三題噺マラソン

戸松秋茄子

第一週「冬は何度でも」

 暮れなずむ夜空を絨毯にして敷き詰めたらこんな感じだろうか。


 そう思わせるほどに、濃い青紫色の花が咲き乱れていた。


 海外沿いにある公園の高台だ。ある週末の午後、ハルトに手を引かれるまま、階段を上り切ると、一面の花畑に出た。四月の風が潮の匂いとともに、ほのかに甘い匂いを運んでくる。深く息を吸い込むと、冷たくも春らしい空気を感じた。


「ミヤマオダマキっていうんだ」


 花の名前だろう、ハルトはそう言って、手すりから身を乗り出した。目を細めて、花畑と、その背後に広がる相模湾を眺めている。寝起きで髪もぼさぼさの癖に、表情がどことなく物悲しげに見える。まるで、恋人の墓前に佇む帰還兵のようだ。クラスの女子がいたら、うっとりと見入りそうな、きれいな横顔だった。だけど、わたしは知っている。ハルトは恋人なんていたためしがないし、花にその面影を重ねるようなロマンチストでもないことを。それが昼寝から起きるなり、まるで天啓でも受けたように、人の腕を引っ張って花畑に連れて来るなんてどういう風の吹き回しだろう。普段の彼を知っていると、花の名前を知っていたことだって信じられない。


「教えてもらったんだよ」ハルトは照れたように言った。「そんな怪しい広告でも見るような目をしなくたっていいだろ? ちょうどいまぐらいの時間かな。この高台の突端に、女性が佇んでいたんだ。驚いたよ。こっちはダウンのコートでもこもこになってるのに、涼しげなワンピース姿で、上着すら身に着けていないんだからね。肩出しだよ、肩出し。考えるだけで凍えてこない?」


 わざとらしく身体を抱き、身震いしてみせるハルト。だからって知らない女性に声をかけるだろうか。訝しく思っていると、ハルトは急いで付け加えた。


「それだけじゃないんだよ。彼女、まるでいまにも飛び降りそうだったんだ」


 わたしはいよいよ訝しむ思いでハルトを睨みつけた。


「嘘じゃないってば」ハルトは弱ったときの癖で、顎を撫でた。「少なくとも、僕にはそう見えたってこと。それで、だ。こういうことはガラじゃないんだけど……怒るなよ? 何でって、ノエはちょっと潔癖なとこがあるからさ……いや、やましいことはしてないよ。思わず花畑を突っ切って彼女の肩に手をかけたんだ」


 ハルトが手をかけると、彼女は振り向いた。少し驚いたような顔をしたという。対するハルトも、彼女の顔にどこか懐かしさを覚えた。親しい誰かの面影を見た。


「それは向こうも同じだったみたいなんだ」ハルトは言った。「僕は彼女の……恋人に似ていたらしい。特に目元がそっくりだなんて言うから、何だか照れ臭かったな」わたしの視線に気づき咳払いする。「とにかく、だからだろう。彼女は僕に自分の身の上を話してくれた」


 と言っても、わかったことはそう多くない。一生を添い遂げると決めていた恋人と辛い別れを経験したそうだ。帰る場所を失い、あてどなく彷徨っているうちにこの場所に出たらしい。


「最初は驚いたそうだよ。こんな低地でミヤマオダマキが見られるなんて思わなかったって。花の名前を知ったのは、そのときのことさ」ハルトはもっともらしくうなずいた。「ミヤマオダマキはその名の通り、むかしは高山帯に咲く花だったらしい。それで驚いたって言うんだ。でも、おかしいよな。だって、それじゃまるで彼女がそのを直接知ってるみたいじゃないか。そこでピーンと来たね。


 ハルトだって自分がいかにナンセンスなことを言っているかわかっているはずだ。


 二一世紀の半ば、地球は氷河時代に突入した。寒冷化の進行は穏やかなものだったという。水面が徐々に下がり、生態系が変わりつつあったとしても、人間の寿命でそれを実感するのは難しかったろう。


 寒冷化のピークとされる氷河期がはじまったのがおよそ四〇〇年ほど前。ハルトの言っていることが本当なら、彼女はそれ以前から生きていることになる。高山植物の低地進出を知らなかったくらいでそう決めつけるのは、無理がある。


「言ってなかったっけ」ハルトは欠伸とともに言った。「これはさっきまで見てた夢の話だって。夢なら何でもありさ。そうだろ?」


 それならどうして彼女は花の名前を知っていたのだろう。ハルトはそんな当然の疑問にさえ気づかないようだった。わたしをからかっているのだろうか。しかし、ハルトらしくない。いつもの彼ならもっと周到に、棋士が王手をかけるように、嘘の手筋を組み上げるはずだった。そうでなければ、騙されて怒るわたしの反応を楽しむことができない。こんなずさんな話ではこちらもどう反応していいかわからないではないか。


「彼女は言っていた」戸惑うわたしをよそに、ハルトは続けた。「高山植物は孤独な植物だと。最終氷期の終わりとともに低地から高山帯に引っ張り上げられ、それぞれの山に隔てられた。まるで自分と恋人のように、と」徐々に口調が真剣みを帯びてくる。まるで、彼自身、夢の話だと忘れてしまったように。「でも、氷河期はいつかまたやってくる。過酷さを増す高山の環境に耐えかねた花々は降下をはじめ、いつか低地で再会する。この花畑を目にするまで、そのことに気づかなかったと。そう彼女は言っていたよ。たとえ途方もなく時間がかかるとしても可能性はあったのだと。自分も彼を諦めるべきではなかったと」


 言い切ると、ハルトは改めてミヤマオダマキに目をやった。わたしはその視線を追う。これらの花々がいかな経緯でこの場所に咲くようになったのかは知らない。公園の職員が植えたのか、あるいは気温が低下したことで、雪深い高山の花々が自ら下って来たのか。いずれにしても、花はいまこうして低地まで下りて来た。それもきっとこの場所だけではない。ミヤマオダマキの花々はいずれどこかの花畑で出会い、花粉を交換することになるかもしれない。


「僕は彼女に何も言えなかった」ハルトはつぶやいた。「その前に夢が醒めてしまったんだ。本当は言ってやりたかった。いまからでも遅くない。氷河期がまた巡ってくるなら、きっとまたその彼に会えるって」


 ハルトが振り返った。視線が交わって、どぎまぎしてしまう。なのに、どうしてだろう。目が離せない。生まれた頃から知っている兄の顔。その真剣な面持ちから視線を逸らすことができない。


「彼女は君に似ていたよ。ノエが大人になったらきっとこうなるだろうって顔だった」


 強い風が陸地側から吹き付け、花々を揺らした。もうすぐ日が沈む。ミヤマオダマキの青紫色は闇に溶けてしまうだろう。そのとき、わたしたちはどうしているだろう。ハルトの瞳にそう問いかけてみる。そこに答えはない。夜より暗い瞳が、立ちすくむ少女を無表情に映し返すばかりだ。


 冷たい空気。


 潮と花の匂い。


 夏はまだ遠い。それまでに何度、夜を繰り返せばいいのだろう。子供のわたしにはそれすらわからない。

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