第二週「ロンドン塔」

 ここはどこだ。


 どこからともなく漂うえた匂いがわたしを現実に引き戻す。廊下にずらりと並んだ鉄製の扉と甲冑、石造りの質感、空気が流れる音、それらの現実がゆっくりと輪郭を結び、また霧散する。寄せては返す波のように、何度も何度も。わたしは覚醒を繰り返す。ここはどこだと問い続ける。悪い夢を見ているようだった。いや、そうではない。本当はわかっていた。わたしは酒を飲んでいる。酩酊しているのだ。


 “Onetwothreefourfivesixsevenよい子はみんな天国へAll good children go to heaven


 ベアスキン帽に赤い軍服姿の男が聞き慣れない英語の歌を口ずさんでいる。わたしを先導しているらしい。軋る音とともに牢のような扉が開かれ、部屋に通される。待ち受けていたのは、天蓋付きのベッド、蝋燭が立てられた燭台、ワインボトルが入った籐のバスケット、豪奢なマントルピース、壁に飾られた禍々しい凶器の数々、そしてボンテージ姿の女だった。


「小汚い豚の分際でどこをほっつき歩いてたんだい!」女が鞭を鳴らす。「さあ、お仕置きのはじまりだよ!」


 ここはどこだ。


 わたしはどうしてここにいる。


 “一、二、三、四、五、六、七、よい子はみんな天国へ”


 軍服の男が去り際にもう一度歌う。その歌声に誘われるようにして、記憶の泡が浮かんできた。そうだ、部長だ。すべては部長の横領からはじまったのだ。


 部長の使い込みが発覚したのは新年度がはじまって間もない頃のことだった。会社は被害届を出さなかった。部長の実家が被害額を捻出することで示談が成立したのだ。もちろん、退職は免れない。奥さんとも離婚調停に入ったとのことだった。


「部長が何に金を使ってたか知ってますか」


 あれは、昇進祝いの夜だった。部長のポストをわたしが引き継ぐことになったのだ。経緯が経緯だけに素直に喜ぶ気にはなれなかったが、部下たちは宵の口から集まり、わたしの出世を歓迎してくれた。きっと、前任者の不祥事を一日も早く忘れたかったのだろう。部長の件を切り出されたのは、部下の小坂と駅に向かっているときのことだった。


「これは別の部署の同期がたまたま聞いた話なんですが」小坂は前置きした。「なんだと思います。SMだそうですよ。〈ロンドン塔〉って店に入り浸っていたとか」


 ロンドン塔と言えば、イギリスの有名な城塞のことだろう。ブラッディ・タワーの異名を持ち、多くの人間が幽閉、処刑されてきた歴史を持つ。夏目漱石が「倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである」と述べるように、イギリス史の物言わぬ目撃者と言っていい。幽霊好きなお国柄ゆえか、その手の目撃談にも事欠かず、シェイクスピアの『リチャード三世』で有名な悲劇の幼王エドワード五世とその弟や、自らの首を求めて彷徨うアン・ブーリンの姿がしばしば目撃されるという。


 SMクラブらしい名前かもしれない。そう思ったのを覚えている。


「ちょうど近くにあるみたいなんですよ。少し覗いていきませんか。何、実際に入るわけじゃない。どんな店か確認するだけです。ロンドン塔なんて言うんだ。どんな店構えか気になるでしょう?」


 わたしは首を振った。翌日は子供の誕生日で、ディズニーランドに行く予定になっていた。早く帰って体を休めたかった。


「そうですか。ならしょうがない」


 その後、小坂は一人で〈ロンドン塔〉に向かったらしかった。彼が自宅マンションで変死を遂げるのはその数か月後のことだ。彼には借金があり、それはSMクラブ通いによるものだという噂が社内に流れた。


 パシン!


 女がわたしを打擲する。乾いた音が部屋に響き、その後を追うようにしてうめき声が漏れた。皮膚が焼けるように熱い。もう何度打たれたことだろう。酩酊する意識を呼び覚ますようにして何度も何度も打擲が加えられる。


 ここは〈ロンドン塔〉なのか?


 内装の雰囲気から間違いないように思えた。それに、そうでなければ他にSMクラブとの縁など思い浮かばない。きっと酔ったわたしは興味本位から同僚たちを破滅に追いやった場所に足を踏み入れたのだ。そうに違いない。


「何をボーっとしてるんだい! 豚は豚らしく鳴きな!」


 わたしはうめき声をあげた。痺れるような痛みが脳を突き刺す。覚醒を通り越して意識が飛びそうになる。それはいままでに味わったことがない感覚だった。


 もっと。


 そんな言葉が意識の片隅に浮かび、慄然とした。違う。わたしは……


 パシン!


 浮かんでは消える記憶の泡――そう、あの饐えた匂いは飲み過ぎて吐いたせいだ。あのスーツは、シャツは、どこに行ったのだろう。どうしてわたしは裸になっている。豚のように四つん這いになり、打擲を受けているのだ。


 いや、そもそもわたしはどうして酒を飲んでしまったのだ。


「二度と飲まないと約束して」


 若い妻の声が胸にこだまする。結婚して間もない頃のことだ。あの頃はまだ子供もいなかった。連日飲み歩いて帰ってくるわたしに妻は業を煮やし……そうだ。わたしはあの日から一滴も飲んでいない。そのはずだった。なのに、なぜ。どうして。


「ほら、どうした。本当はこういうのがほしいんだろう」


 違う。わたしは――


「この豚め! 地獄に堕ちな!」


 わたしの否定は言葉にならない。鞭が肌を打つ音、うめき声、そしてどこからともなく聞こえてくる英語の歌。


 “よい子はみんな天国へ”

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