5・金曜

 次の日の朝、やはり木下は夜をすっ飛ばして、五階のエレベーターホールへと舞い戻っていた。

 キラキラと眩しい朝日は、そんな彼を皮肉って笑っているようだ。出勤する社員、朝のニュース、いつもの光景。

 今日は金曜日、家に帰れぬまま、週末を迎えてしまった。

 こう何日も続くと、だんだん、諦めに変わってくる。もしかしたら、自分はこのまま、会社から帰ることなど出来ないのではないかと、嫌になるほど思い知らされたからだ。

 木下の手には、今日もぎっしり詰まった弁当が引っ提げられていた。どうやら、こんな状況になっても、愛子はいつもと変わらず、弁当を寄越したらしい。まだ、自分に対する愛が残っているのではないのかと、期待してしまう。彼女を離婚まで追い込んでしまったのは、どうやら自分らしいのだが……。

 いつもの缶珈琲を買い、いつものように飲み干す。缶を捨てた後、そっと内ポケットに触れると、何かがある。──紙、封筒だ。


(離婚届……?)


 なんとしてでも確認せねば。だが、迂闊うかつに見れば、社内中に噂が広まってしまう。

 木下は弁当を握り締めたまま、一目散に屋上へ駆け上った。

 朝の屋上は、涼やかな風が吹き、昼間と違って空気もよかった。既に太陽は高かったが、雲に遮られてか、まだ熱いとは感じない。眼下に広がるビル群は、朝日を受けて、昼間とはまた違ったコントラストを浮かび上がらせている。

 取水塔の真下で、木下はしゃがみ込み、弁当をかたわらに置くと、そそくさと内ポケットから封筒を出した。

 区役所の茶封筒に入ったそれは、先日確認したのと同じ、白地に緑色の印刷で、確かに「離婚届」とある。更にその詳細を確認──、名前、住所、本籍地、子の名前、書名欄……。読み進めていくうちに、体中の血がどんどん逆流していった。激しい動悸に襲われ、涼しい風が吹いているはずなのに、だらだらと汗がしたたり落ちた。何故だか、紙を持つ手が自然と震え、証人欄を確認しようと更に用紙を広げるときに、グシャッとシワをつけてしまう。


「俺の……俺の字だ……。間違いない。俺が、書いている。俺の知らないうちに、俺が書いて、俺の実印を押している……。嘘だ……、嘘だ……」


 額から湯気が出ているようだ。木下は、興奮して真っ赤な茹蛸ゆでだこになっていた。息が荒く、血管が浮かび上がる。

 ぐしゃん、と、両手で届出用紙を挟み込んだ。合掌する形で、しばらく目を閉じ、眉間にシワを寄せながらも自我を保とうと必死に息を整える。ふうー、ふうー、ふうー、数回深く息をして、ゆっくりと目を開ける。


「これから仕事だ……、落ち着け、落ち着くんだ……」


 木下は、手元の白い紙を、折り目どおりにしっかりと折り直し、封筒に入れて懐にしまった。

 まだ、胸は高鳴ったまま。

 彼は出来るだけ平静を保ちながら、営業一課へと向かった。事務机に辿り着く頃には、顔の赤みも落ち着き、いつもの木下へと戻っていた。机の上に書類を並べ、今日の営業の準備をする。朝礼、ミーティング。彼は何事もなかったかのように仕事を続ける。

 それでも、見ている人はきちんと見ているものだ。


「木下係長、ちょっと、いいか……?」


 一課の課長、島田が、木下に声をかけた。丁度、田中と一緒に外回りに行こうと営業鞄を持ち上げた時だ。

 木下はそのまま鞄を机の下に置き、島田に呼ばれるままに、一課の応接間へと通された。

 一瞬事務室内が騒然とするが、木下の耳にそんな様子は届かない。

 六畳ほどの室内に応接セット。島田にうながされ、木下はソファーに腰掛けた。


「何か、あったのかね」


 島田は太い声で、彼に尋ねた。


「あ、いや、大したことでは……」


 木下は恐縮した。

 島田は、木下夫妻の仲人でもあった。愛子が社にいるときから、色々お世話になっていた。彼の前では、木下は気の小さい、新入社員のようになってしまう。どうにも頭の上がらない相手。


「近頃、仕事に身が入っていないようだ。同行の田中も、お前のことを気にかけていたぞ、何かあるみたいだってな」


 恰幅のよい島田は、バーコードになりかけた頭をぐいと正面の木下に寄せて、


「なに、遠慮することはない。お前が何かを思いつめているのはすぐにわかる。隠しているつもりだろうが、バレバレだ」


 大きな顔一杯ににんまりと笑って見せる。

 島田の笑顔に負けて、木下は強張っていた肩を少し、ほぐした。


「実は……」


 木下は震える右手で、懐から封筒を取り出し、目の前に座る島田に差し出す。


「愛子から、渡されまして……」


 弱々しく出された封筒をさっと取り、島田は中身を改めた。白地に緑色の印刷、「離婚届」の文字を見ると、彼は目を大きく見開いた。

 木下は溜めていた思いを晴らすかのように、顔中に涙を浮かべて、テーブルに手と額を付いた。  


「仲を取り持ってくださった課長には、お詫びのしようもございません……! しかも、家庭の事情で、仕事にも支障をきたすなど、もってのほか──」


「よしよし、話はわかった。頭を、頭を上げなさい」


 ぽんぽんと、島田に肩を叩かれ、木下はゆっくりと頭を上げた。


「原因は、何だね。去年、息子が生まれたばかりじゃないか。これからという時に、愛子君がこんなものを寄越すとは、余程の事情だろう?」


 震える木下に、島田はあくまでも優しく問いかける。


「それが……、私にも、わからないんです」


 木下はそういうのが精一杯だった。


「わからないって、そりゃ君、おかしいよ。わからないのに離婚届なんて。第一、君のサインもある。わからないじゃ済まされないだろう」


「ところが、わからないんですよ。本当に、わからないんです。いきなり愛子が、こんなものを。それに、私の字で確かに書いてあるけれども、これは私が書いたんじゃありません。覚えがないんです。今週は、ずっと、家にだって帰ってないのに……」


 島田はとうとうムッとし出した。木下の言っていることは、どうも辻褄つじつまが合わないのだ。


「木下君、私はね、君の真っ直ぐなところが好きだ。自分の主張は曲げない、責任感もある。だが、今の君の発言はいただけないな。矛盾だらけだ。君の字なのに、君が書いてないとは一体、どういうことだね。家に帰ってない? そんなはずはない。君が毎日持ってくるのは、愛子君の愛妻弁当じゃないのかい? 家に帰らず、どうやって弁当を持ってくるんだね?」


 勢いに押され、木下は肩をすくめて身を引いた。

 島田が怒るのは当たり前だ。自分だって理解できていないのに、木下はその状況を暴露してしまったんだから。


「か、課長、私は嘘なんかついていません。本当なんですよ。嘘じゃない。毎日、帰ろうしても、帰られないんです。家に帰って、離婚届にサインしたのは、私じゃない。私かもしれないけど、違うんです」


 木下は、おどおどしながらも、必死に訴えた。課長に信じてもらえなければ、後は誰を頼ればいいんだ、という思いがあった。何とかして、自分の今おかれている状況を理解してくれる人が欲しい、その一心で、島田に訴えかけた。

 だが、島田は、そんな木下の気持ちを知らず──、すっくと立ち上がり、こう漏らす。


「木下君、今日はもういい。君に必要なのは、私じゃない。精神科の医師だよ」


 島田の言葉は、木下を打ちのめした。

 真っ暗な闇の中に放り投げられ、前後不覚のまま、ぐるぐると旋回していく。身体が硬直し、カタカタと壊れたロボットのように震えだした。涙が止め処なく流れ、汗と混じり、鼻水と混じり、顔中を濡らす。


(精神科……、違う、俺は、間違ったことなど、喋ってないのに……)

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