第三章 弟大活躍

第三章 弟大活躍

新山小春の住んでいるマンション、「早川アパート」が、だんだんに空っぽになっていった。理由は様々だけど、遂に今日、隣のおばさんまでもが、東京に住んでいる孫夫婦と一緒にすむことになったと言って、あいさつにやってきたときは、本当に寂しくなるなと思った。

「今までお世話になったから、ほんのお礼よ。」

そう言っておばさんが差し出したのは、東京名物と言われる人形焼きだ。

「ほんのちょっとだけど、食べて頂戴。」

「ありがとうございます。」

小春は、笑顔を作ってそれを受け取る。食べ物をもらうと、確かに困るものではないが、食べたら一瞬で消えてしまうのは寂しい。

「おばさん、東京にいくんでしたよね、人形焼きというと、浅草に住むんですか?」

「違うわよ。浅草なんてうるさいところには住めないわよ。ただ、東京だから、電車に乗ればすぐ出られるということで、孫が買ってきたの。」

そう言えばそうだ。東京だから、例え田舎といわれるところであっても、電車で一時間も乗れば、すぐに都会へ出られる。

「ちなみに西東京市なんだけどね。こことそんなに変わらない街だって、孫は言うけど果たしてそうなのかなあ。」

少なくとも、ここのような山岳地帯ではないと思われる。

「なんだか、綺麗だった富士山も見られなくなっちゃうのか。寂しいな。あたし、田舎者だから、特に寂しくなっちゃう。」

「そうですよね。なんかわかる気がします。」

小春は、少しだけ本音を言えたような気がした。

「寂しいのは同じですよ。右隣も左隣も引っ越してしまうとなると、挨拶する人もいなくなるし。」

「そうよねえ。小春ちゃんみたいに、若い女の子には、そう見えちゃうかもしれないわね。でもね、東京のほうがもっと寂しいかもしれないわよ。東京では、隣に誰が住んでいるのかもわからないほど、近所付き合いがないっていうでしょう。こうして、お土産を持ってくるのだって、迷惑がられて嫌な顔されたり、犯罪のきっかけになることもあるそうだし。」

確かにそうである。変なおせっかいと言われたり、嫌がらせと勘違いされたり、気を使うから嫌だと言われたりすることはざらにある。

「確かに交通網は便利かもしれないけど、私から見たら、それ以外何があるんだろって感じよ。自然はないし、落ち着いて生活できそうにないわよ。まあ、あとは医療が充実しているくらいかしら。まあ、私もさ、足が悪いから、孫に東京に来ないかと言われたんだけど。」

うん、それもそうだ。富士は大きな病院と言えば、すぐに思いつくところは一つか二つしかないだろう。でも、東京は大きな病院もごろごろある。

「それに、難しい病気であってもすぐにみてくれる病院があるというところもいいかな。」

なんだかおばさんは、無理して東京のいいところを探そうとしている感じだ。小春からしてみれば、音楽学校に行ったときに少し住んでいたが、良い演奏会が開催される程度で、自分には東京は合わないなと感じていた。

「そうですね。私も、大学時代だけいましたけど、うるさいし汚いし、嫌でしたよ。」

「小春ちゃんが東京を嫌だというのはちょっと変じゃないの?そのくらいの歳なのに、老けてるわよ。」

と、言われてしまうとなると、やっぱり変なのか。最近では若い人の定義も変わってきているようで、30代ではまだまだ若造と定義する人が多くなった。もちろん、渋谷などに住んでいるギャルと呼ばれる人から見れば、とっくにおばさんになっている歳なのだが。

「そんなこと言うから、いい人も来ないのよ。」

結局これか。なんでみんなそういう事を言うのかな。

「いい人と巡り合って、幸せな家庭を持つこと以外、女の幸せはないわよ。」

日本では若い娘に対して、これを口にする年寄りは多いが、外国ではそうでもないと小春は聞いたことがあった。そのほうがよっぽど斬新だ。女でも、家庭に閉じ込められるのではなく、社会に出て活躍して何か悪いのだ。それでいいじゃない。と、思うのだけど、なかなかこれが実現するのは、遠い将来になりそうな気がする。

「そんな地味な格好してないで、少しはおしゃれして歩いたら、いい人が来るかもよ。」

まあ、確かに彼女は髪を染めてもいないし、化粧もほとんどしていないので、決して美人とは言えないことは確かだ。

「おばさん、本当におせっかい焼きね。大丈夫。あたしが誰かに持てることは、ほとんどないと思うわ。」

おばさんは、そんなんだからダメなんだという顔をした。たぶんあきれてしまっているのだろう。

「まあ、そのうちわかるときが来るわよ。でも、小春ちゃんのバイオリンを聞けなくなっちゃうのは寂しいな。」

このマンションは防音になっていたが、窓を開ければ、音が漏れて聞こえてくるのである。

「ああ、大丈夫です、東京ですから、もっと綺麗な音を出してくれる人はたくさんいると思います。」

小春はそう答えたが、おばさんは不快だったようだ。その微妙な意味は、小春には理解できなかった。

「まあいいわ。明日、引っ越し屋がきてちょっとうるさくなるかもしれないけど、気にしないで頂戴ね。」

「大丈夫です。あたしは、明日音楽教室に一日出ちゃいますので。」

最近の音楽家は、自宅マンションで稽古をすることも多いが、小春はほとんどカルチャーセンターで教えることが多かった。はじめのころは、隣近所の住人に迷惑が掛からないようにと思ってそうしたつもりだったが、今は、そんな配慮はしなくていいと言っていいほど、マンションは空っぽになっている。でも、自宅教室を設けたら、過疎地域と言っても過言ではないマンションに住んでいるのかと、生徒から失笑されるような気もする。

「そうか。じゃあ、今日挨拶にきてよかったのね。これで最後ということになっちゃうもんね。」

おばさんにしてみればそういうことだ。

「くれぐれも体を大事にしてね。若い時に無理ばかりしていると、年を取ってからぼろが出て、何も楽しくなくなるわよ。今は、年を取ってからのほうが、意外に楽しめる道具がたくさんあるんだから、それを使えないのは悲しいことよね。無理は禁物よ。」

「はい、ありがとうございます。」

おせっかいおばさんに、小春は、苦笑いした。

「あと、」

「なんですか。」

「いつか必ず、いい人に巡り合ってね。」

結局それか、と言いたかったが、今は言わないほうがいいなと思った。

「もうそういう年なんだから、運命の人だと思ったら、猪突猛進するような気持で、アピールするのよ。」

「わかりました。イノシシになった気持ちで行きます。」

「よろしい。」

なるほど、恋愛面で言ったら、自分は年寄りにあたるのか。なぜか年齢の定義というのは、各分野によって、大幅に違っているようである。特に女性の場合は一層の事である。

「じゃあ、本当に短い間だったけど、ありがとう。東京は住みにくいかもしれないけど、そなったら、富士山の写真でも見て、頑張るわよ。」

と言っておばさんは、ニコッと笑い、小春の肩を叩いた。

「いつまでもお元気で暮らしてください。」

小春も笑顔で彼女を送ってあげようと思った。

「じゃあ、これで帰るわ。」

おばさんが、玄関先から帰っていくのを見て、小春はなんとも言えない寂しい気持ちになってしまった。

翌日。

小春が、音楽教室から帰ってきたころには、もう真っ暗になっていた。駅から出て、バスに乗って、最寄りのバス停から早川アパートに向かって歩いてくると、灯かりのついている家は非常に少ない。この辺りは、人が住んでいる家などほとんどなくなってしまっている。しかも、高層マンションなのに、早川アパートと名付けられているのもおかしい。その早川アパートが、最も多く人が住んでいると言われているらしいが、自分の住んでいる左隣の家は半年前に出て行ったし、今日、右隣のおばさんも出て行ってしまったんだなと思いながら、アパートに近づいてきたが、確かに、以前はほとんどの部屋が入っていたのに、今は少ししかいないから、アパートは墓石にゴマ粒をかけたように見えてしまうのである。

「いっちゃったか。」

なんとなく、部屋に入るのも躊躇しそうなくらい、入居者数は少なかった。

と、その時。

「ぎー、がー!」

という大きな声と一緒にバタバタという音がして目の前にカラスを一回り大きくしたくらいの鳥が飛んできて、近くの木の枝にとまった。真っ暗な中でもその緑色の巨大な嘴のせいで存在感のわかる鳥であった。

「な、なに、、、。」

小春が一瞬たじろぐと、

「ぎー、がー!」

訴えるように何か言う。脱走というわけではなく、こっちへ来てくれといっているように聞こえたので思わず、

「なあに?」

と聞き返すと、

「ぎー、がー!」

と言いながら前方に飛んでいって、マンションの隣にある小さな家に飛び込んでいった。あれ、隣の家にいつの間にか人が入っていて、その人が飼っているのだろうか、それとも、公園にでも捨てられた鳥が隣の空き家に住み着いてしまったのか?

「待って、どこ行くの!」

こんな鳥が隣の空き家に住み着いてしまったなら、保健所にでも電話しなきゃなと思いながら、小春も隣の一軒家に入ってみた。隣は空き家のはずだから、不法侵入にはならないはずだ。

「あれ、いつの間に、、、。」

小さな家は、灯かりが付いていて、窓が開いていた。おそらくあの鳥はそこから飛び出したのか。と、いう事は飼い主が家の中に住んでいるはずだ。鳥を飼うならしっかり鳥かごに入れるとか何とかしてもらわなければ、倫理的にまずいはずだ。

「すみません、、、。」

と、声をかけても返答はない。その代り、

「あ、、、。」

という細い声と、

「ぎー、がー!」

人間の言葉で言ったら「早く何とかして!」と叫んでいるような例の鳥の声がするのである。

窓に近寄って、そっと開けてみると、狭い部屋の真ん中で一人の男性が座り込んで動けなくなっているのと、例の鳥が、音で言ったらそれこそぎーがーという音でしかないけれど、一生懸命彼なりに助けて助けてと叫んでいるのが見えた。これで何があったかすぐわかった小春は、思わず靴をその場に放り投げ、無理やり窓を開けて部屋に侵入した。ただ事ではないということは、彼が全く振り向かないという事と、鳥が一生懸命床を飛び跳ねて表現していることでわかる。

「大丈夫ですか?病院行ったほうが。もしよければ、」

彼は懇願するように首を横に振る。

「だって、このような状態では、、、。」

と、言いかけると、彼は気を失ってしまったようで、そのまま後ろに転がるように倒れこんでしまった。小春が素早くその体を受け止めたので、頭は打たずに済んだが、一歩間違えば、大変なことになりかねなかった。

「横になります?」

小春は、その体をそっと持ち上げた。たぶん、向こうにあるふすまの奥にあるのが寝室だろうなと直感的に気が付いて、ふすまの方へ歩いていくと、案の定畳の部屋で、布団を敷いてあったから、そっとそこへ彼を寝かせてやった。右手首を持って脈を探すと、平脈だったから、やがて気が付くだろうなと確信した。例の鳥が彼女の後を着いてきて、主人の顔近くにちょこんと座り、その大きな嘴を彼の顔や首に擦り付けた。つついているのかと思ったが、おそらく主人の生存を確認しているのだろうとわかったので、小春は止めなかった。彼の右手指の拇、食指、中指には先のとがった象牙の部品が付いている。小春はそれをすべて丁寧に外した。

それにしても、なんてたくさんの本があるんだろう、と思われるほど、この部屋には大量の本が置かれている。カラーボックスのような本箱には、すべての段にこれらの薄い本が身動きできなさそうなくらい入っている。思わずその一冊を出してみると、箏曲楽譜六段の調という毛筆で書かれたタイトルが真っ先にきて、中を広げればわけのわからない大小の漢数字が、規則正しく配列されている。冒頭にはドイツ音名が13個書かれていて、隣に平調子とも書かれていたので、なるほど、箏の楽譜なのかと理解することができた。そう考えると、お箏教室でもしているのだろうか。その割には、おかしな鳥と同居しているものであるが。

しばらく、その本を眺めていると、あ、あれ、と声がした。

鳥もぎーがーではなく、ちーちーと甘えた声を出している。

「気が付きました?」

急いで声をかけると、彼は自分の右手を高く上げて、驚きの表情でこういうのである。

「ど、どうしてここに、爪をはめていたはずなのに?」

どうやら、ここへ運ばれてきたのに全く気が付かなかったらしい。では、あの時、自分が声をかけたのも気が付かなかったのだろうか?

「よかった。早めに気が付いて!大丈夫だったみたいですね。」

やっと初めて彼と目が会った。

「どうしてこのうちに?」

と、彼が聞く。

「あ、いや、この変な、じゃないかわいい鳥が、」

さすがにこの変な鳥と言ったら、失礼になってしまうが、かわいい鳥というのも何か躊躇してしまう。

「もーさんが?」

「もーさん?」

思わず吹き出したくなる、合致しない名前。と、言いたいのをぐっとこらえる。小春が、道路を歩いていたらこの鳥が飛び出してきて、自分をここへ連れてきたと顛末を話すと、彼は驚いたというか、信じられないような顔をした。

「そうですよ。相当かわいがってたの?その証拠に、あなたが眠っている間、ずっと離れようとしなかったわよ。」

「そうですか。確かに、うちで飼っておりましたが、ここまでしてくれるとは思いませんでした。」

彼はそういって大きなため息をついた。

「その子の顔に出ているわよ。かわいがってあげていること。いくら、見かけがおかしくても、愛情いっぱいの顔はごまかせないわ。」

「そうですか。弟がいるのではないかと言われたこともありました。」

「まさしく弟そのものだわ。人間の弟よりも愛情深いかもしれないわね。でも、うらやましい。だって私は、危ない時にそうやって助けを呼んでくれる動物どころか、人間さえもいないのよ。」

その通りである。自分には生徒ならいるが、まさかこうして助けてくれるような存在はまずいない。隣近所は、みんな引っ越してしまったし、学校の同級生にも悩みを打ち明けられるような人はだれもない。生徒に悩みを打ち明けるなんて、できるはずもないし。

「僕もいないですよ。親もとっくにいないですし、兄弟どころか友人も。」

「何を言っているの。こんなにかわいい弟が、すぐそばにいるのに、贅沢をいうもんじゃないわよ。」

小春も、この鳥を奇妙な鳥であるとは思わなくなった。今は、そういう存在がいて、うらやましいと思うばかりだ。

「もーさんというミスマッチな名前を付けているようだけど、今のあなたは、もーさんに感謝するべきではないの?」

少し語勢を強くして、小春は彼にいった。

「そうですね。すみません。」

「だったら早く態度で示してあげたら!」

小春が、うらやましいのとじれったい気持ちでそういうと、もーさんもそう思っているのか、心配しているのかはわからないが、一生懸命主人の手に大きな嘴をくっつけている。

「もーさんごめんね。」

そう言われると、小春は余計にじれったくなった。

「ごめんねじゃないわよ。弟に助けてもらって、ごめんなさいなんて、そんなお礼の仕方はないわよ。」

「あ、ああ、すみません。ありがとうね。」

彼がその頭と、大きな嘴をなでてやると、人間の言葉で言ったら、いいんだよ、兄ちゃんよく休め、とでも言いたげにもーさんはちーちーと鳴いて答えた。

「さすがにこういう時は、あのぎーがーという鳴き声はしないのね。あたしも、ぎーとがーの二つの音にそんなに深い意味があるとは思わなかったわ。ああいう風にはよくなるの?」

どこが悪いのかはあえて聞かなかった。もしかしたら、癲癇とか、そういうものを持っている人なのかな、と思った程度だった。

「あ、よくあるんです。数分座っていればまた立てるんですけど。」

なるほど、じゃあやっぱりそういうことか。本人が自覚できていれば大丈夫だと小春は思ってしまった。

「ちゃんと自己管理している?」

「あ、あ、すみません。もともと、よくあることで本当に大したことじゃないです。たぶんきっと、もーさん、びっくりしすぎたんじゃないですか。本当にそれだけの事です。」

「そうなのね。それならいいけど、あんまりにもその、癲癇が頻繁にあるのなら、しっかり病院に行くとかして頂戴ね。」

小春は、癲癇と口にしてしまったが、彼は訂正しなかった。

「すみません。ご迷惑をおかけしました。お礼に何か持って行ってくれと言いたいところですが、うちには何もなくて。たぶん冷蔵庫に何か入っていると思うのですけど。」

彼は、そう言って布団から起きようとしたが、

「いいのよ。疲れているんだろうから、休んでいなさいな。そうしないと、もーさんに助けてもらった意味がなくなるわ。」

と、小春はそれを止めて、横にならせてやった。

「すみません、ご親切にしていただいて。もーさんが、助けてくれただけではなく、親切な人まで連れてきてくれたようです。」

「いいのよ。気にしないで。大丈夫だから。もう、夜も遅いんだし、そのまま眠ってしまいなさいな。ああいうものが出るってことは、相当疲れているんだと思うわよ。」

「本当にすみません。あの、せめて、名前だけでも伺っていいですか。何か忘れてはいけない気がするから。」

と、不意に彼が聞くので、

「いいわよ、私は、新山小春。隣のマンションに住んでるの。」

と、小春はにこやかに言った。

「ありがとうございます。意外に近いんですね。」

「あなたは?私だけ聞かないで教えて頂戴よ。」

「森田尋一です。」

「へえ、ずいぶん平凡な名前。あ、そんなこと言ったら、このかわいい弟さんが怒るかな。」

小春はちょっといたずらっぽく言った。その間にも、かわいい弟は、横になっている兄にぴったりとくっついていた。

「まあ、これも何かの縁でしょう。これからよろしくね。」

「はい。」

顔を見合って笑えるとなれば、もう大丈夫だろうと思った。

「仕事があるから、一先ず帰るわ。」

小春は、今度は窓からではなくしっかり玄関から部屋を出て行った。


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