を身に着けた者と

 あまり親しくしていることが知れたら、

 宮様の評判にかかわります。」

と宗信は険しい表情で言ったが、

「そなた、やきもちを焼いているのか。」

とせっかくの忠告も一笑に付されてしまった。

主従のそんなやりとりに定家は聞こえないふりをしていた。

「さあ、外堀を固めていとしい姫宮様に振り向いてもらわないと。」

と定家は考えていたのだった。



 

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