腹が減っては戦はできぬ!

 アメリカの兵隊さんはお肉にサラダ、日本の兵隊さんは菜っ葉だけ。


 と、これは自衛隊の食事ラッパのメロディーにどこぞの隊員が面白がってつけた歌詞なのだが、勿論実際に自衛官がそんな質素な食事をしているわけではない。米軍と比べれば多少見劣りはするかもしれないが、そもそも彼等とは食文化や身体の作りが違う。自衛官には自衛官にあった食事というものがあり、基地の給養小隊がバランスの良い献立を考えてくれている。


 とは言え、航空学生にはゆっくり食事をしている時間なんて無いことも事実。特に朝食では余裕がある者でも10分、短いと2、3分で食べ終えていく者もいる。このあたり5区隊の秋葉は早食いの天才で、大抵の者が「時間が無いから」という理由でおかずやご飯をいくらか残しているのに対し、彼女だけは毎日3食全てを残すことなく平らげてしまう。汚い話、早飯早糞芸の内と武士の心得として言われたものだが、本当にその通りだなと月音は思う。一分一秒を争う航学生活、何事においても早く済ませることができるというのは貴重な特技だ。


 割烹着を着たおばちゃんたちが朝から元気に配食をしてくれる。中には「しっかり食べな」とか「今日も頑張れ」と一声かけてくれる人もいて、自然と月音は笑顔になる。ちなみに彼女たちは自衛官ではない。防府北基地は給食業務を部外委託しており、事務所業務を除く全ての作業は部外の人が担当している。だからというわけではないが、防府北基地の食事は割りと美味しいほうだと隊員たちには評判だ。


 席につき、しっかり手を合わせてと「いただきます」を言う。食べ終えたら「ごちそうさまでした」と言うのも学生に定められたルールの一つだ。


 ちらと時計を見て、どれを優先的に食べるかを決める。今日はおかずに手をつけれるくらいには余裕がありそうだと、月音はご飯に味噌汁をぶっかけた。俗にねこまんまと呼ばれる、あまり行儀のいい食べ方ではないが、短時間でなるべく多くエネルギーを摂取するならこの方法が一番効率が良い。熱いと時間がかかるからと言って、中には氷を混ぜて飯をぬるくし、一気に口に掻き込む者もいる。ここにおかずも混ぜるとまるで残飯でも食べているかのようだが、まずそう…とかそんなことを言っている暇はない。


 移動間は常に駆け足、ことある毎に腕立て伏せ、訓練では激しいトレーニングと、とにかくここでの生活は体力を使う。それに加えてまともに食事をする時間がないときたものだから、最初の一ヶ月で学生たちはみるみるうちに痩せていく(というかやつれていく)。飯くらいゆっくり食わせてやれば…という声もあるが、やはりそこは自衛隊。限られた時間内で食事を済ませるというのも訓練の一環だ。





 2限目の座学終了後の休憩時間、時計は10時を回ったところだが、もうお腹が空腹の鐘を鳴らしている。なにかおやつでも口にしたいところだが教場内は飲食厳禁、そもそも授業に関係ないものを持ち歩くことが許されない。基地のコンビニへなにか買いに行くという手段もないわけではないが、導入期間中は平日のコンビニ立ち寄りは禁止(正確に言えば、コンビニに立ち寄る暇なんてないはずだと怒られる)とされている。仕方ないので廊下に備え付けられた冷水機でお腹を満たし、空腹をごまかす他ない。


「今日、お昼ご飯なんだっけ?」


 月音は隣に座る春香はるかに声をかけた。彼女とは区隊は別だが教授班は一緒だ。航空学生課程ではそれぞれの成績に応じてA~Cのクラス分けをしており、各レベルに合わせた教育が施される。


 飯の話をすると余計に腹が減るとは分かっていても、他に楽しい話題もない。


「カレーですよ、確か今日は…」


「ああ、金曜日か。やっと一週間が終わるんだねぇ」


 金曜カレー。自衛隊に入ったならば、一度は耳にする言葉。もともとは旧大日本帝国海軍発祥の伝統で、長期に渡る海上勤務で失われがちな曜日感覚を保つ為に、週に一度カレーを出していたそうだ。現代となってはそのような問題は発生しにくい為、もはや単なる習慣となりつつあるが、それでもカレーは多くの隊員にとって人気のメニューだ。金曜日と言えばカレー、と喜ぶ者は多い。


「でも、味わって食べる時間は無いんだよねぇ」


「もったいないですよね。せっかく作ってくれているのに…」


「全ては時間を作れていない私たちの責任、というわけだね」


 もっと効率よく時間を使うことができれば、ゆっくり食事をすることもできるはずだ。現に先輩たちは月音たちと同じタイムスケジュールで動いているにも関わらず、余裕を持って食堂に来ている。現状を嘆いても、生活はなにも変わらない。もっと楽に学生生活を送りたければ、先輩たちのように実力を身につけるしかないのだ。


 昼食まであと2時間。一秒一秒しっかりと時を刻む時計を見ながら、月音はすっかり空っぽになったお腹をさすった。





 午前の課業終了を告げるラッパが鳴り、学生たちは一斉に教場を飛び出す。しかし真っ直ぐに食堂を目指すのは先輩たち70期のみ。月音たち71期はまず最初に自分の居室へと戻っていく。


 ただでさえ短い昼休みなのだから少しでも早く食堂に向かいたいところだが、隊舎に帰るのには理由がある。台風だ。


 ベッドメイクを初めとして、航学の生活では全てを決められた通りに身辺整理するよう定められている。洗面器や洗濯物入れ(バケツ)、机の中の筆記用具の位置まで、例をあげればきりがないほどだ。それらが定められた通りに整頓されていなければ、まるで泥棒でも入ったかのように部屋を荒らされる。それが「台風」と呼ばれる指導だ。


 毛布やシーツが部屋中に散乱し、酷いものだと廊下まで放り投げられていた。机の中身は全てひっくり返され、どれが自分の持ち物だったのかさえわからない。目を覆いたくなるような惨状、これを片付けなけれれば食堂に向かうことは許されず、月音は大きくため息を漏らした。


「戸惑ってる暇はないよ。とにかく片付けよう」


 同部屋の日和に肩を叩かれ、はっと我に帰った。驚き、戸惑い、落胆…それら全ての感情が航学ここでは時間の無駄になってしまう。目の前でなにが起こっていようと冷静に対処し、次の行動に備える。その有事即応力はパイロットにとって必要な力だ。



 手早く身辺整理を終えた月音たちはダッシュで食堂に向かう。とにかく時間がない。12時から昼休みに入り、午後の課業開始は12時40分。既に休み時間の半分近くは台風によって失われてしまった。あと20分かそこらで食事を終え、次の課業に備えなければならない。


「うわぁ、並んでるなぁ…」


 隊員食堂に駆け込む月音たちだが、そこで待ち受けていたのは配食場に並ぶ長蛇の列だった。なにせ100人を越える航空学生と、その他基地に所在している隊員がここに集まるわけだから、すぐに食事にありつけるというわけではない。大人しく配食の順番を待たなければならないのだが、なにせ急いでいる身なのでこういう時間がもどかしい。


 とは言え、ようやく食事にありつけるということで少し安心したのか、月音のお腹がまた鳴った。


「お腹空いたね」


 汗をハンカチで拭いつつ、日和が笑う。彼女にもちょっと心に余裕が出てきたようだ。


「ほんとだよ。空腹で倒れるかと思った」


「月音は育ち盛りだもんね」


「あ、今ちょっとバカにしたでしょ?」


「そう?」


 誤魔化すように頭を撫でてくる日和。時折こうして子供扱いしてくるのはコンプレックスを刺激されるが、それだけ心の距離が縮まってきたと思うと、月音としてもそこまで悪い気はしなかった。


「今日は午後からも座学だから、それだけが救いかなぁ」


「そうだね。教練とかだったら、まともにご飯食べる時間はなかったかも」


「私、昨日なんかは一口しかご飯食べれなかったよ。その上集合には間に合わないし、腕立てさせられるしで、倒れるかと思ったよ…」


 学生の休み時間には次の課業準備も含まれている。例えば教練の訓練が予定されていた場合、乙武装という戦闘服装に着替えて、訓練場に集合して課業準備完了となる。となれば昼休み終了の10分前には食事を終えて隊舎に戻らないと間に合わないわけで、その分休憩できる時間も短くなる。


 今日は午後からも教場で座学の予定。服装は制服のままで、居室に戻って着替える必要もない。少しはゆっくり食事ができそうだった。


「あ~、カレーのいい匂い!早く食べたいね!」


「落ち着きなよ」


 待ちきれない様子でパタパタと腕を振る月音。食堂内に広がるスパイスの効いた香り。配食場に近づくにつれそれは強くなり、空腹状態の学生たちを刺激する。


 しかし、本来楽しいはずのランチタイムが、思わぬ形で牙を剥く。





「…ねぇ、今日は金曜日なんだよね?」


 配食場を出てテーブルに着く月音たち。先程の高いテンションもどこへやら、すっかり興醒めした声で月音が訊ねる。


「そうだね」


「金曜カレー、だよね?」


「カレーだよ。言いたいことは分かるけど…」


 いつもならカレー皿と呼ばれる、平たく大きな皿が乗っているはずのおぼん。しかし今目の前に置かれているのは底の深い、所謂どんぶりと呼ばれる食器。


 本日のメニューは、カレーはカレーでも「カレーうどん」である。


「これはカレーカウントなの?! それとも麺カウントなの?!」


 再び声を大きくして騒ぐ月音。カレーライスを楽しみしていた者としては、カレー「うどん」は邪道なのかもしれない。


 ちなみに週に一度うどんやラーメンといった「麺の日」も存在する。そこでもカレーうどんが出されることがあるのだが、この献立がカレーとして扱われているのか、それともうどんとして扱われているのか、自衛隊における永遠の謎である。


「金曜日だから、今日のところはカレーとして出してるんだろうね…」


「そんなこと言ったらカレーパンもカレードリアもカレー扱いだよ! 私はカレーライスが食べたかったんだよぉ!」


「いいから食べなよ…」


 日和に言われ、ぶつぶつと文句を言いながら箸をとる月音。この後は教場に戻るだけとは言え、時間がないことには変わりない。今は何も言わず、素早く食事を終わらせることが先決だ。


 別に月音もカレーうどんが嫌いなわけじゃない。気持ちを切り替えようと、いつも通りにうどんをすすった。


「あっ!」


 麺をすすって気付き、そして後悔する。


 そう。こいつは「カレーうどん」なのだ。


「あー、やっちゃったね…」


 制服に跳ねたカレーの汁。僅か数滴ほどだが、明るい水色のワイシャツに付いてしまった為非常に目立つ。私服だったら「やっちゃった」で済む話かもしれないが、ここは自衛隊。普段シワひとつ付いているだけで怒られる生活を送っている。カレーの染みなんてつけた日には、一体どんな指導をうけるか分からない。


「ねぇこれ、着替えたほうがいいかな?」


「…私なら大人しく着替えるかな」


 目の前が真っ暗になるというのはこういうことを言うのだろうか。まるで台風指導を受けた部屋を見た時のように、月音は大きなため息を吐いた。


「厄日だ…」


「ほら急ごう。私も付き合うからさ」


「うん、ごめんね日和ちゃん…」


 手早く昼食を終わらせ、隊舎に向かって全力で走り出す二人。食べた直後に走るのはなかなか辛いものがあるが、そうも言っていられない。



 本来楽しいはずの食事の時間。しかしそれも航空学生にとっては戦場と変わらない。秒刻みの生活を送る彼女たちには、休息の時間こそあれど、心休まる瞬間などないのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雛鳥日和 ラスカル @43273

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ