第4話


 雨音あまおとだけが、軒下に響いていた。

 ここは、山奥。

 荒れ果てたお屋敷。

 人間など、化け猫を恐れて誰も来ない。そう、何百年も……。

 傷をペろりと、化け猫はなめる。


 いや……。

 前にもこんなことがあった。


 雨の中、傷を負って震えていた。

 ほんの少し前のこと。


「ミヤァ……」


 か細い泣き声に気がついてくれたのは、カッパと長靴の少女だった。

「お母さん、捨て猫だ……。怪我していて、可愛そう……」

 少女の顔は同情にあふれて、その手はもう少しで猫に届くはずだった。

「ダメだよ、家じゃ猫は飼えない。そんなもの、ほっときなさい」

 冷たい母親の声が、凍えかけた猫の希望を打ち砕こうとしていた。

「猫っていうのはねぇ……。歳を重ねて人にとり憑くのだよ。やがておまえなどバリバリと食うよ」 


 世にも恐ろしい化け猫のお話……。


「母さん、怖いよ。その話」

 小さな少女の泣き声が、とがった耳の奥に響いた。

 そして、ピシャピシャと長靴の音が遠ざかっていった。


 さびしい、冷たい……誰も助けてはくれない。なぜ?


 そう、それは化け猫だから……。

 とても恐ろしい物の怪だから……。

 誰も恐れて……化け猫には近づかない。


 子猫は憑かれて化け猫と化した。 


 都会の真ん中、取り残されたような古びたアパートは、山奥の荒れた一軒家に等しい。

 誰もこない、誰も邪魔しない。子猫を守ってくれる異世界だ。

 子猫はそこで神通力じんつうりきを持つ化け猫になった夢を見た。その夢が、子猫を生きながらえさせたのだ。 



 雨音は……本当の名は晴美というのだが、その夜、夫に何度も殴られ、髪をわし掴みされ、床に倒された。しかし、やがて晴美の腕は、あきらめたように夫の背中にまわされる。


 朝が来た。雨は止んでいた。

「また来る」

 一言を残して、晴美の夫は車で去っていった。

 化け猫は、屋根の上から車を見えなくなるまで見送った。

 車は、密集した建物の陰に、あっという間に消えていった。次にちらりと見えた時は、その車だったか、違う車なのか、化け猫には判断がつかない。

 電信柱にゴミをあさる鴉が何羽かたむろっていて、化け猫は身の危険を感じて、かつて結界だと信じたテリトリの中に逃げこんだ。


 雨音は、床に放心状態で座りこんでいた。

 床に、男が破り捨てていった離婚届が散らばっている。

 雨音の怪我は、化け猫よりも深そうだった。


 さびしい……。逃げたい……。

 でも、さびしくて逃げられない……。


 雨音は、化け猫。

 さびしさにとり憑かれて、やはり化け猫と化した女。


「ミャァ」


 化け猫は小さな声で、雨音の名を呼んだ。

「あなただけがお友達ね」

 雨音は、猫の存在に気がついて、さびしげに笑った。



 =化け猫/終わり=

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化け猫 わたなべ りえ @riehime

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