第5話 夕立


 家に帰ると、父親は座椅子に腰掛け、本を読んでいた。夢の本ではない。


「お父さん。昨日は我儘わがまま言って御免なさい」

「ああ、お父さんも怒って悪かった」

「読書の最中に言ったら迷惑かも知れないけれど、一緒にハイキングに行かない?」

「行こう。用意をするからちょっと待っていてくれ」


 父は微笑んで本をぱたんと閉じた。


 それから二人はハイキングの用意をして、家を出た。

 玄関を出て空を見上げると、ハイキングに相応しい青色が広がっていた。

 高い蒼穹は二人を飲み込みそうなほどだった。


 二人は会話もまばらに、近くの山まで歩いて行く。標高はそれほど高くなく、子供の足でも頂上まで1時間もかからない山だった。この街が観光地であれば、それなりの入山者も見込めただろうが、あいにく観光地でもなんでもないこの街で、山登りをしようという人間は稀だった。それがノンジには都合が良かった。

 山のふもとは木々が生い茂っており、道も舗装されていない、雑木林のような場所だ。泥濘でいねいに足を取られないよう、注意しながら歩いて行く。しばらく歩いて行くと道らしい道に出た。舗装ほそうと言うよりは踏み固められたと言った方が正しい道ではあったが、足を取られる心配がない場所だった。


 父親は一息ついて木の根に腰掛けた。

 日差しは強かったが、木の枝が影を作り、頂上から降りてくる風が涼しさを運んでいた。


「少し、風が冷たすぎるな。夕立が来るかもしれない」


 その父の言葉に誘われたかのように、暗雲が立ち込める。

 父親は水筒の蓋をあけ、コップにお茶を注ぎ、立ったままのノンジに差し出した。


咽喉のど、渇いただろう?」


 父の言葉への返事は鋭い白い光だった。

 ノンジは両の手でがっちり掴んだナイフを父の腹に深々と刺し込んでいた。

 衝撃で父はお茶をコップごと零した。

 カランカランと乾いた音が響いた。

 彼の目には父の顔は映っていなかった。

 ただ目の前の白いシャツがじわじわと赤色に染まって行くことだけが、彼の認識している全てだった。音も聞こえない。自分が呼吸しているのかもわからない。ただ赤い。赤い。

 彼にはそれだけが見えていた。


 ふと頭に軟らかな感触があり、ビクッとして我に返った。その感触は父の手だった。

 父が愛おしむ様にノンジの頭を撫でている。

 音が戻ってくる。遠くから、川のせせらぎが、木のざわめきが、鳥のさえずりが、虫の鳴き声が、戻ってくる。それらが耳元で一斉に鳴ったとき、彼の体中から汗がドッと噴き出た。


「ごめ……なあ……」


 吹かれれば消えてしまいそうな声が父親の唇から発せられる。


「そ……だ……よなあ……、が、が……が」


 父親が何を言おうとしているのか耳を傾けた。


「がんばれ、よ」


 今、目の前でまさに自分を殺そうとしている人間を父は励ましていた。同時に、突き飛ばしていた。

 何が起こったのかわからず、放心状態で尻餅をくノンジ。


 父親は腹に刺さったナイフを引き抜き、大きく息を吐いた。更に大きく息を吸い、呼吸を止めると、ドボドボと血を溢れさせる腹を目掛け、もう一度ナイフを刺し込んだ。


「ま、まって! お父さん! お父さん死んじゃう! 死んじゃうからやめて!」


 ノンジの言葉は届いているはずだったが、それでも父親の手は止まらず、腰の付け根から肺の辺りに掛けて思い切り縦に引き裂いた。


 立ち上がって父親の元に走るが、腰を抜かしていたノンジはそのまま父親の前に倒れる。


「ごぼぁっ!」


 父は倒れたノンジに血が掛からないように首を背け、吐血し、絶命した。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 ノンジの叫びと呼応するように雷鳴が鳴り響き、豪雨が彼と父を不条理に叩きつけた。

 鳴り止まぬ雷鳴と降りやまぬ豪雨の中、ノンジはただ叫び続けた。

 己の後悔を自分に知られぬ様に。

 決心を揺るがさぬ様に。


 ノンジはいつの間にか叫ぶのをやめ、ショベルで穴を掘っていた。

 その穴に父親を埋め、土を掛けていく。

 もう生命が宿っていないむくろでもなぜだか顔には掛けられず、その部分だけが最後まで残った。後はそこに掛けるだけだという時、一瞬手を止め、少年は掠れ声で呟く様に言った。


「お父さん。僕は咽喉が渇いていたわけじゃあないんだ。ただ、お腹が空いていただけなんだ」

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