第36話 外伝4 犬君は乳母になりたい!!
そして予定日数日前から、雨は弱まり、予定日にはそれはもう見事に晴れました。何日ぶりの晴天でしょうか、それ位晴れたわけであります。
姫様も、お付きの女房の皆さまも、皆美しく着飾って、楽しそうにはしゃぎながらお出かけになりました。
私は牛車の関係上、お留守番になっております。
思えばこういう時に、姫様と一緒でないのは初めてかもしれませんね。
何事も素晴らしくこなし、気品あるたたずまいである姫様に、間違いが起きる事はないでしょうし、女房の皆様も、有能な方々ばかりだから、大丈夫だとは思います。
私はと言えば、庇に出て、周りを見回し、外を飛ぶ胡蝶の方々に、そっと呼びかけました。
「皆さま、私とおしゃべりしてくださいな」
それを聞くと、ひらひらと胡蝶の皆様が私の側に集まってきました。
蝶々の皆様はおしゃべりが大好きなため、私は聞き役に徹していても、なかなか楽しい時間です。
彼女たちは、最新の流行の話と、最近の雨で羽が濡れるから飛べなかった愚痴と、他の屋敷の事を話してくれます。
そんな時でした。
「そんな日向に出たら日焼けをする、と宮中のご婦人方は嫌がるだろうに」
呆れた様な、からかっているような声が、私が見ている庭とは反対の方角からかけられました。
誰も来ないと油断していたわけですが、私は持っていた扇で素早く顔を隠しました。
そして声の主をみやります、この声に聞き覚えなんてありすぎるほどだったのですから。
「何用でしょう」
「ここの使用人たちのお喋りを、部下が聞いていてな。狼童が牛車の関係で、女房の中では一人お留守番をしていると喋っていたから、様子を見に」
そう言って現れたのは、普段着であろう狩衣姿の巌丸でした。この人名前は未成年のそれなのに、衣装は成人済みの衣装なのですよね。宮中に職があるという事からも、成人済みという事でなければおかしいのですが、どうして名前だけ元服前のそれなのでしょう。
私に名乗る名前が偽名、というだけの事でしょうか。
しかしよくまあ、この、都の住人からすれば、猛々しいであろう坂東の若頭目を、この鬚黒大将邸の方が通しましたね……と思っていると、彼は私が座る庇の欄干のあたりの腕を置き、私を見て楽しそうに言い出します。
「使用人に、狼童が一人でいると聞いたからな、彼女に用事があるのだ、と言ったらすぐに通してくれたぞ、一人寂しく留守番という事で、使用人が同情していたらしい」
「そうですか……」
「ついでに言えば、俺がいれば、自分たちも舟遊びを見に行く事が出来るから、という打算もありそうだ」
「確かに、こうしたにぎやかな事を見に行くのは、誰でも楽しみでしょうからね……」
私は節度を保って会話します。顔は隠しますし、丁寧な物言いは崩しません。
「あなたはどうして来たのです、仕事はどうしたのですか?」
「部下たちに、こうした時に意中の女性を誘いに行かなくて、どうやって陥落させるんです、と言われてしまってな! 俺もまだまだ女性の心が分からない」
巌丸の住んでいた坂東と、こちらの女性たちの感覚はかなり違いそうですからね……
胡蝶の皆様が、こんなやりとりの私と巌丸を見て
「彼氏?」
「にしては敬語」
「私たち、今、恋物語の場面に出くわしちゃってる?」
と色めき立っております。色めきたっても何も出てきませんから。
と思いつつ、私は言います。
「姫様が、私以外の方々と親しく交流する事は、よい兆しですから」
「寂しいと思わないのか? あれだけ心を砕いていた人だろう」
「私なしに何もできない、なんて事はあってはならない事でしょう。身の回りの女性たちと親しくする事は、今後良い事になりますから」
「女房根性はよく分からないな、俺には。だが狼童、もしも俺が舟遊びの見物に誘ったら、一緒に来てくれるか?」
「男女が連れ立ってそんな物見に行ったら、誤解されてしまいます」
私がきっぱりと言うと、巌丸が笑いました。そして少しこちらに身を寄せて、私を覗き込み、いいます。
「誤解されたいんだ、俺は」
「私はされたくありません」
しかし、姫様たちが何を見ているのか、それは気になります。
それにカワズさんが言っていた、三輪山の蛇神の事もとても気になります。
ですが、私は姫様に、お留守番をしている、と約束したわけでありまして、今この屋敷の、姫様たちの空間を守るのは、私のお役目なのであります。
盗人なんてものは、隙あらば盗んでくる職業。生きていくためには仕方がない事も多くありますが、犬君がいながらここに盗みが入るなんて、と姫様が衝撃を受けてしまうのは耐えられません。
下手したら私が、盗人の手引きをしたなんて思われます。
そんなの絶対に嫌です。自分の欲望の結果、姫様の信用を失うなんて、首をくくってもまだ足りません。
そのため私は、きっぱりと断りました。
「見に行きたければお一人でどうぞ。私は姫様がお留守の間、ここをきちんとお守りする約束をしておりますから」
「こんなにも広い屋敷なのに、たった一人で守れるのか? ……軽んじているわけではないんだ。ただここは、俺が見た事がある屋敷の中でも、格段に広い豪華な邸だから、そんな事を思うんだが」
「この、姫様が暮らしている対の屋を守るだけです。正殿などは、鬚黒大将様が、きちんと警備のものなどを配置しておりますので」
「確かに、あちらはかなりきちんと守っていたな」
「でしょう。人徳の結果ですよ」
「宮中でお見かけした事があるが、なかなか立派な立ち振る舞いをする方だったな」
「あなたよりは洗練されておりますよ」
私が事実をはっきりと言うと、巌丸は目を丸くしてから、吹き出しました。あなたが無作法だって言っているのに、笑うなんてなんていう笑いのツボなのですか。
調子が狂う人ですね。
「確かに、坂東生まれの俺が、なかなか立派な立ち振る舞い、と評するのは言葉がおかしいな、言われてみればそうだな」
そう言って笑う巌丸が、私を見ながら言います。
「で、狼童は、蝶々を寄せて、一体何をしていたんだ?」
「何かをしていたら悪いのでしょうか?」
巌丸には、私がカワズさんや胡蝶さんたちと喋れる事を教えておりません。滅多な人には教えていないので、このお屋敷でも知っている人間は、かなり限られています。
下手にぺらぺらと話すわけにはいきません。不気味だと思われて、姫様の元から離されてはたまったものではありませんからね。
「普通人間に蝶々は寄ってこないだろう」
「どうでしょうね、それはあなたの知っている人間のくくりの中の話でしょう」
お喋りをしたいから来てください、とお願いしたから、皆さん来ているわけなんですけれどね。
それを言っちゃあおしまいなわけなので、言わないですよ。
この男をそこまで信じていいという、確信もありませんし。この男が化物だと私を切り捨てる可能性だって、無きにしも非ず。
私が何が悪いの、と言いたげに視線をやると、巌丸は私を見て、こう言いました。
「狼童は鋭い誇り高い目をしている狼と同じで、謎が多いな。まあ、女性という物は謎が多いと坂東ではよく男たちが言っていたから、そう言う物なんだろうが」
「男と女の考え方は、大きく違いますから、謎でしょうね」
それ位教育と常識の差があるのですから、考えている事が分からない、と思われるのもわかりますしね。
胡蝶の皆様はというと、まだ私の近くで羽ばたいておりまして
「じれったい」
「これぞ恋の駆け引き」
「面白い物見てるわ」
なんて楽しそうです。不愉快な気持ちになっていないようでよかった。なかなか屋敷の外に出られない現状で、外の情報をくれる皆様に嫌われてしまったら、大変ですし寂しいので。
さて、そんな会話をしていた時の事でした。
「若!」
突如響いた、切羽詰まった声とともに、一人の武人が転がるように走ってきました。
「川の水がいきなり増え、たくさんの貴族の方が川に飲み込まれました!!!」
その報告を聞いた巌丸の顔が険しくなりました。
「すぐそちらに向かう。救助の人員はどれだけ回せる。堤防は」
「見ていただいた方が早い、直ぐに来てください!!」
武人の報告と顔色の悪さから、相当な被害であることがうかがえます。巌丸は私を見て、言いました。
「また来る」
そう言って彼等はすごい勢いで去っていきました。残された私は、武人の報告に、血の気が引いて真っ青です。
多くの貴族の方が流された、と言っていました。
姫様は?! お付きの皆様たちは!?
直ぐにでも現場に向かいたい、と思いました。しかし、私はここを動けない。もしも行き違いになったら、という事と、私が女だと誰が見てもわかるからです。
童の姿をしていたら、危ないから邪魔だとか、言われます。それで追い出されます。
女の姿をしていたら、女がこんな所に来るな、と言われます。
色々な意味で、私はここで姫様たちの無事を知らせる報告を待つ、という事しか出来ませんでした。
そして、流されたお付きの皆様たちは、皆とても運よく助かったのに、姫様だけ。
姫様だけ、川に流されて見つからない、と、土気色の顔の、鬚黒大将からのお使いが知らせてきました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます