空飛ぶ理由は人それぞれ!

 防府北基地に着隊してから入隊式までの約一週間。この一週間は航空学生過程を始める前の準備期間であり、入隊予定者はこの間に学生生活のルールや、制服等の着用要領に手入れの仕方、入隊式の練習など様々な準備を行う。そして同時にこの期間は、これから始まる厳しい生活を前に怖じ気づいた者たちが、入隊を諦めて故郷に帰る選択の時でもある。自衛隊特有の厳しさ、集団での生活、そういったものに耐えきる自信が無ければ、とてもじゃないが航学生活は乗り切れない。


 入隊式を翌日に控えたその日、式の予行を終えた月音つきねは同期のWAF(女性自衛官)たちと居室で靴磨きをしていた。短靴に編上靴等を靴墨を使ってピカピカに仕上げていく。こういった官品の手入れは航空学生に限らず、自衛官であれば誰でも行うことだ。


「そういえばさ、みんなってなんで航学に来ようと思ったの?」


 何気ない質問のつもりだった。航学ここに集まる人なんて、パイロットになりたいからやって来たに決まっている。こんな分かりきったことを聞いても仕方ないとは思ったが、他の話題で盛り上がれる程に、月音たちはまだ互いのことをよく知らなかった。


「勿論、空を飛ぶ為でしょ! 特に戦闘機ね!」


 最初に元気よく答えたのは6区隊の陣内夏希じんないなつきだった。


 ちなみに区隊というのは学校でいう組とかクラスみたいなもので、月音たち71期航空学生は4~6の区隊に別けられている。月音が所属しているのは4区隊だ。


「航空自衛隊に所属するパイロットの役7割を占める航空学生! 高校卒業後、最も早く飛行機を操縦できる唯一の道! そこに集まる人なんて、空を飛びたい奴ばかりに決まってるでしょうよ!」


「気持ちは分かるけど落ち着きなさい。そんな力説するようなことでもないでしょ」


 興奮する夏希の頭を少女が軽く叩く。彼女と同じ6区隊の都築冬奈つづきふゆなだ。


「空を飛びたいっていう気持ちは同じでも、なんで空を飛びたいのか、その理由は人それぞれよ。国防の最前線に立ちたいとか、まあ色々ね」


 いかにも自衛官らしい、真っ直ぐな答えだ。彼女は月音たちと違って一年早く空自に入隊しており、現役の中から航学に受かった現自げんじと呼ばれる者たちの一人だ。


「私の場合は自衛官の親に影響されてでしょうか。都築さんみたいに大層な理由じゃあないですよ」


「…私も、似たようなもの」


 5区隊のコンビ、同期なのに丁寧語が抜けない桜庭春香さくらばはるかと口数の少ない轟秋葉とどろきあきはが続けて答える。夏希や冬奈と比べて、この二人はあまり積極的な理由で航学にやって来たわけではなさそうだった。先の二人が「空を飛びたい」と思ってここに来たなら、この二人は「空を飛んでみたい」といったところだろうか。


「案外みんな軽い気持ちでここに来てんだねー。あたしなんか、中学の頃から航学に入る為に勉強してきたもんだけど…」


「全員が全員、陣内学生みたいな強い理由を持っているわけじゃないわ。ここに集まったのは数人でも、実際には何千人もの人が航空学生を受験しているのよ?」


 ましてや自衛隊への入隊窓口がはっきりとしない中、航空学生という制度があることさえ世間には知られていないというのが実情だ。夏希のように、小さい頃から航空学生の道を目指していたという人はなかなか珍しい。


「まあでも、パイロットになりたいっていう気持ちで言えば、私たちって共通する部分があるわけだよね。もっとも、私の場合はもともと民航に憧れてたわけだけど…」


「菊池さんみたいに、民間パイロットになりたかったけど自衛隊に入ったっていう人は割といるみたいですよ? だから戦闘機よりも輸送機志望の人が最近は多いとか…」


「夢を叶えるのもタダじゃないしねぇ。ここなら逆に給料が貰えるわけだし。ひよちゃんはどう? なんで航学に?」


 一人、なにも言わずに黙々と靴を磨く日和に夏希が話しかける。あ、それは私も気になる、と月音は身を乗り出した。着隊してから日和とは同じ区隊、同じ部屋のパートナーとして共に過ごしてきたが、まだまだ知らない部分は多い。


「私はみんなほど立派な理由はないよ。航学の存在を知ったのも、パイロットになりたいって思ったのも去年の夏くらいで。たまたま広報官と出会って、薦められて受けたら受かったっていうか…」


 みんなの、特に夏希の表情が少しずつ雲っていく。ああこれは訊かないほうがよかった感じか、と月音は顔をしかめた。


 出会ってすぐに抱いた、彼女のどこか欠けているようなイメージ。まるで彼女は、自分がどうして航学ここにやって来たのかを自分でも分かっていないといった様子だった。


 自衛隊、特に航学なんて誰かに言われて入るような場所じゃない。なにかしら理由がない限り、こんな厳しい環境に身を置く必要なんてないはずだ。なのに日和にはその理由が見えない。彼女がどこか芯の無い目をしているのはそのせいかと、月音はようやく合点がいった。


「冷めてるねぇ。なにか自分を支えるモノがないと、この先やってけないよ?」


 夏希の言葉に日和が身を縮こませる。痛いところを突かれた、といったところか。


 しかし夏希の言うことはもっともだ。人は夢や目標があるからこそ頑張れる。ただがむしゃらに努力だけ重ねる者は大抵の場合大成しないし、そんな付け焼き刃な努力が通用する程にここは甘い世界ではない。今の日和にはその夢や目標といったものが丸々欠けていた。


 月音も夏希たちと同じく、小さい頃からパイロットに憧れてここまで来たクチだ。日和みたいな人がいることなど考えたこともなかったし、彼女の気持ちを理解することもできない。フォローに入りたくても、なんていう言葉をかければいいのか分からなかった。


「ここに来た理由が人それぞれなのは分かるけど、そもそも理由が無いってのはちょっといただけないんじゃない? 無理に見つけろってわけじゃないけどさぁ…」


 そこまでだと冬奈が夏希の襟首を引っ張った。見れば日和はすっかり意気消沈して、さらに身体を小さくしていた。それを受けて夏希がしまったという顔をする。


「ごめん、責めてるわけじゃなくって、忠告っていうか…なんて言うかな」


「いいよ。言いたいことはなんとなく分かるし、夏希が謝るようなことでもないから」


 気にしていないと言われて大人しく夏希は引き下がり、一同は再び靴を磨きだす。妙な空気になって会話が終わってしまい、軽率な質問をしてしまったと月音は反省した。


(それにしても…)


 ちらと日和を見る。夢も目標も、自分が頑張るためのなにかを持たない彼女。色々な人が航学には集まっているとは言え、この6人の中でも彼女だけは異質に見えた。


 何故彼女は進学を選ばなかったのだろう。航学に入れるくらいだから、決して頭が悪いわけではないはずだ。将来の夢や心からうちこめるものがなければ、それこそ進学して視野を広め、自分に合った生き方を探してみればいい。


 ここは自衛隊の中でも特にパイロットになるためだけに用意された場所。それを知らないで入ってくる人なんてまずいないだろう。ということは少なくとも空を飛ぶことに興味はあるわけか、と月音は勝手に推測してみる。


 空を飛びたい人。空を飛んでみたい人。そして、空を飛ぶってどんなだろうと思う人。気持ちの大きさこそ異なるが、目指すところは皆同じ。これから何事も協力しあって、共に苦難を乗り越えていく仲間には違いない。パートナーである日和に若干の不安を抱きつつも、良い同期に巡り会えたと月音は思う。


 明日は入隊式。それが終われば厳しい教育がスタートする。いよいよだと、月音は磨き終えた短靴を光に当て、その輝き具合を確かめた。





 滞りなく式が終わり、入隊学生の家族たちが基地を離れると、即座に航空学生課程の教育が始まった。まだスタートしたばかりだから慣れるまでゆる~く、なんて話は当然ない。移動間は常に駆け足、食事に許された時間は長くても5分程度、生活の中でことあるごとに指導をうけて腕立て伏せ…起床から就寝まで心休まる時間なんて一秒も貰えない。


 導入と呼ばれる理不尽なまでに厳しい指導は入隊式から約一ヶ月続く。この期間で学生たちは完全にシャバっ気を抜かれ、ようやく一人前の航空学生として認めてもらえるのだ。


 あまりの厳しさに一週間経たないうちに辞めていく者もいる。自衛隊に入る以上、厳しい教育を受けることは誰もが覚悟していたことだが、いざ始まってみるとその過酷さは想像以上のものだったという話はよくある。加えて航空学生課程では戦闘操縦者としての基礎中の基礎を教育する為、ろくに航空機も触らせてもらえない。その中で自己のメンタルを保ち続けるのはなかなか容易なことではない。


 地べたを駆けずり回っても、いつか必ずパイロットになってやる。彼等の精神を支えるのはその強い想いだけだ。今では無意味に思える教育でも、全てが将来必要になってくる。そう信じてがむしゃらに突っ走る他、学生たちに自分を守る術はないのだ。


「だから、身辺整理にしてもなんにしても、全部完璧にこなしていけば余計な指導も食らわないだろ?!」


「言うだけならタダだよな! それができたら誰も苦労なんてしてないんだよ!」


 一日の終わり、20時から行われる自習時間では毎日のように反省会が開かれた。今日はここが悪かった。明日はこう変えていこう。そういったことを同期たちで話し合う大切な時間。しかし日を重ねる毎に彼等の心に余裕はなくなり、責任の擦り付け合いや激しい口論に発展することもある。


「もっと助け合いやすい環境にしようよ! 困ったらすぐ助けを呼ぶとか…」


 月音も同期に混ざって意見を出す。議論は若干迷走気味だが、口に出してみないことには話は進まない。内容はともかくとして、こうやって思ったことを素直にぶつけることができるのは航学の良いところだなと月音は思った。


 だから、この場で何も言わない日和のことが気になる。どうも彼女は自分の意見を主張する場面となるとだんまりを決め込む傾向があるみたいだった。


 何を考えているんだろう。どこを見ているんだろう。


 どうして彼女は空に興味を持ったのだろう。


 航学に来たこと、ここの環境、全てが気に入っている月音にとって、日和はとても奇妙な存在だ。特別大きな夢や目標を持たない彼女が、どうしてこんな厳しい生活を耐えることができるのだろうか。


 自分とは違う生き方を選ぶ、今まで出会ったことのないタイプの、言うなればミステリアスな空気をまとった彼女のことが、月音はとにかく気になった。





「いっやぁ、みんな色々考えてるんだね。同期がみんな頭良い人ばかりで、なんだかすごく頼もしいよ」


 日夕点呼前の僅かな自由時間。自室に戻った月音は力尽きるように机に突っ伏した。本当ならベッドに寝転がりたいところだが、綺麗に整えられたベッドの形を崩すことができるのは就寝の時だけ。それまでは寝転がることはおろか座ることさえ許されない。


「これだけ優秀な人が同期に揃ってるんだもん。きっと私たちなら無事に導入を越えられるよね! 明日は今日よりももっと頑張らないと!」


「元気だね、月音」


 誰に向けたわけでもない独り言に日和が反応してくれる。なんだかちょっと嬉しくて、月音は笑顔を彼女に向けた。


「楽しいからね! 厳しいのも皆で頑張るのも、青春って感じがするし! まあ辛いと思うことはあるけれど、それも含めて、全部私は気に入ってるよ」


「凄いね…私はそこまで強くないから、ただ目の前のことを頑張ることしかできないよ」


 それでも、折れずに耐えているじゃないかと月音は思う。一体なにが彼女を支えているんだろうか。そうまでしてここに居続ける理由はなんなのだろうか。


 机に溶けていた月音だが、身体の疲れはもはや気にならず、立ち上がって日和の方を向く。


「私、小さい頃からどうしてもパイロットになりたかったんだ。ドラマに影響されたっていう安いきっかけだけど、それだけを夢見て頑張ってきた。航学にやって来て、もう少し頑張ればそれが叶っちゃうんだ。そう思うと、大抵のことは耐えられるし、こうして元気も出るんだよ」


 日和はどう? とは訊かなかった。けれど、彼女は答えてくれる気がした。


「私には、分からないよ…」


 視線を落とす日和。大丈夫、点呼まではあと5分はある。それで十分だと月音は手に力を入れる。


「誰もが皆、月音みたいに夢を持ってるわけじゃない。私みたいに空っぽの人だっているんだよ。だから、だから私は…」


 ああそうか、そういうことか。月音は日和に詰め寄り、自信無さげに震えるその手を取った。


「いいじゃん。空っぽってことは、これから色々なものを詰めていけるってことでしょ? だから日和ちゃんは航学に来たんだよ。好きなものを探すため、夢とか目標を見つけるため」


「…そんな私でも、ここにいて良いと思う?」


「あったり前でしょ! この前みんなで話したじゃん。空を飛ぶ理由は人それぞれ。日和ちゃんみたいに、自分だけの何かを探すために空を飛ぶ人だっているんだよ」


 日和の胸を軽く叩く。瞬間、彼女の眼に今までなかった光が宿った気がした。


「大丈夫! 私たちなら厳しい航学生活もなんてことないって。同じ空を目指す者同士、明日からも頑張っていこうね」


 点呼ラッパが鳴り響き、すぐさま二人は居室を飛び出した。ありがとう、と日和が言った気がした。その走る姿はとても力強くて、他の同期たちと何ら変わらない。みんなとどこか違っていて、何を考えているか分からなくて…勝手に彼女を異質な存在だと思っていたことを月音は反省する。


 月音や同期たちと少し異なる部分はあるけれど、芯がないわけではない。心を開いて話してみれば、けっこう良いパートナーじゃないかと月音は思った。


 夜の空に点呼の声が遠く響く。 これから数時間後、朝日が昇ればまた秒刻みの訓練が始まる。


 空を飛びたい。それぞれ別の想いはあれど、学生たちが目指すところはみな同じだ。その強い想いこそが彼等を支え、厳しい日々を乗り越える力となり、少しずつ高く飛べるように成長していくのだ。

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