第四章 竹生島を目指して

第四章 竹生島を目指して

数日後。

小春は、仕事がなかったので、一日部屋にいた。

意外に、こういうときのほうが、時間が膨大にありすぎて、なんだか寂しい感じだった。外へ出て、バイオリンを教えているほうが、楽しくはないけれど、時間が早くたってくれるので、ある程度はいいのだった。休日になってしまうと、バイオリンの練習さえしてしまえばあとは何もすることもないのだった。来客が来るとしたら、宅急便や回覧板がたまに来るくらいで、ほとんどないし、電話をする相手もいないから、電話がかかってくることもない。SNSで、文字を用いて話すことはあっても、なんだか寂しい気持ちはぬぐい切れない。最近の人は、会って話す価値はないと主張して、暇だから会いに行こうという人は、誰もいない。極端な話、休日は声を出すこともほとんどないので、これが毎日続いていたら、声帯も必要なくなってしまいそうだ。

その日も、くだらない事件の解説を一生懸命やっている、テレビをじっと見つめていた。

と、突然、インターフォンがなった。

あれ、最近通販で何か頼んだわけでもないのにな、そうなると、新聞とか保険の勧誘員か?と思いながら、しぶしぶ座っていたソファーから、立ち上がって、玄関の方へ行った。

「どなたですか?」

聞いてみると、

「あ、こんにちは。森田です。」

と声がする。宅急便とか、勧誘員以外での客は、実に久しぶりだ。しかしなぜ、ここに住んでいるとわかったのだろうか。

「どうしてここが?」

小春は正直驚いて、少し警戒していった。

「いえ、大家さんに聞いたらこの部屋だと教えてもらったので。新山さんというお宅はどこかと聞いたら、すぐに教えてくれました。今新山というお宅は、ここしかないからって。」

なるほど、そうなるとこのマンションも相当人がいなくなったのだと認めざるを得なかった。

「すみません、ご迷惑でしたか?」

「あ、ああ、安心して。そんな気持ちはこれっぽっちもないから。どうぞ、入りなさいよ。」

小春は、社交辞令的にそう言って、急いでドアチェーンをとってドアを開けた。ドアを開けると尋一が立っていた。

「どうしたんですか。いきなり。」

「あ、すみません。やっぱり、今の人は、こういう行為には迷惑とか、恐怖とかそうなりますよね。特に女の人ですと。」

「そんなことは求めてはいないわよ。あなたって、ほんとに何でも後ろ向きなのね。」

思わず笑ってしまうほど、謙虚すぎる人だ。

「あ、ご、ごめんなさい。そういわれるのでは、やっぱり。」

そう言って彼は額の汗を拭く。

「そういう事は言ってないわよ。それよりも、何の用なのよ。言いなさいよ。」

「す、すみません。知人が、信玄餅持ってきたんですけど、もらいすぎたからどうかなと思って。」

また老けた菓子をもらうんだなと小春は思った。

「なんでまた。」

「あ、ああ、こないだ助けてもらったから、そのお礼ですよ。冷蔵庫には何もないので、買ってこないといけないなと思っていた矢先に、僕の知人が信玄餅を持ってきてくれたので。」

つまり、おすそわけか。

「へえ、知人という存在があっただけでもうらやましい。どんな人なの?」

「あ、ごめんなさい。またいやな思いをさせてしまいましたか。」

「だからいいんだってば!その人がどんな人なのか知りたいだけで、嫉妬も何もないわよ。本当に不器用な人ね。」

本当に笑ってしまいたくなる。

「す、すみません。影山杉三さんという、文字も何も読めない、歩けない方です。」

また、変な人と付き合っているものだ。どういう人脈か。

「へえ、変わった知り合いがいるものね。」

「まあ、、、。そうなるのかもしれませんが、いろんな食べ物を持ってきてくれるので。」

「じゃあ、食費なんかは困らないわね。」

「え、まあ、、、。」

尋一はまた汗を拭く。

「そんなに緊張しなくていいのに。もしかして、女性と付き合ったことないの?」

からかい半分でそういうと、

「はい、ありません。」

と、答えが返ってきた。まさしく即答だ。

「すごい!だって、少なくても40年は生きているでしょ?その間に一度も恋愛してないの?」

「僕、まだ35なんです。」

あれまあ、という感じだった。

「そんな年とは思わなかった。もっと老けてると思った。じゃあ、私よりも、少なくとも10年離れていることになるのか。じゃあ、年上のおばさんとして言っておくけど、そんなに老けた髪型と、戦時中の国民服みたいな、カーキ色の着物は今直ぐやめなさい。全く、そんな恰好してるから、明治くらいの書生が、タイムスリップでもしたのかと思ったわ。」

小春はこのときだけは、女性の顔になった。

「あ、ご、ごめんなさい。」

「謝って済む問題じゃないでしょ。そんなに頭ばっかり下げていると、本当に笑われるわよ。」

「まあ、笑われるのには慣れてますから。」

「だから、付き合えなかったのね。」

「誰と?」

「女性とよ。笑われるのに慣れちゃったら、こっちも付き合おうなんて気は毛頭出ないでしょうよ。せめて白髪染めくらいしなさい。そうしないと、女の人は皆逃げていくわよ。」

「今は、染めるより早く生えてきますから、まあいいやと思って、やらないんですよ。」

「全く変なひとね、馬鹿正直というか。今の人なら、白髪染めを定期的にやるとか、自分の髪の毛を生やそうとして、すごいお金をかけるとか、そういう事やってて当たり前なんだけどな。なんでまたそういう事に無頓着なんだろ。今時の35とはとても思えないなあ。」

「ああ、必要ないんです。どうせ、終わっちゃいますから。」

「そうなの?」

不思議な男がいるものだ。35歳と言っておきながら、自分の見た目には全く気を使わないで、終わっちゃうという言葉をさらりと口にする。

「もしかしたらあなたって、法界屋?」

冗談で言ったつもりだったが、

「ああ、近いかもしれないです。」

そう答えが返ってきた。

「ただ、門付けしたことはないですけど。普段は掃除人として、生活していますので。」

「じゃあ、演奏はしているの?この間、勝手にお宅へ上がらせてもらったときに、漢数字が変な風に並んだ本が大量においてあったけど、あれは楽譜なの?」

小春が質問すると、

「あ、はい。お箏のね。」

と、かえってきた。

「どこかにでも入ってたの?」

「前は生田流の一派にいたんですが、師範免状をもらったときに脱退して、いまはどこにも入ってないです。」

「そのほうがいいわよ。あたしもバイオリンをやっているけど、音楽学校に入りたてのころ、バイオリンの先生ともめて、破門されたりしてるから。きっと、邦楽はそれよりもっと厳しいんじゃないの。それなら、さっさと出て行ったほうが、新しいこともやれるだろうし。」

小春は、いつの間にか自身の経験も話したくなった。なぜか脱退したというところが妙に親近感を持ってしまったのである。

「若い人は、師匠のしんがりになっていることが多いけど、意外に脱退したほうが、新しい音楽が作れるんじゃない?それに、そういうところにいると、付き合いとかそういう事で無意味なことのほうが多くて嫌になるでしょ。洋楽家から言わせてもらえば、若い人は師範とれたら、さっさと出て行ったほうが、邦楽は長続きすると思うわ。」

「そうですか。やっぱりそう見えてしまいますか。」

尋一はちょっとため息をついた。

「そう見えるというか事実そうじゃないの。着物を着て、正座して、朗々と歌を歌うような邦楽では、興味を持ってくれるのはほとんどが年寄りばっかりで、わかい人は誰も寄り付きはしないじゃない。私から見れば、そういう事を無理やり押し付けるから、誰も寄り付かないと思うのね。そんなもの、さっさと捨ててしまえばいいのに。それを美しいと思って興味を持つ若者が果たして何人いるかしら。洋楽の良いところはそういう切り替えが早くできたところだと思うのよ。その証拠に、ベートーベンと、メンデルスゾーンでは明らかに音楽性が違うでしょ、同じ交響曲であっても。」

「まあ確かにそうかもしれないですけど、邦楽がなくなってしまうのもまたどうかと。」

小春は、教育者らしくいったが、尋一はその答えに肯定する反応をしなかった。

「僕は、生田流にいた時に、洋楽に近いものをさんざんやってきましたが、どうも馴染めなくて、まるでだめだったんですよ。そのうちに古典のほうが、よほど箏には向いているんじゃないかって思い始めてきて。やっぱり、無理やり洋楽的なリズムを入れてしまうのは、どうかと思ってしまうようになったんです。だって、ショスタコーヴィチに近いものもやったけど、なんだかお箏がかわいそうになった気分でした。それなら、本来ある物のほうがいい。そのほうが、よほどお箏はよい音を出してくれるのではないでしょうか。でも、残念ながら生田流の世界というものは、何もそういうものを提供してはくれませんでしたが。」

「そうかもしれないわね。私も、オーケストラにいた時は、弾いているというよりも、楽器を叩き壊すように弾かされたこともあったわよ。ヤナーチェクのシンフォニエッタとか、あれを弾かされたときはまさしく最悪だった。」

小春も一応は彼に同調した。

「でも、西洋の楽器というのは、それでも大丈夫なように作ってあるからいいんじゃないでしょうか。僕はそう思いますね。でも、箏はまるでそういうものじゃないですから。それが、ショスタコーヴィチみたいな曲を弾いたら、びっくりするというだけで、何もよい音楽にはならないと思うんですよ。でも、生田流の人は、無理矢理そうさせようと、必死になっているようにしか見えないんですよね。なんかそれって果たしていいのかなあと思うのですが。」

そう語る彼は、35歳の若者にしては、非常に古い考えを持っているようだ。

「頭が古い人だわ。あなたって。だから、明治くらいの書生の恰好をして平気なのかしら。」

「古いと言ってくれてかまいません。そのために生田流をやめてしまったようなものなので。僕は、ちゃんとした箏曲というのを一からしっかり、学びなおしてみたいんです。それを、せめて一度でいいから実現したいと思っているんです。」

「一度でいいから?」

「はい。それだけは一度やってみたいと思っているんですよ。だから、生田流から脱退して。」

「やめたらどこへ行くの?」

「山田流というマイナーな流派があるから。」

へえ、そんなものがあったのか。名前というか存在すら知らなかった。箏と言えば、生田流だけが現存しているのかと思っていた。音楽学校でも、ほんの少し箏をやらされたが、生田流という流派しか知らされなかった。

「へえ、そんなのがあったのね。日本の音楽は、流派によって、大幅に違うというけれど、果たしてどう違うの?」

「ええ、爪の形も違うし、楽器の形も違うんです。それに曲の内容だって、同じタイトルでも、生田と山田ではまるで違う曲のように聞こえることもざらにあります。」

「同じタイトルでもか。それが日本の音楽の困ったところだわ。誰が弾いても同じだとは言えないところ。」

「確かにそうかもしれないですね。特に古典箏曲はそうなりますよ。五段砧一つとっても、生田流ではあと歌がないのに、山田流ではあと歌が付いていたりとか。」

「それで、どちらもお互いが正しいと言って、喧嘩しているんでしょ。」

「そうですね。確かに、他のジャンルから見ればそう見えますよね。」

「あのさ、私、思うんだけど。」

不意に小春はあることを思いついた。

「お互い音楽している同士だから、すぐに理解してくれるとは思うわ。最近の若い人は、電子楽器と共演することもあると聞いたことがあるの。ここで出会ったのも、何かの縁かもしれないから、一緒にやってみない?」

若い人であるから、すぐに飛びつくと予測していたが、尋一の顔は曇った。

「いや、どうですかね、、、。」

「なんで?もう師範となれば、何をしてもいいのではないの?例えばさ、私はバイオリンを弾くから、お箏で伴奏して頂戴よ。春の海は、もともとバイオリニストに贈呈されているんでしょう?」

「あ、あの曲は弾けないですね。そこだけははっきりしています。僕、もう生田流から脱退しているので、あれは弾いてはいけないのです。あの曲は有名ではあるんですが、生田流の人間だけが弾いている曲ですから。生田流の曲を山田流がやってはいけないとされているんです。それに、爪の形だって、あの曲を弾くのには適していないでしょう。」

はあ、そこまで厳しいのか。日本の音楽というものは、そんなに凝り固まっているなんて、開いた口がふさがらないほどであった。

「それに、かなり難しい曲でもありますので、相当演奏技術がないと無理なのではないですか。」

「もういいわ。」

小春は、苛立ちとがっかりとした気持ちを同時に抱えながらそういった。

「日本はまだ反省してないんだわ。私は戦後生まれだから、戦争のころは知らないけど、いかに西洋に追いつこうとしてもこういう人がまだいる以上、追いつくことはできやしない。」

「あ、ご、ごめんなさい。失礼というか、不謹慎な発言してしまって。」

「謝らなくてもいいのよ。あなたは被害者みたいなものよ。悪いのは、日本の伝統の悪いところに凝り固まっている人たち。そういう人が、いつまでたっても降りようとしないから、邦楽はいつまでもつまらないままなのよ。私からみればそうしか見えない。」

「ご、ご、ごめんなさい!僕、本当に悪いことしてしまったというか、申し訳なかったです!」

「私に謝る必要はないわ。私は、悲しくもないし、傷ついてもいない。それより、あなたは、早く自分の間違いに気が付いて、安全なところへ行くべきね。そのほうが先決よ。」

「せめて、信玄餅だけは持って行ってください。この間、助けていただいて、さらに今日おかしな発言をしたのでは、本当に申し訳が立たないので。」

尋一は持っていた紙袋を差し出したが、

「いいのよ。そんな余分な気は使わないでね。最近、調子はどうなの?癲癇起こしたりしていない?」

小春は受け取らずに話題を変えてしまった。

「い、今のところないです。ごめんなさい。」

「謝ってばっかりいると、かわいい弟が、また怒るわよ。ぎーがーって。とにかく、まだ若いんだから、改善の余地はあるわ。古典とか流派に凝り固まってないで、もっと新しい音楽にたくさん挑戦して、邦楽をもっととっつきやすい音楽にして頂戴ね。それが、邦楽家の目下の急務だと思う。ほら、早く帰らないと、かわいい弟が待っているんじゃないの。」

最後は、皮肉を込めてそういった。とにかく、この人は知り合いも何人かいるんだし、家に帰れば、かわいい弟のような鳥もいるのだから、それに気が付いてもらいたかった。

「ごめんなさい。」

深々と頭を下げる尋一を無視して、

「もういいわ。」

半分優しい声で慰めるように言って、小春は、玄関のドアを閉めた。そのあと、彼がどうなったかなんて、知る由もない。


杉三たちが、バラ公園を散歩していると、池の近くのベンチに、一人の男性が座っていた。

「やっほ。何を考えているんだ?」

横から声をかけられて、尋一が振り向くと、杉三と蘭がいた。

「あ、どうも。」

生返事しかできなかった。

「どうしたの?」

「あ、すみません。」

「すみませんじゃないよ。何深刻な顔してるんだ。」

「いや、ちょっと。」

「ちょっとどころではないのでは?」

「本当になんでもないんです。」

「顔に深刻だと書いてあるがな。おそらく誰かに振られたか。だって、その信玄餅は僕があげたものじゃないか。」

「す、すみません。僕はなんでこんなに不器用というか、ダメな人間なんだろう。」

思わず、尋一の顔に涙がこぼれる。

「聞かないほうが良いのでは?」

蘭が杉三にそういうほど、尋一は泣いていた。

「こういうときは口に出したほうがいいってもんよ。そのほうが、楽に過ごせるぜ。」

「だけど、かわいそうだよ。」

「いや、人間は言わないと解決できないこともある。」

変に哲学者のような発言をするのも杉三であった。

「言ってみな。信玄餅持って、思いを寄せる女性の下にでも行ったの?」

我慢できなくなった尋一は、時折言葉を詰まらせながら、その顛末を話してみた。

「なるほど。確かに、僕らの世界でも、手彫りは馬鹿にされて、マシーンを使えないと言えば、大笑いされることは多いが、昔の人はどんなに大掛かりな総身彫りも手彫りでしていたんだけどなあ。それに、和彫り自体が馬鹿にされて、サッカー選手がしているような刺青と言われても本当に困るのだけど、それとおんなじと考えればいいか。」

話を聞いた蘭は、自身の経験をもとに言ってみた。尋一はまだ結論が出ない様子だった。

「どこの世界でも、伝統というものは、馬鹿にされる時代になったというわけね。音楽の世界でも同じか。」

「それでへりくだる必要もないと思うぞ。今なんという曲にチャレンジしているんだ。」

不意に杉三がそういった。

「竹生島。」

尋一が答えると、

「誰の竹生島?」

「と、いう事は知っているんですね。僕のは千代田検校の方です。山田流の。」

「確か、琵琶湖の中にある、大きな島の事だったよね。」

「杉ちゃん、答えを外しちゃダメだろう。」

蘭は注意したが、尋一はかまわないという顔だった。

「ええ、そうです。なんでも、島の周りから多数の土器や船の破片などが見つかっているみたいで、古代都市があったのかと思われてもいるようです。」

「それを歌にした曲?」

「弁財天や、島の主に遭遇した時の歌みたいですよ。ユートピアみたいな内容でもあって。」

「トマス・モアの世界?」

「いや、それはわかりません。でも、きっと現実を否定して、理想の世界へ行きたいのだと言いたいことは間違いありません。」

「そうか。頑張って竹生島にたどり着けるよう、努力するんだな。」

「杉ちゃん、その話に何の意味があるんだよ。」

蘭は、内容が理解できないらしく、頭を横に振った。

「当り前だい。流行らないもの同士の話をしたって、解決に向かうことはないだろう。だったらいいところを語り合うほうがよっぽど楽になるんだよ。悪いところをののしりあっても、傷のなめあいをしても、気持ちが楽になることはない。だったら彼の、一番好きなものをたくさん語らせるのが一番いいんだ。」

杉三は、当然のことのようにそういい返した。

「そういうもんなのか。」

「ああ、理論なんて、いつでも役に立つわけじゃないから。」

「そんなのどこで覚えたんだよ。」

「知らない。馬鹿の一つ覚えだ。僕の知っていることは皆、馬鹿の一つ覚えでできているから!」

「本当に、面白いんですね。笑ってしまいますよ。」

尋一が、そう言ってあはは、と笑った。

「よし、それさえできれば大丈夫。じゃあ、これからも竹生島への到着を目指してね。そして、家に帰ったらすぐに、あのサンショク何とかという、かわいい弟に何か食べさせてやりなよ。あの鳥は、青柳教授の話によると、意外に大食漢で、結構大量にご飯を食べるそうだから。」

杉三の励ましは、非常に遠回しなものであるが、尋一も内容を理解したようであった。

「杉ちゃんは、そういう発言はするのに、あの鳥の名前とか種類とかはいつまでも覚えないのが不思議だな。」

蘭がそう言うように、杉三はこれまで一度もサンショクキムネオオハシとしっかり言えたことはなかった。灯台下暗しとはこのことか、そういう哲学的な発言はあっても、具体的な単語などは、ほとんど記憶できないらしい。不思議なものであるが。

「わかりました。僕も、日常生活を大切にして、もっと竹生島の練習に励みます。」

結論と言えばこれなのだが、杉三の言葉からこれを導き出すのは至難の業だ、と蘭は苦笑いした。

「もう二度と落ち込むなよ。」

「わかりました。ありがとうございます。」

「早く帰って、弟にご飯食べさせるんだな。」

「はい。ありがとうございます。本当にありがとうございました。ご丁寧に励ましてくださって。」

「もう一個。謝るのはいつもの半分に、礼はその倍発言することを心掛けろ。そうすれば、少なくとも、そのみずぼらしい容姿からも解放されるよ。」

「はい、わかりました。ごめんな、じゃなくて、ありがとうございます。」

「よし、すぐに行動に移せよ。」

「はい。じゃあ、これで失礼しますから。」

「かわいい弟によろしくな。」

尋一はベンチから立ち上がって、軽く敬礼し、前方に向かって歩いて行った。

「結局のところ、僕らがあげた信玄餅はどうなるんだろうね。」

蘭が思わず口にすると、

「いいんじゃない、成長のためには犠牲がつきもんよ。」

と、杉三も勝手に車いすを動かし始める。蘭は慌ててそのあとについていった。



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