第35話 外伝3 犬君は乳母になりたい!!

「旦那様は奥方様をとても大事に思っていらっしゃるのですね」




裳着を済ませても、女の印が来ていない姫様を、鬚黒大将がとても気遣い、大切に思っている事はあっという間に鬚黒大将邸に広まり、お付きの人たちとかさらには女房の皆様、さらには鬚黒大将の両親の御二方にまで伝わってしまいました。


というのも姫様が、夜のこと以外は何一つそつなくこなすからです。


この時代の奥方という物は、裁縫と染色の技術がとりわけ高くなければなりません。


そして原作の時点で、素晴らしくその能力が高い事で知られていた姫様は、この世界でもとりわけ非凡な才能を発揮して、とても素晴らしい物をおつくりになりますし、女房の皆さまに指示します。


染色と裁縫の技術は高いですが、しかし姫様に機織りの技術はありません。これは社会的立ち位置の結果です。


織物に関しては、専門職の方が絹織物を作るわけです。機織りは機織り機の仕組み的に、平安貴族女性の衣装では織れない仕組みですし。


仕方のない事です。


ただし、姫様は恐ろしく目利きになられたので、商人が持ってくるものの中でも、いい物しか買いたがりません。


いい物を買っても、鬚黒大将の家の財力なので楽勝です。


そして美しく素晴らしい衣装を仕立てる事は、この家の財力と嫁いだ嫁の能力の高さを見せつけるらしく、他の女房の方の旦那様や彼氏たちが、




「鬚黒大将の衣装が見事すぎる、そしてそれを堂々と着こなす鬚黒大将が立派過ぎる」




というわけです。まあ、原作でも鬚黒大将は「直衣をとてつもなく立派に着こなす」といった表記がされているわけで、玉鬘視点だとひげ面で色黒というところでそう言った褒め言葉が台無しになる、というのが玉鬘十帖の中身の一つでもありました。


事実、公的な時間に、ルールの中でもとりわけ立派なものを見にまとう鬚黒大将は、さすが桐壺帝の養女姫が、降嫁しただけの力がある、と言われるようになっております。


姫様の新婚生活は、それはそれは順調に過ぎております。


姫様は、この結婚生活を心配した藤壺様が、数回内裏に呼び寄せておりますが、そこでも




「私の旦那様はとてもやさしくていらっしゃるのです、私にはもったいないくらいの素敵な旦那様ですわ」




と花でも飛ぶような微笑みで幸せを語る姫様を見て、藤壺様も安堵している様子であります。


しかし、その幸せもだんだんと影が差し込むようになっておりました……






雨がよく振っています。




「最近雨が多くて困るわ」




「早くお日様が見たいですねえ」




姫様が外を眺めてそんな事を言い、女房の皆様がそれに答えます。


季節外れの長雨は、桜の宴が終わり、屑野郎が須磨に流刑になった後、数日後から降り続く長い長い雨です。


ここまで長雨になるのも、この季節には珍しいのではないでしょうか。


それ位、雨がよく降っているのです。




「川が氾濫しないか心配ですねえ」




そんな事を言う女房の方もいらっしゃいます。雨が長く続くと、このあたりではあっという間に川が氾濫し、堤防は決壊し、悲惨な事になります。


川の治水は貴族の皆様の悩みどころであり、死者を毎年多く出している事でもありました。


例年もっと遅くに長雨が来て、つまり梅雨の時期に来ているため、対策を立てる予定もそのあたりのはずだったのですが……




「旦那様も宮中での仕事が増えたそうです」




そうやって、鬚黒大将からのお使いの人が来てばかりだ。


朝も早いし夜も遅いし、普通に宮中に泊まる日も増えて来て、姫様は寂しそうである。


色々女房の皆でお慰めしているのだが、初恋の人と新婚生活を送っているような気持でいる姫様にとって、寂しくて寂しくてたまらないのは仕方がない。




「ねえ犬君、旦那様は今日も遅いというの、待っていようかしら」




「姫様はそう言って三日前からかなりの夜更かしをしていらっしゃるでしょう、お体に障りますよ、帰っていらしたら必ず起こしますから、お休みください」




「でも……」




眠たげな眼をこすりながら、がんばって起きていようとする姫様。私はなんとも言えない気分で、彼女を几帳台の上に押しやる。姫様は夜着を被ったらすぐに寝入ってしまった。


私はそのそばに控えながら、不意に感じた気配に庭の方を見やった。


長雨の中、誰か来たのだろうか、それにしては先触れもなければ人の気配もしない……と思った矢先の事である。




「ようお嬢ちゃん。カワズさんが遊びに来たぞ」




庭の近くまで近寄った、私の側に現れたのは、内裏にいるはずのカワズさんでした。




「カワズさん、どうしてここに来たんですか、知り合いの知り合いとか、孫の親戚とか、いっぱいいるって言ってましたよね」




私は小声でカワズさんに問いかけました。手のひらほどの大きなカエルの姿のカワズさんが、うん、と頷いた。




「厄介な事になっちまったぞ、三輪山の蛇神が機嫌を損ねて雨を降らすんだ」




「三輪山の蛇神って……何ですかそれは」




私は思ってもみなかった言葉を聞き、声が小さくなります。カワズさんが難しい顔であろう顔をしながら言います。




「三輪山の神の話は知っているか?」




「うろ覚え程度には」




正体を隠して通う男の姿を見たいといった姫君が、その男の姿である蛇を見て、悲鳴を上げて、結果死んでしまうという話だったような。




「どうやら、三輪山の蛇神は、桐壷更衣に特別な恩恵を与えていたらしくてな。その子供である光君を、宮中から追い出した事で、機嫌を損ねて雨を降らすらしいんだ」




私はここで、専門書の中で、光源氏という屑が、三輪山神話と重ね合わせられていた事を思い出しました。


夕顔の下りの時に、屑は、三輪山神話のような事をしているはずです。




「三輪山の神は好色だ。そしてどうやら若紫姫にご執心だったらしい」




私は思い切り引きつりました。姫様が、神に気に入られるほどの、素晴らしい姫である事に間違いはありませんが、屑と関わりのある神に目をつけられているとは思わなかったのです。




「三輪山の神は、その夫として光君は認めていたらしいが、鬚黒大将は気に入らないらしい。それで機嫌を損ねた」




まさか神話的ファンタジー的問題で、この長雨が起きているとは。


私は周りを見回して、誰も聞き耳を立てていないことを確認し、いいました。




「宮中でそれは知られていますか」




「この長雨を憂いた桐壷帝が、神おろしを行う予定だ、おそらくその時に、知られる」




「……」




「よりましがいるって時点で三輪山の神にとって都合がいい、あの神の力は甚大だ。よりましに降りて、己の怒りを伝える程度の事は易い」




この場合、姫様の立場はどうなるのだろう、そして鬚黒大将との行く末はどうなるのでしょう。


長雨を降らす強力な力を持つ神が、「若紫姫は光君と結ばれなければならない」と言った事を言った場合、桐壷帝はどう動くのか。


この長雨は不吉だと、誰もが思っています、雨をやませなければならないと、きっと誰もが思うでしょう。


そのために、神の怒りを解く事を、為政者ならば考えるはずなのです。


結果、一人の少女を苦しませる事になったとしても。為政者とはそう言う物であるからです。




「……」




私は答えが見えませんでした。まさか屑の三輪山神話との類似点が、こんな形で影響してくるとは思わなかったのですから。


私の大切な姫様が、初恋の方に似ている鬚黒大将を愛しているのに、雨をやませるために引き離されて、屑の元へ捧げられる。


そんな事を、私は認めるわけにはいきません、でもどうすれば……




私はその夜、一睡もできず、ひたすら考えていました。










「舟遊び? お天気は大丈夫なのでしょうか」




あくる日、私は宮中の藤壺様からの意外なお誘いに目を丸くしました。


なんでも、宮中の鬱屈した空気の重たさから、気晴らしにと、桐壷帝が藤壺様に舟遊びを提案したらしいのです。


陰陽博士たちも、良い日を選び、そこならきっと晴れるだろうという予測の結果、この舟遊びが決定したのだとか。


そして藤壺様は、可愛い養女である姫様もぜひ、とお誘いになられているのです。


場所は嵐山の川で、そこで皆で船に乗り、雅楽などを鑑賞し、歌を詠みあい、という事をするらしいです。




「なんて楽しそうなの、最近雨ばかりだったから、晴れる日に、嵐山まで行けるなんて幸運だわ」




「そうですね、それも藤壺様からのお誘いともあれば、最高の名誉でしょう」




「舟遊びのための御装束の用意をしなくてはなりませんね」




「楽しくなってきました、姫様、お付きのものは誰を連れて行くのですか?」




女房の皆様が大はしゃぎしております。そりゃあこの長雨は誰でもうっとうしく思っていましたし、晴れる日の予測が立ち、その日に華々しく舟遊びをするとなったら娯楽の中でも飛び切りでしょう。


皆同行したくて、選ばれたくてうずうずしております。




「犬君は絶対よ。皆それはわかってくださる?」




姫様があでやかに微笑みながら言うと、一人の女房が言い出しました。




「姫様、腹心の女房だという事はわかっておりますが、わたくしたちも姫様にお仕えする身の上、あまり犬君びいきし過ぎないでください」




そう言ったのは、鬚黒大将邸で新しく雇われた女房のお方です。古参の方々は、私がどれくらい昔から姫様にお仕えし、姫様を守り、姫様のために尽くしてきたか知っているから、こんな風な事は言わないのですが……まあ、言われても仕方がありませんね。




「そうですとも、犬君がいなくては何もできない私たちでは、ありませんわ」




「犬君は頼もしいかもしれませんが、わたくしたちも寂しく思いますよ」




皆舟遊びについていきたいという事があるでしょう、さらに私にばかり頼る姫様の事を、寂しく思っているのも嘘ではないでしょう。


ここで私は、私以外の女房とも、姫様が絆を結んだ方がいいよな、と思いました。


流石に舟遊びのさなかに、姫様に乱暴狼藉を働く輩がいるとは思えませんし。


だから私は、穏やかに言いました。




「私はお留守番をしておりましょう、姫様は皆様と楽しんできてください」




「犬君はいかないの?」




「姫様が皆様と楽しくお過ごしになる事が、私にとって良い事ですもの」




「そうね、私、皆とそこまでお話を、してこなかったかもしれませんものね」




私は姫様に尽くす所存ですが、私がいなければ何もうまくいかない、なんて事はあってはならないと思っておりますので、この選択肢は正しいと、この時は思っておりました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る