2-2

 少し気を抜いただけで、ナイフ代わりの棒が手から弾き飛ばされて遠くで転がった。訓練の最後にやる氷雨との手合わせだ。


「もう限界ですかー?」

「ちょ、も……無理っす……」


 まともに喋る余裕すらなく、達規はその場にへたり込む。目の前に立つ氷雨を見上げ、息切れひとつないことを知って大きくため息をついた。


「なんで、そんなに強いんですか……」

「言ったでしょう、それなりに私も頑張ったんですよお。こんな私にも守りたいものがあったんでね」

「それって、」

「ああ、もうこんな時間ですか。そろそろ終わりにしましょう」


 過去形なのが気になったが、氷雨はそれ以上を語る気はないようだ。達規の言葉を遮るように口早にそう言い、いつもと変わらない、何を考えているのかわからないような笑顔を浮かべた。





「お疲れさまー。氷雨さん、どうだった?」

「そうですねえ。さすがに私相手ではまだまだですが、この短期間にしてはかなり良くなってきたんじゃないですか。元々運動神経がいいんでしょうね。勝てるとまでは言いませんが、下っ端相手なら多少は持ちこたえられるでしょう」


 地下の訓練施設から一階のリビングに戻ると、ひと足先に戻っていた氷雨が結芽に報告をしてるところだった。褒めてもらえるのは嬉しいが、運動が得意だといってもスポーツをやっていたわけではなく、小さい頃からヒーローになるんだと言ってそこらへんを駆けまわっていたからなのだと思う。無駄ではなかったのだろうが、さすがに言えない。


「へえ、上出来よ。すごいじゃない達規」


 達規が戻ってきたことに気付いた彼女が、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「毎日しぼられてるからね」

「何言ってんの、頑張ってるからよ」


 そのとき、玄関が勢いよく開閉する音が聞こえたかと思うと、続いてバタバタという足音、そしてすぐにリビングのドアが大きな音をたてて開かれた。


「結芽さん怪我したって⁉」


 驚いて振り返る。そこには一人の少年が息をきらせながら立っていた。中学生くらいだろうか、短い前髪がさわやかで、男にしては可愛らしい顔つきによく似合っている。その顔も今は焦りが浮かんでいて、彼は結芽を見つけた途端、入ってきた勢いそのままに駆け寄った。結芽は困ったようにこっそりとため息をついている。


「大丈夫ですかっ、いったい誰に……」

「もう治ったよ、相手は利津が殺した。……いらっしゃい虎狛こはく、人の家にあがるときは挨拶しようね」

「あ、すみません……お久しぶりです、おじゃまします」

「うん」


 にっこりと頷く結芽に、虎狛の頬が赤くなる。へー、ふーんなるほど。

 なんとなく察した達規が微笑ましく思っていると、虎狛はたった今達規の存在に気付いたらしく、こちらを見た。


「誰こいつ」


 怪訝そうな目に悪意はなさそうだが、ひとつ理解した。もしかしなくても、生意気なのでは。初対面の一言めがそれか。

 達規はひきつりそうな頬を必死に抑えて、笑顔をつくる。


「初めまして、最近入った高坂達規です」

「ああ、例の……結芽さんの学友っていう……」


 虎狛は達規の頭から足までじろじろと長めていたが、やがて握りしめた拳をふるわせ、叫んだ。


「……調子にのんなよ、ばーか!」

「え」


 そのまま走ってリビングから出て行ってしまった。玄関のほうで「おじゃましましたーっ」という声が響き、玄関の音が続いた。嵐のような少年がいなくなって静かになったリビングで、結芽が再び、長いため息をつく。


 結芽には申し訳ないけれど、生意気かと思えばやっぱり憎めない可愛らしさがあって達規は吹き出してしまった。そのまましばらく腹を抱えて笑う。


「もう、いつまで笑ってるの」

「はは、あー腹いたい。最後の言葉が可愛すぎた」


 笑いすぎて出てきた涙を拭っていると、結芽が呆れたように小突いてきた。ごめんと呟いて、なんとか笑いを収める。


「中学生、だよね」

「うん」

「そんな子でも、戦ってるんだ」

「……そうだね。私が中学生の頃は、両親がいたから表立って動くことはなかったんだけど。虎狛を見てると自分がいかに甘やかされてるかを自覚するよ。今でもね」


 ソファに座りながら、結芽がぼやいた。


「そうなの?」


 同じように向かいのソファに腰をかけた達規は、十岐からお茶を受け取りながら首を傾げた。そこまで甘やかされているようには見えないのだけれど。


「そうですよー。利津くんはほんと、結芽くんに関しては甘い。妹みたいに可愛がるのか構わないんですけどねぇ」


 隣に座っていた氷雨が、組んだ足の上で頬杖をつきながら答える。


「いまだに結芽くんに殺しを経験させようとしませんからねー」


 確かに、先日の二人組のときも、結芽が自分でやると言ったのに利津がそれを許さなかった。


「今はいいですが、殺さなければ殺されるという状況になったらどうするんでしょうね」


 本人を前にして全く気づかうことなく言ってのける氷雨に、結芽が苦笑いする。おそらく慣れているのだろう。テーブルにお茶菓子を置いた十岐が、結芽の隣に座りながら唇をとがらせた。


「私は利津さんの気持ちもわかりますけどね。できることなら、人殺しなんて経験しないままでいてほしいものです」

「十岐くんまで甘すぎますよ、君たち保護者組はまったく。虎狛くんはどうなるんですかぁ」

「彼にもできるだけ手を汚さずにいてほしいとは思っていますよ。でも彼の場合ご両親の役目を引き継いでいる部分があるので、そのあたりはご両親に任せているでしょう」

「そういう人たちを束ねるのが結芽くんなんですよ」


 いつの間にか口論に近い状況となり、達規はおろか結芽さえも介入できずに黙り込むしかできない。結芽を見ると、彼女は困ったように苦笑しながら達規に肩をすくめてみせた。おどけた様子を見せているが、責任を感じているはずだろう。このままでは結芽がかわいそうだ。さすがに氷雨を止めなければと、口を開いたとき。


「ただいま……あ? なんかあったのか」


 リビングのドアを開けて、利津が入ってきた。彼はなんとなくいつもより空気が重いのを察したらしい。眉をひそめ、室内を見渡した。


「おかえりなさーい。君と十岐くんが結芽くんに甘すぎるって話をしてたんですよ」

「お前、また余計なこと言ってんのか」

「余計なことってなんですかー」

「余計なんだよ。少なくとも今は」


 わざとらしく頬をふくらませる氷雨を睨み、利津が一蹴いっしゅうする。氷雨はしばらく口元に笑みを浮かべたまま利津を見ていたが、やがて小さく息をついて目をそらした。


「わかりましたよぉ、でもいずれはしっかり考えてもらいますからね」

「ああ」

「じゃ、私はもう一回訓練施設を借りますねー」


 ソファから立ち上がり、肩ごしに手を振りながら氷雨がリビングから出て行く。ドアが閉まったのを確認してから利津は無言のまま結芽へと近づき、乱暴に彼女の頭を撫でた。


「わっ、何すんのよ」

「へこんでそうだったからな」

「別に、しょうがないことだし。って、髪やばい!」

「はは、ボサボサ頭」

「利津のせいでしょ! もーっ」


 怒って頭上の手を払いのけた結芽を見て、利津は満足そうに口端をつりあげた。本当に仲のいい兄妹のようだった。

 利津の頭の向こうにある壁時計を見ればもう夕食時となっていて、達規は慌てて腰を上げる。


「やば、帰らなきゃ」

「ごはん食べていったらどうですか?」


 台所から利津の分のお茶を運んできた十岐がそう言ってくれたが、実家では母親がすでに夕飯の支度を済ませているだろう。達規は首を横に振る。


「たぶん、母さんがもう作っちゃってると思うので。また今度いただきます」

「そうですか。それなら帰らないといけませんね」

「はい。お邪魔しました」

「あ、達規ちょっと待て」


 鞄を持ってリビングから出ようとしたところで、利津に呼び止められた。振りかえると、利津が先ほどまで達規が座っていたソファに腰かけながらこちらを見ていた。


「今度の土日、特訓は休みで。仕事が入って相手できねーから」

「わかりました」

「自主練はしとけよ」


 頷いて、今度こそ香椎家をあとにする。ここ最近は特訓ばかりだったから、久々に買い物でも行こうかと考えを巡らせる。


「仕事、か……」


 派閥の仕事なのだろう。

 きっと、甘やかされているのは結芽だけではない。まだ実力がないからだというのはわかってはいるが、元から派閥の家系に生まれた虎狛のような子に比べたら自分の苦労など微々たるものだろう。

 買い物はほどほどにして、あとは自主練に費やそう。そう決めて、達規は家路についた。

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