第6話 黄昏が終わる頃

 ひぐらしも鳴き終わる頃、ノンジは街外れの湖のほとりを訪れていた。

 湖には大きな白い月が浮かび、ゆらゆらと揺れている。

 桟橋というには短すぎる場所を足場に、椅子に座って竿から糸を下ろし、水面を見つめるアラガネを、ノンジは無言でただ見つめていた。


 ――バシャッ。


 水面が揺れ、月がぐにゃりとふやけ、その瞬間にアラガネの手が魚を掴んでいた。

 視線の端にノンジを捉えたのだろう、アラガネは彼に気付いた様子で振り返った。


「驚いたな」


 芝居ではなく、心底驚いたという顔だった。


「約束通り夢の本を貰うよ。アラガネ」


 アラガネは桟橋から降り、ノンジの元へ歩み寄る。


「声がガラガラしているが、少し早い声変わりかな」


 ノンジは咳払いをした。


「大声を出したからね」


 アラガネはノンジの肩にポンと手を置いて、歩き出した。行く先を見ると、テントと焚火があった。こちらに来いという事であると察し、ノンジはアラガネに続いた。

 焚火の近くにあった背の高い石に腰掛け、しばらく火を見ていたノンジだったが、アラガネは本を持ってくる気配がなかった。そこで急かすほどノンジはもう急いではいなかった。


「ほら」


 アラガネが渡してきたのは本ではなく、今焼けたと思われる魚だった。

 ノンジは差し出された焼き魚を手にして、アラガネを見た。


「腹が減っているだろう」

「有難う」


 そう。お腹が減っていた。ノンジは焼き魚を食べた。ホクホクと柔らかい身を嚥下すると、それが食道から胃へと落ちていくのが分かった。それほどに温かかった。熱が内側から伝わってくるのだ。そうして自分の体がとてつもなく冷えている事を遅まきに知った。夏場では味わった事のない寒気に襲われ、ブルブルと震えた。ノンジが身を縮こまらせ震えていると、不意に肩にふわりとした布を掛けられた。


「ブランケットだ。テントから引っ張り出してきたから少し埃っぽいが、我慢できるなら使うと良い」


 ブランケットを掛け直し、焚火の近くに座り直し、魚を食べた。

 顔もお腹も背中も暖かかった。

 空腹が満たされ、体が温まったら、緊張が解けたのか涙がボロボロと流れ落ちた。

 不意打ちを食らったノンジはアラガネに気付かれぬようそっぽを向いて、涙を拭った。


「どうしたんだい」

「いや、なんでもない」


 上擦った声で返すので、アラガネはノンジが涙をこらえているのだという事を悟ったようだった。


「確かにまあ、俺には泣き落としは通用しないとは言ったがね。泣くなとは言っていないだろう?」


 ノンジは額を膝に当てたままアラガネの話を聞くでもなく聞いた。


「大人だって泣く時はある。今まで培ってきた不幸をってしても乗り越えられない不幸に直面して、泣かざるを得ない時がある。相手に自分の言う事を聞かせる為に泣いたりする奴は子供であれ大人であれ卑怯で卑劣で愚かしいと思うし、大嫌いだが、君の今の行為はそうではなかろう? 可哀想だから慰めてくれというものではない。ただただ只管ひたすらに激しく辛くて悲しくて苦しいのだ。泣かざるを得まいよ」


 アラガネに言われるまま、声を出して泣いた。

 泣きながら見上げた満天の星空に浮かぶ白い月は恐ろしいほど美しく、聞き上手な聖母めいていて、彼女になら何でも話せるという錯覚すらあった。


 どこか遠くで犬の遠吠えが聞こえて、それが終わる頃にはノンジも泣き止んでいた。

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