第16話 汚れた駒、綺麗なブーツ
***
五日と経たないうちにテナードから届いた返事は、娘を思う父親の愛情に溢れたものだった。だが、事情を知る者には、アスタルへの服従の意思がはっきりと読み取れる。あとひと押し、などと言ってはいたが、きっとこうなることすら彼には見えていたに違いない。手紙をたたみながら、背筋が冷える。とにかく、テナード、ひいてはヘディン家はアスタルの側についた。
これから聖戦はますます苦しいものになる。今は強い力を持っている主戦派がその過ちに気づき始めた頃には、きっと手遅れになっているはずだ。その瞬間をどれだけ利用できるかは、アスタルにつく者の数と、質で決まってくる。開封済みの手紙が、エイラの手の中でくしゃりと音を立てた。
「エイラ」
扉の側に控えていたエイラを、よく通る声が呼んだ。手紙をベルトに挟み込み、書類が散らばった机に向かう主人の元へと駆け寄る。
「何でしょう」
声をかけると、彼は座ったまま、髪をかきあげてエイラを見た。長い指の隙間から、烏の羽のように青みがかった黒髪が流れ落ちる。無言で上げられた視線が、エイラに鋭く刺さる。そしてその鋭さが嘘だったかのように、彼は柔らかに笑んだ。背筋に冷たいものが伝う。
次の言葉を聞いたら、どれほど離れたくなっても離れられない。そんな予感が喉元にせり上がる。だが、耳を塞ぐことは、エイラにはできなかった。
「君の瞳が好きで、僕の側に置いた。どんなに美しく着飾っても、どんなに清楚に振舞っても隠すことのできない、賤しい飢えを燃やしたその瞳が」
喉を鳴らし、とうに乾ききったはずの唾を飲む。息をするのがやっとだった。いつの間にか絡め取られた視線に、目を逸らすことさえ許されない。
「次の冬だ」
アスタルの口調は、あくまで穏やかだった。髪を離れた指先が、するりとエイラの頬に触れる。その指は、ぞっとするほど冷たい。
「僕に、ついてきてくれるね」
つい先日感じた熱がよみがえる。だが、熱に浮かされて動くほど、愚かではいたくなかった。視線を無理やり引き剥がし、再び見返す。
「私はついてまいります、 あなたが上を目指す限り 」
駒でいい。だが、駒でいるかどうかは、自分で選ぶ。
ふっと小さく息を吐いて、アスタルは緊張を緩めた。
「近頃会議続きで、父上や兄上の腑抜けた面に見飽きていたところだ。僕もせいぜい君に見放されないように全力を尽くすよ」
「今ある権力にしがみついている者は、しぶといでしょうね」
「ああ。だが、内部の政治にこだわっているようじゃ早晩自滅するだろうよ。きっと、この国まるごと道連れにしてね……そんな馬鹿らしいことに巻き込まれるのは、エイラ、君だって御免だろう?」
ゆったりと身体を椅子の背にもたれかけ、主人は目に強い光を宿して笑んだ。
「ええ。ですが、」
「気づかれないか、心配することはないよ。聖戦に口出ししない限り、僕への監視は今より強くなることはない。つまり、ことを起こすまで、あの無為な戦には目を瞑らなきゃならないだろうね」
忌々しい、と呟き、彼は書類に手を伸ばした。もう行っていいという意味だろう。再び扉の側へと歩く己の単調な足音に耳を澄ませ、ざわつく胸を落ち着ける。
アスタルは、自分を試したのだ。だが、何故今なのか。今までと、何かが変わっただろうか。
記憶をさかのぼり、ちくりと胸が痛む瞬間をたぐり寄せる。その記憶が何であるかをさとり、エイラは思い出そうとしたことを後悔した。アスタルに熱くされた心の裏側に、いつも張り付いている横顔。思い出す度にじくじくと痛むから、なるべく奥底深くに押し込めていたのだった。
思い出した途端、たった今まで心を燃やした信念がくらりと揺らいだ。今自分は、アスタルについていくことを改めて決意した。上を目指すアスタルの駒であることを選びとったはずだ。それなのに、その道が正しい道なのか、突然わからなくなってしまった。
今この瞬間に傷ついているかもしれない友を、どうにかして忘れようとしている。
自分の利のために、血が流れることを無視している。それでいいと思って生きてきた。突き詰めれば、先にある民の幸福のためになるのだから。
けれど今、自分はこの生き方にどうしようもない疑問を抱いてしまった。
あの笑顔を見殺しにして、それでいいのだろうか。
俯いて自分のつま先を見つめた。土も泥もついていない皮のブーツ。地位が武器となるこの場所からでは、地位を危うくする行動はできない。
――ならばいっそ。
エイラは小さく息をつき、頭を振った。背中に伝う冷たい汗を無視して、無理矢理心に蓋をする。今まで忘れられていたのだ。これからも馬鹿な考えは忘れられる。前だけを見よう。
唇を引き結ぶ。
この聖戦が真に神の思惑なら、きっと忘れるためのものなのだ。懐かしさと温かさをエイラにくれた、短く強い幸福を。
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