第五章 いざ、竹生島へ!

第五章 いざ、竹生島へ!

今日も、公園の掃除の仕事をして、尋一は自宅に戻ってきた。戻ってくるとばたばたと音がして、もーさんが彼の肩に止まった。

懍が、オオハシをかごの中に閉じ込めるのはあまりよろしくないと指摘したので、仕事に出ている間は、家の中を自由に飛ばせていいことにさせている。しかし、部屋を荒らさないでそのままにしているのもまた珍しい。ということは、やっぱり、大きな嘴であっても、あまり強い鳥ではなさそうである。

下駄を脱いで部屋に入っても、もーさんは肩に止まったままだ。そういえば、オオハシという鳥は、飛ぶ必要がなければ飛ばない主義であるが、飛ぶときは一直線に飛んでくるとも教えられた。

「ちーちー。」

エサをくれろというわけではないらしい。エサなら、テーブルの上に葡萄とかブルーベリーとか饅頭の空き箱に入れておいてある。大食漢な鳥だから、仕事から帰ってくるとすべてなくなっているが、毎朝必ず新しいエサを入れていて、忘れたことは一度もない。

とりあえず、冷蔵庫から、作りだめておいた漬物と、炊飯器に入れっぱなしのご飯を皿にのせてテーブルに置き、食事をした。どうせ、いただきますを言っても何も意味がないことは知っていた。

「ちーちー。」

それじゃだめだ、とでも言いたげなもーさん。

「ごめんね。」

「ちーちー。」

「わかったよ。いただきます。」

「ちーちー。」

よろしい!だろうか。これでやっと箸が取れた。

しかし、ここまで人間にべったりくっついて、離れない動物がいたなんて信じられないことだ。懍の話によれば、学生と一緒にペルーを訪れた時に、レストランで食事をしていたら、野生のオオハシが飛び込んできて、食べていた食事を全部食べられたということもあったという。野生の猿が蜜柑をとっていくのと同じだよと懍は笑っていたが、しかしそのかわいい容姿に心を許してしまう、という心境になる風貌の鳥ではないから、驚きである。

「ちーちー。」

「なんだ、まだ言いたいことがあるのか。」

思わず言ってしまいたくなるほど。食べている漬物を真剣に見つめて大きな嘴を開け閉めしていると、本当に何かしゃべっているように見える。なんだか、俺にはいいものをくれるのに、粗末な食事をするもんじゃないぞ、兄ちゃん。と語り掛けているようである。

「わかったよ。」

通じたのだろうか、その大きな嘴が顔にくっついた。

「お前だけだよ。どんな時でもこうしてくれるのは。」

実はその通りである。今日も、掃除現場で、先輩に怒鳴られてきたばかりである。一度目は、自分では一生懸命掃除したつもりが、まだ足りないと怒鳴られて、一生懸命一か所を掃除していたら、何をやっているんだのろまと怒鳴られる。これが毎日である。つまりどんなに一生懸命掃除しても、先輩のお気に召されたことは一度もない。しまいには、お前、邦楽をやっているようだが、そっちに気をとられていい気になっているなと怒鳴られたことさえある。まあ、そういうことは、多かれ少なかれ若い人であれば言われることであるが、近年はそういう事だけでも精神疾患とか、ひどい場合は自殺の原因になることもある。客観的に言えば、自殺したほうが早く解決するのではないかと言える事態にもなりかねないのが、精神疾患というものだ。それは逆を言えば逃げる手段にもなれる。でも、尋一は、そうはならないと常に頭の中で言い聞かせていなければならなかった。どんなに先輩にひどいことを平気で言われる劣悪な労働現場であっても、頑張って耐えていかないと。なんとしてでも竹生島を演奏しなければならないのだから。自分には、学歴も大した職歴もあるわけでもないから、掃除人として採用されてかえって幸せだ。例えひどい職場であるとか、3Kであるとか、そういう事を言われても、頑張らなければ、そういう事が口癖になっていた。

そんな生活でも、人間だから、寂しいという感情は欠落しなかった。杉三さんはそういえば、それが正常だと言っていたっけ。でも、それを言ったら、他の人は呵々大笑するだろう。そういう事を無理やり押し込めて、ひたすらにつらい仕事に耐え、寂しいなんて忘れてしまうのが正常であるというだろう。結果として、人付き合いが希薄になっていくのであり、自殺とか、あるいは犯罪を引き起こしていると偉い人は言うのだが、現実問題それが改善するということはまずありえない話だ。そして、寂しいなと口に出して言えば、いじめの対象になり、結局解決するにはこの世から消えるほかにない時代になりつつあることを、尋一は感じている。ある歌詞にもあったけど、生ものは後へ進むなんてできはしないから、これからもっとそうなっていくのだろう。そんな世界を生き抜く自信などまるでないが、こういう動物がいれば、多少はできるかもしれなかった。

漬物とご飯だけの粗末な晩御飯を食べ終えて、簡単に皿を洗ってしまえば、あとはもう寛ぐ時間である。テレビのつまらないスポーツ中継と、くだらない政治のニュースが寂しさを忘れさせてくれる。テレビをつけようと、リモコンを手に取ると、壁に貼ったカレンダーが目に入った。ちょうど、今月のおしまいに、赤丸で囲った日。その日が、選挙の投票日と同じくらい彼にとっては重大な日だ。世間で流行りのワールドカップの試合よりも、重大な日だった。もし、これで成功したら、強豪国相手の試合でゴールを決めたのと同じくらい、うれしいのだけれど、、、。そうすれば、先輩に多少怒鳴られても平気になれるのかもしれない。まあ、境遇は改善することはなくても、自分の意識さえ改善できれば、ある程度変われるのは、人間というもので、人間社会というものは、それが集まってできている。だから、変なやつとか、おかしな奴という言葉も出る。一昔前であれば、変な奴が死亡しなくても生きていくことはできたのであるが、今はそういうわけにはいかない時代になりつつある。

そんなことを考えながら、カレンダーから目をそらしてテレビをつけた。この間にも、もーさんは、肩の上に止まったままだった。


その日は、仕事がなかった。だからひたすらに竹生島の練習に打ち込んだ。とにかく生田流時代に身についた悪癖はすべてとる。箏に向かう姿勢、つまるところの座り方から手の位置、体の向き、肘の角度まですべて変える。長年やってきた習慣を変えるというのは、非常に難しく、座ろうと思えばどうしても生田流の座り方をしてしまう。そんな自分が本当にいじらしいというか、もどかしい。それではいけないと言い聞かせても変えるというのは難しく、相当なストレスがかかる。生田流時代の師匠も本当に厳しくて、ミスタッチをすれば、即座に手を叩かれることはざらにあり、師範免許を得るために、洗脳と思われるほど厳しい指導を受けていたから、これを変更することは本当に大変なのだ。仏法に、意識を変えることの大切さが解かれるのは、そういう事から逃れる難しさもあるのだろう。

不意に、玄関のドアを叩く音がした。尋一は、練習を中断して、急いで玄関の方へ行った。

「やっと気が付いたか!」

ドアを開けると杉三と蘭がいた。

「あ、ごめんなさい。つい夢中になって。」

「あんまり暑い中やっていると、熱中症になるよ。部屋の中でも危険だから、気を付けて。」

蘭は心配そうに言う。長時間練習していた証拠に、彼の左手の食指には血豆ができていた。

「だ、大丈夫ですよ、これくらい。」

尋一は笑ってごまかしたが、いつの間にか飛んできたもーさんが足元でちーちーと声をあげたので、

「ほら、弟が嘘ばっかりと言っている。」

と言われてしまった。

「杉三さんどうしたんですか、今日は。」

「うん、陣中見舞いを持ってきた。もうすぐ竹生島に向けて出港だもんな。確か出港は、」

「来週の今日だよ、杉ちゃん。さんざん教えてきたのにもう忘れたの?」

「そうだっけね。最近どうも忘れっぽくなって困るわ。と、いうより、馬鹿はもともと忘れっぽいな。」

杉三は、黒髪の頭をバシンとたたいた。

「だから、その前にせいのつくものを食べてもらいたいと思って持ってきたの!」

「何を持ってきたのか言わなきゃダメでしょう。」

「ああああ、ごめんね。重箱に入れたのになんで忘れるんだろうね。暑いからと思って、ウナギのかば焼きだ。」

そう言って、ひざの上に置いた風呂敷包みを高く上げた。

「ありがとうございます。ここでは何ですから、テーブルに置いておきます。」

尋一は風呂敷包みを受け取って、テーブルの方へもっていった。

「開けてみてくれ。慎重に持ってきたから、たぶん偏ったりはしていないと思うけど。」

「わかりました。」

尋一が風呂敷包みを開くと、豪華な重箱。

「杉ちゃん、なんで与の重まで持ってきた?」

確かにうな重だから、一段だけでいいはずだ。

「あけてみな。」

尋一が重箱を開けてみると、一の重から三の重には見事なウナギ。そして、その下の与の重には、ブラックベリーがぎっちりと入っていた。

「たぶんきっと、本人が努力するだけでなく、弟も一生懸命応援していると思うからな。」

「すみません。わざわざ持ってきてくださって。」

「謝らなくてもいいの!だって、君にとっては人生がかかる大一番になるわけだから、こういう精のつく食べ物を食べないと力が出ないからな。そして、ずっと君を見守ってくれた弟にも感謝!」

「しかし、ウナギのかば焼きを手作りしたなんて、本当に根性があるんだね、杉ちゃんは。普通の人なら、ウナギのかば焼きなんて、作ってみようという気にはならないよね。かえってあきれるよ。」

と、蘭が言うくらい、ウナギのかば焼きというものは、作り方が難しく手間のかかるもので、たぶん、一般の人がトライするのはまずないと思われる。

「誰に作り方を習ったと聞いても、」

「杉三さんの答えは、馬鹿の一つ覚えですか。」

尋一が、加担したので蘭は驚いてしまった。

「二人とも仲良くなっちゃったのか。」

「まあいい。そんなことはどうでもいいや。ウナギのかば焼きを食べて精を付けたら、いざ、竹生島へ!」

「わかりました。じゃあ、冷蔵庫にしまっておいて、少しずつ食べます。」

「ダメ。ウナギは豪快に一度で食べきるの!」

「でも、もったいなくて食べられませんよ。」

「本当に男らしくない男だな。一気に食べきってしまうもんだけど。」

「そんな高級な食材を一度で食べきるなんて、もったいなさすぎます。」

「いいんだよ!こういうときぐらい食べろ!」

丁度、正午を告げる鐘がキンコンカンとなった。

「じゃあ、いただこうかな。」

「ようし、僕らも食べようぜ!」

そこで三人は昼食にした。それぞれの重箱を互いの前に広げて、杉三が持ってきた割りばしで、それぞれうな重を食べた。杉三の作ったウナギのかば焼きは、料理人の味に負けないほどうまかった。

「ちーちー。」

もーさんが、テーブルの上に飛んできた。

「なんだ、ブラックベリーがほしいのか。よし、食べろ。」

杉三が、ブラックベリーを掌に載せると、もーさんはそれを大きな嘴で受け取って、一度ポンと空中に放り投げて、それを改めて取って食べた。

「いちいち放り投げて食べるのがかわいいな。ほら、もう一個。」

杉三がもーさんとそんなやり取りしている間、蘭は、尋一に目配せして、こっちへ来てくれ、といい、隣の部屋へ行った。

「どうしたんですか、蘭さん。」

「来週、習いに行くんだよね。家元の先生に。竹生島持って。」

「ええ。そのつもりです。」

「なんという先生だったっけ?」

「ええ、八田絹代先生です。古典箏曲の世界では、ほぼ頂点に立っていると聞きます。」

「お宅へ直接、伺うの?」

「いや、静岡市内のカルチャーセンターで教えていらっしゃると聞いたので、そこへ行きます。」

「そうか、最近は、そういう人も多いよな。そういう人であれば、意外に寛大かな。じゃあ、あんまり気にしなくてもいいかな、こういう事は。」

「なんですか?蘭さん。」

「いや、余計なおせっかいだったらそれでいいんだが、ちょっと耳の痛い話かもしれないが。」

蘭は、心配そうに言った。

「まあ、刺青はアウトローの世界なので箏曲と比較するほどでもないが、最近ではそうでもなくなっているし、同じ伝統の世界という事だから、言わせてもらう。最近では、刺青師でも、美術大学を卒業して入門するひとも多いんだけどね、その中には、洋画を学んだ人も多い。でも、日本伝統刺青というのは、多かれ少なかれ日本画の知識が必要になる。本来は、日本画を学んだほうが有利だから、洋画をやっていた人は、どうしても排除される傾向があるんだよ。浅草の偉い刺青師さんなんかは、洋画を学んだ人の入門は認めないとか、日本に興味がある外国人を弟子入りさせないことも珍しくないんだ。幸い、僕の学んだ師匠は、ベルリンにすんでいたので、洋画を学んだ人にも寛大であったが、日本国内では、そういう師匠のほうが多いと聞いている。だから、君みたいな、脱退者が果たして家元の先生に、受け入れてもらえるかどうかが心配なんだ。君も、その不安があるんじゃないかなあ。」

「そうですね。不安は確かにありますけど、でも、そういうものだとある程度は覚悟していますので、何とかいってみます。」

尋一は静かに答えた。

「本当に、大丈夫なのかい。伝統の世界というのは、脱退者を排除するという傾向は本当に強いからね。やっぱり、寛大な師匠だったらいいんだけど、僕らの世界でも、和彫りを習いたくても、洋画出身者であれば、入門させてもらないで、仕方なく洋彫りにいってしまう人もざらにいる。アメリカンタトゥーがはやるのは、そういう事情もあるんだよ、和彫りをしっかりやる人がいないから。古典箏曲もそうじゃないかな。どんなに、習いたいという熱意があっても、師匠側が受け入れようとしないから、後継者ができないという。」

「そうですよね。そういうことは、僕もしっています。だからこそ、習いにいきたいなと思うんです。」

「そうなると、半端な気持ちではないということだね。」

「ええ、それだけは自覚してます。」

「そうかあ。じゃあ、僕の心配は余計なおせっかいだったかな。」

「蘭さんの心配もわかりますけど、それを考えていてはいけませんので。」

「勇敢だねえ。感心する。」

「ええ、古典を何とかするためには、欠かせない問題だとは思いますが、それを恐れていては、何も始まりませんので。」

ちょっと苦笑を浮かべて尋一はそういった。

「そうか。本当に心配だった。君がそのあたりを全く知らなかったら、どうしようと思ってたよ。」

「まあ、日本の伝統はどこでもそうですよ。正当なものを学ぼうとすればするほど、かえって敷居が高くなって。僕たちが気軽に手を出せるのは、蘭さんが言った通り、海外から来たものが混ざっていないとできないですよね。でも、それじゃいけませんから。半端な気持ちではないと伝えれば、何とかして学ぶことにこぎつけるのではないかなと思っています。」

「そうか。師匠が、そういう事をしっかり受け入れてくれる人であることを願うよ。」

「ありがとうございます。絹代先生に習いたいあまりに、生田流からも脱退してしまいましたし、もう後戻りはできないと思います。だから来週必ず行きますよ。話が変わってしまって、申し訳ないですが、僕からもお願いがあるんですけど。」

「何?どうしたの?」

蘭は、急いで聞き返した。

「実は、カルチャーセンターから電話があって、一応稽古時間は12時から4時まで設けられているそうなんですが、初めての人は三時からという決まりがあるそうなんです。四時まで稽古して、静岡から帰ってくるとなると、遅くなってしまうので、もーさん、どこかで預かってもらえないかなと。稽古場が駅からかなり離れていて、一時間近くかかるらしいですし、そこから電車で富士へ帰ってきて、またここまで帰ってくるにも時間がかかるし。」

「そうか。ペットホテルにでも預ければ?」

「どこにあるんですか?」

「あ、タブレット持ってくればよかったね。」

「いいじゃん、うちで預かれば。」

不意に、声がした。そして、ふすまが乱暴に開いて、杉三が姿を見せた。

「杉ちゃん、今の話聞こえてたの?」

「当り前だい。全部丸聞こえだった。蘭、このお宅には防音設備なんてないみたいだな。」

「ほんとに、耳ざといな。」

杉三の肩にはもーさんが止まっている。

「いいよ、もーさんはうちで預かるよ。頑張って竹生島に行って来いや。」

「簡単に言わないでくれよ。あのぎーがーという声が染みついたら、お客さんに迷惑が。」

「蘭のうちじゃなくて、僕の家だからいいだろ。」

「だけど、あのでかい声は、800メートル離れたところでも聞こえるぞ。」

「でも尾長よりはましだろ。それに、ぎーがーとは、危ない時とか、そういうときじゃないと出さないと青柳教授が言ってたよ。」

確かに、尾長の汚い声よりはましと言える。尾長も同じだけど、鳥が汚い声を出すのは警戒音声で、敵が近づいたとか、すごい大雨が降るとか、そういう危ないことが怒らないと出ない。

「だったら製鉄所に連れて行けば?あの酷い声はちょっと出されると困るので。」

「蘭、それ、すごい偏見だぜ。そういう考えをしているから、ぎーがーと鳴かれるんじゃないのか。大事なのはぎーがーと鳴かないように僕らが何とかすることだと思うよ。」

「杉ちゃんにそういわれちゃおしまいだ。わかったよ。じゃあ、僕らで一日世話をするか。」

「そうそう、遠慮しなくていいよ。これから、頻繁に稽古に行くようなったら、いつでも連れてきなね。」

「すみません、こんないいもの食べさせてもらっただけでなく、何から何まで。お願いしてもいいですか?」

尋一が、今一度聞くと、

「いいってことよ。すみませんではなく、ありがとうと言いな。じゃあ、来週、うちへ連れてきてね。竹生島に向かっていざ出港だね!」

杉三はにこやかに笑ってそう答えた。





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