第15話 アスタル
***
戦況が思わしくないことは、伝達文書を読むアスタルの表情を見る前からわかっていた。
そもそも異教徒駆逐を目指して始められた聖戦が「成功」と呼べる成果を収めたのは、最初の一、二回だけだった。それも、相手となるダナイがヴェトルを小国と油断していたからにすぎない。
慌ただしい出立から数日。いったいどれだけの騎士が命を落としたのだろうか。その数の一つとなるかもしれない友のことを思うと、生きた心地がしなかった。
頭を振り、不安を追いやる。いつから、こんなことばかり考えるようになってしまったのか。ロタに再会する前はこうではなかった。
どちらの自分が本当の自分なのか、どちらが正しいのか、エイラに知るすべはなかった。ただ、今ある自分を受け入れて生きるしかない。
「浮かぬ顔だな、エイラ」
文書から顔を上げたアスタルは、さして興味もなさそうに問うた。
「……アスタル様こそ、先程から沈んだお顔をなさっていますね」
エイラが言うと、アスタルは椅子の背にぐったりと身体をもたせかけた。数日、聖戦の予定変更で生じた歪みを軽減するために働き詰めだったのだ。ようやく一息つく暇ができたはいいが、目元に浮かぶ疲れは隠せない。
「当たり前だ。馬鹿げた戦でも人は死ぬ。もともと我が国は兵力に欠けるというのに、減らしに行っているようなものだ」
「今回の聖戦は、何故突然予定を変更したのでしょう」
「僕が動いていることに、愚か者たちがようやく気付き始めたってところだろう。あと数ヶ月は目をかわせると思っていたが、さすがに甘かったか」
「では、」
冷たい汗が背を伝う。いずれ気付かれるとわかっていたということは、裏からの操作の限界を知っていたということだ。つまり、アスタルはそう遠くないうちに動くつもりだったのだ。
アスタルの端正な顔に細い笑みが浮かぶ。おもむろに立ち上がって歩み寄り、長い指でエイラの頬を撫ぜた。一瞬触れただけのその指はあまりに冷たく、腹の底から震えが走る。
「……エイラは賢いね。でも、君が心配することは何もない」
落ちる先すら見えない瞳に、吸い込まれそうになる。
ここにいれば、この男に操られる限りは、自分は確かに上っていけるのだ。
しばらくの間忘れていた炎が、 頭をぼうっと熱くする。問い詰めたかったはずのことを、もう尋ねる気にもならない。喉の奥に張り付いた熱と恐怖を飲み込み、やっとのことで目をそらす。
「はい」
「それでいい。……早速だがエイラ。テナードに手紙を書いて欲しいんだ。あの男は未だに主戦派につくかどうか迷っている。あとひと押しが必要だ」
「……私がヘディンの家であまり良く思われていないことはご存知でしょう」
アスタルはエイラの肩に、親しげに手を置いた。見上げた目に微笑む。
「テナードは違う。エイラを『救ってやった』男だ。あの男は君のことを──形はどうあれ、大切に思っているはずだよ。『可愛い娘』からの声には耳を傾けるさ」
何もかも、見透かされている。逆らえないことはわかっていたし、逆らうつもりもなかった。
アスタルは聡明な男だ。冷徹だが、彼ほど真剣にこの国の行く末を考えている皇族はいないだろう。理想を持つ彼が頂点に立つことができれば、きっと、愚鈍な皇子達が帝位を継ぐよりはるかに良い国になる。傾きかけたこの国を立て直す算段も、この男ならとっくに立てているはずだ。
だから、自分の意志で、エイラはアスタルに従っているのだ。
「そうですね」
エイラは静かな熱に身を委ね、アスタルにむかって頷いた。
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