第17話末法の世

「お兄様、お久しぶりですね。」

式子内親王しょくしないしんのうは御所を訪ねてきた高倉宮こと、以仁王もちひとおうに言った。

「いろいろと忙しくてな。しばらく来られなくなるので

 そのことを言いに来たのだ。」

と兄は妹に言った。

傍らでは以仁王の息子である若君が無邪気にコマを回して遊んでいる。

季節が春に変わったというのに、高倉宮の着ているものは

どんよりと暗い色の古びた直衣のうしだった。

「お兄様はずいぶんおやつれになったわ。

 以前はもっと身なりに気を使っていたのに。

 去年(1179)、天台座主の明雲みょううんが兄上の領地を

 いきなり取り上げたせいで悩んでおられるのだわ。

 出家をやめて還俗げんぞくしたからって、

 なにもそんなひどい仕打ちをしなくてもいいでしょうに。」

と式子は悲しく思った。天台座主てんだいざす最雲法親王さいうんほうしんのうの死後、還俗する以前は

最雲の弟子であった以仁王は遺領として

城興寺領を受け継いで長年知行していた。ところが最雲の

跡をついだ明雲は平家に取り入っている僧侶であった。そのため、

「僧侶をやめて還俗した以仁王が師の遺領をもらうのはけしからん。」

と親平氏派の明雲は難癖をつけて以仁王の領地を没収したのであった。

 式子と仲の良い兄である以仁王は式子の住む御所のすぐ近くで暮らしていたが、

以前よりも往来が減っていた。

 以仁王はしばらく黙って考え事をしていたが

「もしまろにもしものことがあったら、

 子供たちの力になってやってほしい。」

と言ったので、式子内親王は驚きを隠せなかった。

「縁起でもないことを言わないでください。もし

 困ったことがおありなら、後見して下さっている

 叔母様(八条女院はちじょうにょいん)に相談なさった方がよいのでは。」

と式子内親王は言ったが、

「まろはだれの助けも借りず、独り立ちするために命がけの賭けに出るのだ。」

と決然とした様子で以仁王は言った。兄と会うのも

今日で最後になるのではないかという不吉な予感を式子内親王は抱いた。

「危ないことはおやめください。」

という言葉がのどまで出かかったが式子は何も言えなかった。

冒険的な生き方を選んだ兄に対する尊敬の念がまさっていた上、

たとえ実の兄弟でもその生き方に口出しすべきではないという

遠慮が働いたためである。

「ところでお父様の身が心配ですね。これからどうなってしまうのでしょう。

 世の中が大いに乱れて、まさに末法の世というしかありませんわ。」

と式子は父の身を案じた。二人の父親である後白河法皇は

クーデターを起こした平清盛によって鳥羽殿に軟禁されていた。

高倉天皇と中宮の平徳子(清盛の娘)との間に生まれた言仁親王ときひとしんのう

が即位し(安徳天皇)、その

身辺を平家出身者で固めたことから、

政治から締め出された後白河法皇と清盛の対立が深まり、

ついにこのような事態に陥ったのだった。

「なあに、父上は並外れて強いお方だから、心配ないさ。

 それに平家だってずっと今のままの状態でのさばっていられるわけがないよ。」

と以仁王は言ったが、平家の権勢が一向に衰える気配がないので

かなりいらだっていた。

 重苦しい空気があたりに漂ったが、

「わあ、きれいなチョウチョがきたよ。」

という若君の声で、沈黙が破られた。

部屋に入った途端、赤いチョウは落っこちて定家の姿に変わった。

定家の変身シーンは以仁王親子同様、式子も見慣れていたはずだったが、

「きゃっ!」

と悲鳴を上げて、式子内親王は顔を赤らめながら慌てて扇で顔を隠し、

御簾みすの裏に逃げ込んでしまった。この時代、高貴な女性は

家族以外の異性に顔をさらさない習慣であった。

「ご家族でおくつろぎのところ、いきなり飛び込んでしまい、

 申し訳ございません。ご無礼をお許しください。」

と定家は自分の無作法に気づいて蒼白になりながらその場にひれ伏した。

今までは子供だったので、あまり警戒されなかったのである。

「遠慮はいらぬ。しばらく見ない間に成長して一人前の男になっただろう。

 ただ今度訪ねてくるときは妹を驚かせないように事前に知らせてくれよ。」

と以仁王は定家を弁護したものの、

「どちらかというと、そちはチョウよりも蛾の方がお似合いだとまろは思うが。」

と定家のあばた面をじろじろ見ながら言ったので、

式子内親王は思わず噴き出した。

以仁王は定家の着ている赤色の装束をじろじろ見て、

「そちがなぜ赤いチョウに化けていたのかわかったぞ。

 五位の者だったのか。」

と言った。定家は仁安元年にんあんがんねん(1166年)12月30日、従五位下に叙位されていた。

朝廷において、五位の位階に位置する者は赤い服を着る決まりであった。

おおまかにいうと、正一位が最高位で大臣クラス、

従五位下までが下級貴族であると

みなされ、それ以下は貴族ではないとみなされる。

「しかしわかりやすいのう。そちはわが妹にべた惚れなのだろう。

 隠しても無駄じゃよ。」

と以仁王はにやにやして定家をからかった。

「そ、そのような恐れ多いことを!天と地ほども身分が違いますのに。」

と言いながら定家は真っ赤になってもじもじしていた。

「恋をするのに身分など、関係ないと思うわ。

 我が父(後白河法皇)は今様などの優れた技能をもつ

 者なら身分を問わず、自身の周囲に集めているのですよ。

 その娘であるわたしが他人の身分を気にして何になりましょう。」

と式子内親王が言うと、以仁王は大きくうなずいた。

父の御所である法住寺殿で同居していたころ、そこに出入りする

庶民に近い階層の人々と交流する父の姿を見ていた式子は

深窓の姫君にしては身分の低い人々への偏見が薄らいでいた。

式子らの異母兄、二条天皇が諸々の反対を押し切って、

近衛天皇の皇后であった藤原多子ふじわらのまさるこ

自らの後宮に迎えるという前例のない入内を強行したときなど

(そのため多子は二代の后とよばれた)後白河法皇は

縁側に座って道行く市井の人々を誰彼かまわず呼び止めて

息子の反抗を嘆く愚痴をこぼしたことさえあった。

 ちょうどそのとき、こまを回す遊びにあきた若君が

御簾の向こうの式子に向かって

「叔母さん(式子)はすごい美人だからモテるね!

 髪の毛だってすごく長いし。うちの女房達がうらやましがってたよ。」

と笑いながら言った。

「あら、そんなことないわよ。」

と言いながらも式子はまんざらでもなさそうだった。

「まさか姫様、おれに気があるのではないだろうな。

 ここで何か気の利いた歌でも詠めたら株が上がるのだが。

 勉強不足のせいか何一つ思い浮かばない。」

と先ほどの式子の大胆な発言に動揺した定家は得意の和歌も詠めないほどだった。

 にぎやかな話し声を聞きつけた竜寿は様子を見ようと

几帳きちょうの陰から覗き込み、その場に

いるはずのない弟がいるので仰天した。

「なんということ!姉のわたしに断りもなく、上がり込んで

 高貴な宮様方にご無礼を働くとは。」

と慌てたが、三人が打ち解けた様子で談笑している上、

若君が定家になついている様子だったので狐につままれてしまった。

「いつの間にか取り入って、ずるがしこいわね。

 あとでみっちり問い詰めてやるんだから!」

とぷりぷりしながら立ち去ったのだった。

 

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