第47話 未来


***


 ハイケはもういない。きっと、いつかの下級騎士とともに故郷で嵐が過ぎるのを待っている。彼女に伝言を頼むことはもうできなかったから、自分の足でロタに会いに行った。


 日は、いつの間にか本当に短くなっていた。遅い時間でもないのに、誰も見咎めぬほどの闇が辺りを包んでいる。風はもう冷たい。外套をかき寄せると同時に、手に持った木の札をぎゅっと握りしめる。船に乗るために必要なものだ。これがロタの命を救う糸なのだと思うと、ただの木切れが途轍もなく大切なものに感じられた。


 小さな灯りが漏れ連なる宿舎の端、ロタの部屋が見えた瞬間、足が早まった。これが最後だとわかっているのに、彼女に会えるという場違いな喜びが胸に沸き起こる。


「エイラさん」


 開いたドアの向こうで、彼女は目を丸くした。何も言わずに来たのだから当たり前だ。腕を広げ、大きな身体に抱きつく。戸惑ったようにゆっくりとエイラの背に回された腕は、やはり温かくて、優しかった。


 抱きしめているうちに、あてのない寂しさが胸をぎりぎりと掴んだ。腹をくくってきたはずなのに、苦しさが消えてくれない。


 抱きしめたまま、耳元でささやく。


「いろいろ教えなくちゃいけないことがあって来ました。……ここに来るのは、きっと最後ね」


「でも、グリャナでまた会える」


 身体を離し、ロタは微笑んだ。胸が締め付けられて、破れたところから、見えない血が滴った。なんとか笑顔を返し、握りしめていた木札を差し出す。


「そうですね。……ほら、これ。絶対に失くしたら駄目よ。これを持って船に乗るの。私は別の便で行くから、ついたらリウラナという川港町の連絡局に行って。沢山の人が待ち合わせをする場所だそうよ」


 家の中に導かれながら、外套の留め紐を解く。長居するつもりはなかったが、少しでも多く、この人との時間を持ちたかった。


「はい」


 受け取った木の札をまじまじと眺めるロタの瞳は、相変わらず真っ直ぐで綺麗だった。ランタンの柔らかい明かりに、ロタの亜麻色の髪が透ける。


「ねえ、エイラさん」


 ロタはふとこちらを見ると、楽しげに首を傾げた。


「何?」


「グリャナについたら、何をしますか?」


 一瞬、言葉の衝撃で、何も答えられなかった。考えてもいなかった。ロタが生きているなら、自分はいなくてもいいと思っていたのだ。この純粋な瞳の友人を騙している罪悪感に、はじめて気がつく。口先だけで二人の未来を約束し、自分は彼女を孤独にするのだ。ロタと二人の未来があるなんて、これっぽっちも考えられていなかった。


 黙ったままの自分を見て首を傾げるロタに、慌てて笑いかける。


「そうね、……どこかにお家が欲しいわ。小さい畑があるのよ。何を植えたい?」


 ベッドに並んで掛ける。ロタは顔を輝かせた。


「レッシがいい。小さい時、たくさん食べましたよね。ジャムも作りましょう」


「そうね、冬は干してケーキに入れるの」


「暖炉の側で、一緒に食べて、」


 瞬間、エイラにも幸せな未来が見えた。幸せな、けれどあるはずのない未来。凶暴な悲しみがこみ上げた。目をぎゅっと閉じあわせる。今は、今だけは、本物の時間だ。


 彼女は隣にいる。こんなにそばにいる。


「ええ」


 答えながら、腕を絡める。ロタの顔を見上げると、彼女の目は先程までの輝きを失い、不安に揺れていた。


「……怖い?」


 手を伸ばし、ロタの髪を指で梳く。さらさらとした感触が、心地よかった。


「怖いです」


 温度のある、低い声が答えた。柔らかな頬に手を添わせ、ただ、彼女の目を見た。


「忘れないで。離れてるときも、私はあなたの側にいるわ。少し、離れるだけ」


嘘だ。ずっと、二度と会えない。喉にこみ上げたものを見せたくなくて、大きな肩を抱き寄せる。鼓動の音が聞こえる。


「エイラさん、」


「うん」


 どうしてこの人はこんな声をしているのだろう。頬に、首筋に触れながら思う。温かい。ここにいるのに。遠い。


「……エイラさん」


 身体を離した瞬間、目が合った。苦しいほどに寂しげで、泣きたくなるほど愛しい目だ。まるでこれが最後だと、彼女も知っているかのようだった。手を伸ばす。顔を引き寄せる。互いの息の温みが、肌に伝わる。


「ロタ」


 名を呼んだ。今だけは、二人だ。


 ロタがそこにいることがただ愛しい。額を合わせる。未来を思う。溜まった涙が零れるのも構わず、目を閉じて唇を重ねた。


 赦されるかどうかなんて、考える余裕はなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る