1-2

 急げば、まだ間に合うはずだ。

 階段を駆け下り、人波をすり抜けながら下駄箱へ向かう。何人かが迷惑そうな視線を向けてきたが、全て無視した。

 もどかしい思いで上履きから靴へと履き替え、つまずきながら再び走って校門へと急ぐ。彼女はもう校門を出てしまったようだったが、すこし離れた場所にその背中を見つけることができた。角を曲がっていくのを追いかけて、曲がった直後に追いつく。


「ねえ、君!」


 息をきらせながら声をかけた達規に、少女はわずかに驚きながら足を止め、振り向いた。


「……なに?」


 意思の強そうな瞳が向けられる。どうやって声をかけようかとずっと考えていたはずなのに、いざそのときになると全て吹き飛んでしまった。


「な、名前は?」

「は?」


 これではただのナンパだ。達規は自分を殴りたい衝動に駆られるが、なんとかそれを抑えこんで慌てて言葉を続けた。


「あ、ごめんまずは俺からだよな、俺、高坂達規っていうんだけど……いやナンパじゃなくて、ほんとに。えーっと昨日、君ひったくり捕まえてたでしょ。俺、そこにいてさ。かっこいいなーって思って。そしたら同じ学校だったみたいだから、つい……」


 怪訝けげんそうな視線に尻すぼみになりながらも、早口で説明をする。少女はそんな達規を見定めるようにじっと見つめていたが、やがてふいと視線を逸らした。やっぱりそうなるよなーと落ち込む達規の耳に、ぼつりとこぼされた声が届く。


「……香椎かしい結芽ゆめ


 それだけ言って再び歩き出した彼女にすこしの間ぽかんとしてしまった達規だったが、じわりとこみ上げる嬉しさに頬を緩め、一人分の距離をあけて隣を歩くことにした。


「武道とか習ってるの?」

「まあ、そんなとこね」

「すっげーかっこよかった」

「そ。ありがとう」


 素っ気ないながらも、その横顔を見る限りはもう不審には思われていないようだ。安堵にそっと胸をなでおろす。


「俺、小さい頃から正義のヒーローに憧れててさ。警察とかもかっこいいと思うんだけど、普段べつの仕事とかしてる人が身分を明かさずに敵を倒すような、そういうのが大好きだったんだ。いつかそんな人になれたらいいなーって……あ」


 安心感からか普段隠していることまで話してしまっていたことに気付き、達規は慌てて口を噤んだ。やばい、引かれる。いい歳して何言ってんだって思われる。


「や、ちがくて、そのー」

「正義のヒーロー……」


 あーほら引いてる、絶対引かれてる。もしくは馬鹿にされる。高校で唯一この夢を知っている雅臣だけは馬鹿にしなかったが、それでも呆れていたくらいなのだ。

 しかし予想に反して、彼女は笑わなかった。


「そうね……そうなれたら、素敵でしょうね」


 穏やかな響きで紡がれた言葉に、達規は自分の耳を疑った。馬鹿にすることも、呆れることもなく。

 こんなに嬉しいと思ったのは初めてだった。


「昨日、香椎さんがひったくり捕まえて、被害者の人のお礼を断ってるのを見て……俺、すごいなって思ったんだ。理想のヒーローみたいだって。だから、香椎さんは俺の憧れ」


 照れ隠しにそう言ったものの、なんだかとても気持ち悪いことを言っているような気がする。今度こそ引かれたのではないかと隣をうかがうと、結芽はなぜかとても驚いた表情でこちらを見ていた。彼女の反応にこっちまでびっくりしてしまい、学校の最寄り駅へと近づくにつれて増える通行人にぶつかりそうになる。


「私が?」


 そこまで驚くことだろうかと思いながら、ぶつかりそうになった人に会釈えしゃくをする。いくらひったくり犯だったとはいえ、刃物を持った人をあんなに容易に捕まえるなんてこと、そうできるものではないのだけれど。


「だってすごかったよ、昨日の香椎さん。武道やっててもあんなふうに咄嗟とっさに対応できる人って少ないんじゃないかな」


 もっと誇っていいよ、と付け加える。結芽は困ったように笑いながら首を傾げた。


「うーん、そうかもしれないけど……達規、だっけ。私に憧れるのは、やめたほうがいいわよ」


 なんで、と訊こうとしたとき、ふいに結芽が足を止めた。不思議に思いながら振り返った達規はその瞬間、違和感に気付く。

 結芽と自分以外の人がいない。駅に近い大通りを歩いているのだから人はそれなりにいたはずで、現にさっき通行人とぶつかりそうになった。が、結芽の背後を見てもその通行人の姿はない。どこかの角を曲がったとしても、それ以外に誰一人いないのは明らかに不自然だった。


「なんだ、これ……」


 うろたえている達規の肩を、結芽が思いっきり突き飛ばした。「わ――」突然のことでバランスを崩し、尻もちをついてしまう。同時に金属がぶつかるような甲高い音が響き、達規は驚いて顔を上げた。


 達規の横に立つ結芽はいつの間か手にしていたナイフを右手に構え、とある一点を鋭く睨んでいるようだった。そして素早く左手でスカートの下から小型のハンドガンを取り出すと、視線の先へとためらうことなく二、三発、発砲する。


「そんなこそこそとした動きで、私を仕留められると思ってるの」


 凛とした声を張り上げ、結芽が口の端を吊り上げた。すると、彼女の視線の先にある路地から二人の男が姿を見せた。

 一人は小柄で派手な服にニット帽を目深にかぶっており、もう一人はひょろっとした長身で黒い服、癖の強い髪を後頭部でひとつに束ねている。なんとも対照的な二人組だった。


「人払いが下手ね、私の隣にいるのは一般人なんだけど」


 その二人組に向けて結芽が話しかける。と、僅かに二人組が驚いたような様子を見せた。小柄な男が、長身の男の脇腹を小突く。


御蔵みくら、何やってんの」

「うるせーな笠井かさい、文句言うならてめーがやればよかっただろ。にしてもおかしいなぁ、確かにちゃんとやったつもりだったんだけど……まあいいや」


 首を傾げていた笠井は、しかし笑みを浮かべるとゆっくりと腕を前に出す。その手には日本刀が握られていた。


「香椎結芽を殺してから、そいつの記憶を消せばいい」

「達規、下がってて」


 こちらへと走り出した笠井に視線を向けたまま、結芽は素早く達規に指示をする。そう言われても、どう見ても危ない状況に女の子をひとり置いて離れるというのは男としてどうなのか。


「早く!」


 逡巡しゅんじゅんする達規に、結芽が鋭く叫ぶ。達規はびくりと肩を揺らし、尻もちをついた格好のまま慌てて後ろへと下がった。情けないと思いながらも自分にはどうすることもできないのだ。せめて助けを呼べればと周りを見回すも、ここにいる四人以外は人の気配すらなかった。


 笠井が下方から刀を振りあげた。結芽は軽く頭を逸らしてそれを避け、すぐに上半身を沈めて笠井の懐へ踏み込みながらナイフを持った右手を振るう。が、その刃が届く前に何かに気付いたのか、手を止めて左方へと二、三回飛び、その場から離れた。達規は彼女の足元を小さな火花が追いかけていることに気付く。見れば、御蔵が先ほどの場所で二丁のハンドガンを構えていた。


 一瞬の攻防。そして静寂。そのあいだ真剣な表情で警戒をしていた結芽は、ふいに小さく息をついて肩の力を抜いた。そして二人組から目を離すと身体ごと達規へと振り返り、


「もうちょっと離れてほしいかな。跳弾ちょうだんが当たると怖いし」


 肩をすくめてみせた。


「う、うん……」


 その緊張感のなさに呆気にとられながらも素直に従って下がった達規を見て、結芽は満足したように頷いた。

 放置された二人組はというと、見るからに怒気をはらんだ目をしていた。当たり前だ、いつ攻撃されてもおかしくない状態で背中を向けているのだから。笠井に至っては口元が引きっている。


「ずいぶん余裕だな、よそ見してる暇あんの?」


 直後、結芽の背後まで距離を詰めた笠井の刀が振り下ろされる。思わず目をきつく閉じてしまった達規であったが、金属のぶつかり合う甲高い音を聞いてすぐに目を開けた。


「あるけど?」不敵な笑みを浮かべた結芽が、こちらを向いたまま頭上に掲げたナイフで刀を受け止めていた。「あまりにつまんなくて、がっかりしちゃった」


 さすがに力の差があるからか、彼女は受け止めた刀をすぐさま横へと流す。


「笠井!」

「! っ、ぐ――」


 御蔵の呼び声に、笠井が目を見開いて慌てて身体をひねる。瞬間、彼は表情を歪めた。

 結芽が左手に持っていたハンドガンで、右の脇の影から背後に向けて発砲したのだ。咄嗟に避けたようだが、それは笠井のわき腹をかすめたらしく、彼は片手で右わき腹のあたりを抱えながらバックステップで距離をとった。


「残念。お友達に感謝しないとね」


 結芽は肩越しに二人組を見やってから、ゆっくりとした動きで彼らと正対する。しばらく互いに睨みあっていたが、何を思ったのか笠井がわずかに口の端を吊り上げた。そして、結芽から視線を外して達規を見た。


「おい、お前」

「へ?」

「名前は?」

「高坂達規……」「だめっ!」


 結芽が初めて明らかな焦りを見せながら、こちらへと振り返って叫んた。

 言ってはいけなかったのだろうか。戸惑うと同時に結芽の横を笠井がすり抜ける。


「え、」


 これまで結芽しか狙っていなかったはずの笠井が、自分へと向かって駆けてくる。


「このっ……!」


 笠井を追いかけようとした結芽が、数回の乾いた音と共に足を止めた。舌打ちし、御蔵を睨む。そんな光景を視界の端に映しながら、達規は目の前まで距離を詰めてくる笠井をただ見ていた。


 ああ、俺、死ぬんだ――そう思うには充分すぎるひと呼吸ののちに。


 目の前で、何かが弾けた。

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