第20話 どうも犬君です、夜歩きに危険はつきものです。
ただ、牛車をいきなり、蛍帥宮さまは取りやめると言い出しました。
「こんな月夜だ、歩いていくのもなかなか趣深いと思わないかい、犬君」
「月が明るいと、道が明るいので、変な物に出くわしやすいですよ」
「だからそう言った物を相手にして、一歩も引かないでいられる犬君が、傍にいる時しかやらない贅沢ですよ」
それに、月夜と言うのは元来、秘密を持ちながら歩くに持ってこいなのだと言われます。
「そう言う物なんですか」
「昔の話によれば、男は苦難を乗り越えて、恋しい女性の所に行かなければならなかったと聞きますからね。さらに通いと言うのは、誰かに見られるのもよろしくなかったとも。たまにはそんな気分で歩くのも、情緒があると思いませんか?」
「師匠の見事な感性は、犬君にはとても真似のしようがないですよ。でも、歩いていくと余計に、怪しまれませんか」
「最近遊びにも来ない兄君に、文句を言うふざけた弟、という肩書を持って行こうと思っているんだよ」
「まあ、最近源氏の大将は、葵上さまの所から出してもらえず、遊びに行くのも不自由しているといいますからね。代わりに左大臣様のお宅で、色々な遊びをしているとか」
「父がしょっちゅう呼び寄せていても、私とはすれ違いになりやすいものでね。顔を見るくらいは、異母弟としてやっても目くじらは立てられない。それに手紙を送って行こうとすると、いつもつっぱねられてしまってね。元気だと皆が言うのですけれど、実際に見なければわからないものでしょう」
「私は、源氏の大将に会いたくないです」
「犬君は、義姉上の所に藤壺様からお手紙があるというそぶりをしていればいいでしょう。相手は勝手に想像して招き入れます」
「私思い切りやらかしているんですけど……」
五年ほど前にですが、その時の指摘で葵上さまは屑を、再教育する事にしたのですから。この顔を忘れたとは思えないのですよ。
「その格好はいい目くらましになるとも。犬君はいつまでたってもどこか、年齢の分からない超然とした姿勢と、配慮の足りない経験の浅い子供のような雰囲気があるから。黙っていれば勝手に入れてくれますよ」
蛍帥宮様、容赦がないですが、犬君はそんなにも頼りなく見えるのでしょうか。
手を握って開いてみますが、その手をころころと笑って蛍帥宮様がつかみます。
「そういうところですよ。あなたが子供のように見えるのは。どうしてか稚い。つい頬をつまんで遊びたくなる雰囲気です」
「藤壺様の所の皆さまにも、言われますけれどね……」
犬君ってなんだか、子供っぽくて巫女っぽい。よく言われます。十八か十九くらいになっても言われる私はとても複雑です。
普通この歳になったら、立派に大人扱いされる物なんですよ。結婚しているの当たり前ですし。
ああでも、私は屑との結婚を蹴飛ばしたので、誰も声をかけません。
皆、
「あの光の君さえ拒絶し通す女性のお眼鏡に、自分がかなうとは思えない」と思うそうです。
年下の新婚のお方に言われました。はい。
彼女はいま、大変イチャイチャしています。隣の房なので、彼女たちの愛の語らいはよく聞こえます。
可愛くてしょうがないですね。どっちも好き―って感じなので。
それはさておき、私たちは道を歩きます。行先は覚えている物ですし、道は碁盤の目のようにわかりやすいという楽な道。角だけ覚えてけばすぐに場所を覚えられます。
そんな事を思いつつ、歩いていた矢先です。
不意に空気の温度が変わりました。
なにか、くると犬君にはわかりました。あんまりいい物じゃありません。
それは、私たちと同じ方角に進んでいます。
「朽草様。申します」
「どうしました、狼童」
朽草とは、蛍の別名です。どうやら蛍は、腐った水草が為ったものと思われていたらしいので。
秘密に動く時、この名前を蛍帥宮さまは使います。
犬君の事を、ろうじ、と男装の時に呼ぶような感じの使い方です。
「何かが同じ方角に歩いています。あまりよくないものの様子。道を変えましょう」
「……いいえ、行きましょう」
「良くないものと同じ法に行くというのに、珍しい選択ですね」
この時代、占いでよくない方角に歩く時、遠回りしたり人の家を借りたりするのに、蛍帥宮様は冷静に言います。
「こちらは左大臣宅の方。もしそこに行くならば、私も狼童も近くにいた方がいいでしょう」
「私はともかく、朽草様は」
「試してみたかったんですよね、陰陽師の知り合いからもらった退魔の札」
懐から取り出された、いかにもなんかありそうなお札です。犬君の眼には、ほのかに文字が光っているように見えますから、本物の効力のあるお札でしょうね。
でも……し、知りませんでした。蛍帥宮様にそんな好奇心があったとは。
ですが、一応釘はさしておきます。
「逃げてくださいと言ったら、逃げていただけますね?」
「その前に狼童が何とかしてくれるでしょう」
にこーっと微笑まれて、私は息を吐きだします。
「出来る限りはやりますよ」
そして私たちは、音を立てないようにひそやかに、その良くない物に追い抜かされるように動き、左大臣様のお宅に向かいます。
これってこの時代すごく非常識な事なんですよ。ゲン担ぎは今以上にあった時代だと言いますから。
「狼童がいると、何でもできる気がしてきますよ」
「やめてくださいませ、守るほうが大変ですから」
「そうそう、狼童。弓は持っていますか」
「一応もってますけど」
「それも絃を打ち鳴らせば魔除けになりますから、覚えておくといいですよ」
「知ってますからそれ位は。あと塩もありますし、この前右京で出会った友達から、もしもの時の火打石と火打ち金と、火種になるものももらいましたし」
「そんな面白い友達の話は初めて聞きましたね。今度ぜひ」
「ええ、いずれ」
言いつつ、私は目を凝らします。闇でもよく見える目は、月明かりに浮かぶ長い黒髪の誰かをとらえます。
「あ、扉の前に着きました。……って、ええっ! 見張り倒れましたよ!?」
女性らしきそのよくないものの眼を、見たのでしょうか。見張りが口を開いてそのまま倒れます。
音もない事だったため、家人が誰も気付いてません。そのまま中に入っていきます。
「一層おどろおどろしい由縁の物の様ですね」
「朽草様。私先に行きます。誰か人を伴って追いかけてください」
「狼童」
「あなた足が遅いんですよ!」
私は小さな灯りで見えた相手の顔の形相が、明らかに大変だとわかったので、ゆっくりしてられないんです。
蛍帥宮様を放置して、私は中に飛び込みます。
良くない物をみた全員が倒れるせいか、騒ぎになりません。
そして母屋の方では、何か愉快なお遊びをしている様子です。
そこに進んでいくよくない物。
私は頑張って廊下を渡っています! 遠いんですよね! さすが左大臣のお宅! でも緊急の時はほんと面積呪いますね!
「きゃあああああああ!!!」
犬君が頑張って走っている最中に、そんなすごい女性の悲鳴が響き渡りました。
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