第三週「ふたりぼっちの温泉」

「『ひとりぼっちの青春』って知ってる?」彼女は言った。「アメリカン・ニューシネマの一作なんだけど」


 暗澹とした映画らしい。舞台は大恐慌にあえぐアメリカ、ハリウッド近郊。売れない新人役者の男女がマラソンダンスの大会に参加する。倒れるまで踊り続ける様を見世物にするという地獄のような競技だ。脱落者が続出しながらも大会は続き、やがて目標を失ったヒロインは主人公に自分を射殺するように頼む。最後、逮捕された主人公は動機を訊かれてこう答えるのだ。「廃馬は撃ち殺すものでしょう?」と。


 原作はホレス・マッコイの小説『彼らは廃馬を撃つ』だ。彼女の話を聞いていて、そのことに気づいた。


「原作があったのね。まあ、それでも映画の方が優れてると思うけど。ジェーン・フォンダが出てるんだもの」彼女は驚きつつ、こう続けた。「わたしたちも似たようなものだと思わない? 受験。就活。あなたのため、将来のためと踊らされ続ける」


 彼女の表情はうかがえない。僕らは背中合わせにしゃべっていた。乳白色の湯舟と硫黄の匂い。立ち上る湯気。石張りの立派な露天風呂だった。開かれた視界では、雄々しく聳え立つ火山が煤煙を高々と吐き出し続けている。その広がり方は、まるでオーブンの中のシュークリームを早回しで見ているようだ。少し目線を落とすと、黒い煙が風下に向かって伸び、墨汁を水に垂らしたように、空を灰色に染め上げている。噴火の勢いはとどまるところを知らない。煙の根元ではマグマが噴出しており、四方八方に火砕流をまき散らしはじめていた。いまにも山裾に届きそうだ。じきに、紅葉した木々をなぎ倒し、ここにも押し寄せてくるだろう。


「きっと逃げられないわね。知ってる? 噴火にも種類があるのよ。あれはたぶんプリニー式。ポンペイを飲み込んだヴェスヴィオ山の噴火と同じものだわ」彼女は笑うように言った。「ねえ、いまでもこれが夢だと思ってる?」


 夢としか思えない。だって、彼女とはただの同級生だ。それがタオルも身につけず混浴してるなんて現実のこととは思えない。そもそもどうして僕らはここにいるのだろう。気が付けば湯舟の中にいた。噴火でそれどころではなくなってしまったけど、これだって十分、非現実的な状況なのだ。


「夢とは限らないんじゃない」彼女は続ける。「たとえば……そうね。死後の世界なんてどう? 何かの事件事故でわたしたちはほぼ同時に命を落とした。それでいまはお迎えを待っている。三途の川の船頭をね。たとえるなら、ここはその待合室」

 

 よく思いつくものだ。しかし、何らかの事件事故というのが気になる。


「なんだってあり得るわよ。たとえば通学路にトラックが突っ込む。学校に包丁を持った異常者が乱入する。一緒に玉川上水に飛び込む」


 いまの玉川上水で入水は無理だろう。だいたい、なんで僕と彼女が。


「そうね。でも一緒じゃなくても同時刻に自殺した、ってことならあり得るんじゃない。理由? わたしにはある」彼女は言った。「わたしはね、廃馬なのよ。くたくたの廃馬。だからもう死ぬしかない」


 その発言には思い当たることがあった。僕たちの学校はぎりぎり進学校で通ってるけど、地域で一番ではない。成績上位者の彼女に対して、もっと上の学校に行けたのにと囁く声は多い。有名な私学を受験して落ちたという噂もあった。


「少し違うわね。落ちたのは中学のとき。山のような宿題をこなして、家庭教師を何人もつけて、それでも受からなかった。そのとき、わたしは廃馬になったのよ。ずっと死のうと思ってた。手首だってリストカットの痕でいっぱいなんだから」


 確認できない嘘をつく。しかし、彼女の声音には真実の響きが含まれているように思えた。


「いいわよ」彼女は言った。「どうせ最後だもの。嘘かどうかこっちを見てたしかめればいい」


 溶岩はとめどなく溢れていた。木々をなぎ倒しながら、黒い津波となってこちらに向かってくる。


 溶岩が温泉のすぐ手前まで迫ったその瞬間、彼女に向き直った。手首だけを見るなんて器用な真似はできない。張りのある乳房、きれいに浮き上がった鎖骨、細長い首が自然と目に飛び込んでくる。そして彫刻のように整った顔。視線が絡み合い、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。手首を顔の高さにかざす。


 なんだ、傷なんてないじゃないか。


 そう独りごちた瞬間、波が押し寄せ僕の意識を真っ黒に塗り潰した。



 寝覚めは悪くなかった。大雨だったが、学校まで徒歩五分の僕にはあまり関係ない。いそいそと着替えはじめる。欠伸しながら、シャツのボタンを留め、静まり返った家を出る。今日はテストだ。山を張ったところが出ればいいが。


 雨の日は、足元の音に耳を傾ける。通学路の下を流れる暗渠に水が流れ込んでくるのだ。ごおごおという音はやがて学校の前で途切れ、僕は雨音の中、正門をくぐる。雨のせいもあってか、まだ人気は少ない。雨に濡れたスニーカーを下駄箱にしまい、教室へと上がる。


 教室の扉を開けると、彼女がいた。窓際に乗り出すようにして外を眺めている。僕に気づいて、視線が交わる。思わず声が出た。


「おはよう」


 彼女は目を丸め、こう返事した。


「おはよう」


 僕は自分の席に向かった。筆記用具と教科書、ノートを机の上に並べて最後の追い込みをかける。ちら、と窺うと彼女も自分の席に戻り、教科書を広げていた。


 挨拶を交わすなんてはじめてだった。自分でもなんでそんなことをしたのかわからない。


 続々と同級生が登校してくる。みな一様に、机に教科書を広げテスト勉強をはじめる。


 教科書を眺めても、内容が頭に入ってこない。彼女の横顔に目をやる。話しかけるなら、どんな話題を選ぶべきだろう。温泉、火山、いや、好きな俳優でも尋ねるのが無難だろうか。ジェーン・フォンダ。そんな俳優が実在することを祈りながら、僕は席を立った。

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