(18) フォックストロットの憂慮

 

 弥生が重賞を勝った翌日、12月2週目日曜のメインに組まれたGⅠ阪神ジュベナイルフィリーズは、人気どおりの決着で終わった。

 

 2歳牝馬限定戦で、紛れが少ない。素質馬がそのまま押し切ってしまうことが多いレースだ。

 

 デビューしたての素質馬は、まずリーディング上位のジョッキーを乗せる。よほど深い関係でもない限り、無名のジョッキーが新馬で期待の大物に乗ることなどない。その流れでGⅠへと進むので、結局ジュベナイルフィリーズは毎年マルクとイアン、そして短期免許の外国人ジョッキーの活躍の場となっていた。今年も、1着イアン、2着マルクだった。3着にはゴール前ギリギリでアルフォンソを交わして一馬が入り込み、外国人の独壇場を防いだ。

 

「なんか、あいつら上機嫌でさ。2人して、ナイス騎乗だったって褒めてくれたんだよなぁ。なんだろ、気味悪いな」

 

 イアンとマルクに褒められたと、一馬は弥生に言いながら首を傾げた。一馬もまた、彼らの反目感情を知らないのだ。

 

 弥生は日曜には中京から戻って、中山の騎乗だった。しかしメインのGⅠでの騎乗馬はなし。馬券圏内に入り、しかもトップジョッキー2人に褒められた一馬がうらやましかった。

 

 翌、月曜はオフ。しかし有馬記念が近く、複数の取材が入っていた。

 

 その合間に、空智嬢から電話が入った。

 

「彼の様子はどうなの?」

 

 彼とは、もちろんタイムシーフのことだ。この半年の付き合いで、フォックストロットのその言いぐさにも慣れてしまって腹が立たなくなった。

 

「大丈夫と言ってます」

 

「それは本人が言ってるんでしょ。あなたの感じではどうなのよ?」

 

「うーん……」

 

「正直に言ってちょうだい」

 

「はい。あまりいいとは思えない感じが……」

 

 弥生はためらいながらも、正直に言った。

 

「そうよね。今年のあれほどの激走で「気」が空っぽになって、そんなに短期間に戻るはずはないわよね」

 

「私も、そう思います」

 

 弥生は、フォックストロットの心配する気持ちが手に取るように分かった。

 

「ねぇ、あの男に、もう一度タイムシーフの元に来てもらえないかしら。彼なら、私たちとちがって客観的に判断できるでしょうから」

 

 時やんのことだな、と弥生は分かったが、しかし口ごもった。

 

「分かるでしょ。ほら、馬券師って言っていた男よ。あのやつれた……」

 

「分かります」

 

「分かってるんなら、連絡とってちょうだい」

 

「それが、連絡がとれないのです」

 

「えっ」

 

「時やんさんに連絡をしてくれる、ミキオさんという方がいるのですが、その方が言うには、何度かけてもつながらないということなのです」

 

「つながらない……」

 

 電話の向こうで、フォックストロットが呟く。どうも、弥生と同じようなことを考えているらしかった。

 

 あのジャパンカップの前、3人で話したとき、時やんは健康を害していて先が長くないと言っていた。おそらくは、さらに悪化して、入院でもしてしまったのではないか。

 

「あの男がいれば、彼の「気」がどれくらい回復しているか客観的に分かるのに」

 

 フォックストロットが言う。弥生も同じ気持ちだった。

 

「フォックストロットさん、あなたもタイムシーフの「気」が分かりますよね。行って見てほしい……」

 

「だめよ」

 

 弥生の言葉を、フォックストロットは遮った。

 

「だめって? どうしてです?」

 

「私が行ったら、無理にでも「気」の炎を沸きあがらせるって。そう、伝えてくるのよ。だから絶対に近付くなって」

 

「タイムシーフが?」

 

「そう。だから、あの男を頼ろうとしたのよ。この大一番の前に、馬券師なんて男をウロチョロさせたくはないわ。トラブルの元だもの。でも、背に腹は代えられないから、こうやってあなたに電話したのよ」

 

「そうだったんですか」

 

「私だっていろいろと考えて、気を使ってるんだから」

 

「ありがとうございます」

 

「あなたにじゃなくて、彼のためによ」

 

 怒るところだが、弥生はつい笑ってしまった。

 

「まぁとにかく、あの馬券師がつかまらないんじゃしょうがないわ。彼の言葉を信じるしかない。有馬の週の最終追切なら、人混みに紛れて私も近づけるでしょうけど、その時になって「回避して」って彼に訴えたって、絶対に従ってくれないでしょうから」

 

「そう、ですね……」

 

 弥生も力なく同意した。そんな直前回避、おとうさんが受け入れるはずがない。

 

「とにかく、できるだけ本音を引き出してちょうだい」

 

「はい。分かりました」

 

「おねがい、ね」

 

 その、意外な懇願の言葉で電話は切れた。切り際のその切実な声が、弥生の耳に残った。


 

 

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アイドルジョッキー弥生は、1番人気でGⅠレースを勝てるのか? 勒野 宇流 (ろくの うる) @hiro-kkym

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