第四週「塹壕の妖精」

 その写真をはじめて見たのは、ストランドマガジン一九二〇年クリスマス号でのことだった。記事のタイトルは「撮影された妖精たち──画期的な出来事」。執筆者はのコナン・ドイルだ。


 写真は何枚かあった。撮影者は、コティングリーに住む幼い少女たちで、彼女たちの手前に妖精と思しき小人たちが写っている。この手の写真にありがちなようにピンボケもせずくっきりと写っており、羽の紋様さえ詳細に窺えた。ドイルはこれらの写真を「物質主義の世界に、霊的主張が受け入れられるための神のプレゼント」と称賛、後に妖精を信じると表明する本まで出版している。


 一連の写真が最初に撮影されたのは奇しくも一九一七年だ。それはちょうど、わたしが知る唯一の妖精がみじめに死んだのと同じ年だった。


 妖精の名前はロン・ミラーという。塹壕で一緒だった仲間だ。ロンドン出身の十九歳。同じ故郷の出身者で構成された歩兵部隊で一番若いのが彼だった。


 ロンは我々にとって弟のような存在だった。泥まみれで戦った日々の中、彼のとんちきな言動は我々を和ませ、ときにいらだたせた。部隊の中ではロン語録が編まれ、彼のキャラクターは、伝言ゲームの果てに、犬ほどの知能しか持たない愚鈍な大男という評価とともに語られるようになった。曰く、ロンは十一までしか数えられない。曰く、ロンは時の国家君主が誰か知らない。曰く、ロンは羊と山羊が同じ動物だと思っていた。それらの伝説の中でも、最も代表的なのが、「取り替え子」発言だった。


「俺は妖精の子供なんだ」


 ロンはかしこまった顔で言ったものだ。まるで、カトリックの司祭に告白する殺人者のように。


「お袋はよく言って聞かせたものさ。あんたは妖精の子供だってね。だから叩いても蹴っても、家の外に放り出しても問題ないってわけだ」


 取り替え子の伝承自体はみんなよく知っていた。妖精が人間の子供を連れ去る際、代わりに残していく妖精の子どものことだ。取り替え子はしばしば、親の手を焼かせる存在として語られる。そうでなかったら、誰も取り替え子なんて可能性を疑いはしないだろう。きっとロンも両親を困らせる存在だったに違いない。


「どうせみんな、またロンの戯言がはじまったと思ってるんだろう。言っておくがな、俺だって最初から信じたわけじゃない。当たり前だろう。このご時世に妖精だぜ。俺だってロンドンっ子だ。生まれた頃からスモッグを吸いながら生きて、どうしてそんなものを信じられる? だがな、長いことお前は妖精の子供だって言い聞かされてみろ。てめえの家族からいじめられてみろ。子供はこう思うもんだ。自分は親父とお袋の子じゃないんだってな。となると、答えはひとつしかない。お袋の言うとおり、俺は妖精の子なんだ」


 この発言に対するわれら歩兵部隊の見解は大きく二つに分かれた。まず一つに、ロンは本気で自分が妖精だと信じているに違いないというもの。もう一つは、体格に似合わず臆病な彼が自分を奮い立たせるため用いる方便なのではないかというものだった。


「妖精は死なない」


 戦闘中、ロンがしばしばそう繰り返すのを、仲間の多くが耳にしている。それは銃撃や泥を掻き分ける音でたやすく消えてしまうほど小さな声で、最初は何を言っているのか誰にもわからなかった。発言の内容があまりに突飛だったせいもあるだろう。はっきり聞き取れたとしても耳を疑ったと思う。しかし、例の発言を受けたことで、部隊の中でもロンのもごもごしたつぶやきを聞き取れる者が出てくるようになった。


 あるいは、それもあやふやな伝言ゲームの結果にすぎないかもしれない。しかし、ロン当人をよく知っている我々からしてもその発言はリアリティがあるように思えた。自分を妖精だと思い込むことで正気を保つロン、その思い込みを強化するために我々に取り替え子の話を聞かせたロン。


 しかし、ロンの出自がどうであれ、戦場では関係なかった。その日も「妖精は死なない」と繰り返していたであろうロンは投げ込まれた手榴弾を処理し損ねてあっけなく命を落とした。右半身を吹き飛ばされた上、破片が全身に刺さり致命傷となったのだ。掩蔽壕で最後の対面を果たしたとき、彼は妖精というよりも、泥と血をこねた出来損ないの土くれ人形ゴーレムのように見えた。


 妖精は死んだ。


 むごたらしく死んだ。


 それが一九一七年の冬。コティングリーの幼い少女たちが妖精をはじめて写真に収めたのと同じ年のことだった。


 少女たちの一人が、妖精写真の捏造を認めたのは、それから半世紀以上も後のことになる。尤も、写真は発表当時から疑念に晒されていた。彼女たちがそう告げるまでもなく、妖精はとうに死んでいたのだ。いまでは問題児に手を焼いたところで、本気で取り替え子を疑う人間など誰もいない。彼らの問題行動はいずれ脳科学や精神医学の言葉によって説明されるようになるだろう。妖精の出る幕はない。


 妖精は死んだ。人間の理性が殺したのだ。素晴らしき人間の理性は、技術革新を推し進め、世界を二分する対立と、全滅戦争の恐怖をもたらした。イギリス国内に限っても第二次大戦では空襲を受け、戦後も出口のない不況とテロリズムが深刻な社会不安を呼んでいた。それが、妖精を殺した対価に得た世界のあり様だ。


 わたしは年老いた。ロンの顔もうまく思い出せない。しかし、いまでも彼の声、言葉が脳裏によみがえってくる。そして、その度に微笑ましくも物悲しい気持ちになるのだ。


 さよなら、妖精。君たちのことは忘れない。

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