4・水曜・夕方〜木曜・昼

 愛子の言葉どおり、ジャケットの内ポケットから区役所の封筒に入った書類が出てきた。

 薄い白い紙に、緑色の印刷──左上部に「離婚届」の文字。

 突きつけられた現実、だが、実感が湧かない。


(もういちど、何が起きているのか、整理してみよう。俺の周りで、ここ数日起こった出来事を)


 残業で一人残った事務室、机に裏の白いコピー用紙を数枚広げ、木下はボールペンで箇条書きにこれまでのことを綴り始めた。

 夕焼けがオフィス街のビルに当たり、乱反射して色を強め、強いオレンジ色になって営業一課の事務室を包んでいた。長く伸びた木下の影が、哀愁を漂わせて床に伸びる。冷房を切った室内、全開した窓から生ぬるい風がどっと吹き寄せると、重石の乗った書類の束がカサカサとわびしく音を立てる。


(まず、最初に異変があった、あの日──月曜日だ。俺は間違いなく、エレベーターで一階まで下りたんだ)


 カリカリとボールペンの走る音が室内に響く。


(気がつくと、朝になっていた。俺は五階のエレベーターホールにいた)


(その夜、田中と飲みに行くはずだった。でも、俺は行ってない。なのに、二日酔いしていた)


(朝帰りして、愛子が怒っていたらしい。でも、俺は知らない)


(昼に電話したら、いきなり離婚の話になった。でも、理由がわからない)


 そこまで書くと、木下はボールペンから手を離した。コロコロコロと、ペンは机の端まで転がり……、落ちた。

 両手で頭を抱え、もしゃもしゃと整った髪の毛を掻き毟る。木下の中で、嫌な予感は、得体の知れないものに突き当たってしまった恐怖へと変わりつつあった。ぞわっと、悪寒が走り、足が地面から浮くような感覚。全身から汗が噴出し、喉が枯れた。見開いた目に、メモの字が襲い掛かってくる。


(俺じゃない。誰かが、俺の知らないうちに、俺の振りをして生活してるのか?)


 そう、思わずにはいられなかった。だが、


(それじゃ、どうして俺は今朝、二日酔いを? やっぱり、ただ、酔っ払っていただけなのか?)


 ぐるぐると思考がめぐる。

 木下は震え上がった。今日もまた、帰られないのではないか、エレベーターに乗れば、やはり次の日の朝になっていて、それまでのことを覚えていないのではないか。


(何てことだ……!)


 ぐしゃぐしゃぐしゃっと、もう一度頭を掻き毟る。すると、木下に一つの考えが浮かんだ。


(そうだ、エレベーターなんかで下りるからいけないんだ。階段だ、階段を使えばいいじゃないか。そうしたら、あんなことにはならないはずだ……!)


 思い立ったら、やらずにはいられない。

 木下は机のメモを引き出しにしまい、鍵をかけ、机の上をまっさらにすると、空の弁当箱を持って廊下へ飛び出した。

 エレベーター脇の階段を一気に下る。だっだっだっだと、勢いよく、リズムをつけて、下る、下る。


(大丈夫、階段なら、行ける、帰れる)


 木下は期待に胸弾ませてどんどん下りた。帰りたい、ただ一心で。

 三階……二階……一階……。


(ほら、あとは正面玄関へ──)


「あれ、係長、今日は階段使ったんですか?」


 はぁはぁと息を吐く間もなく、田中の声に顔を上げた。

 白く優しい日差し。朝のニュース、事務室へ向かう人の波。

 木下は、がっくりと膝を落とした。


(また……まただ。帰れなかった)


 右手に持っている弁当箱、ひょいと上げると、重かった。


(でも、俺はやっぱり、家に帰っていたのか──?)


「駄目ですよ、階段で来たくらいで息切らしてちゃ。営業は足が勝負、そう言ってたじゃないですか」


 にこやかに「それじゃお先に」と事務室へ去っていく田中の背中。

 木下は壁を頼ってやっと立ち上がり、いつものように自販機に向かう。珈琲をひとつ。ぐいぐいと飲む。


(俺の、貴重な時間は、一体、どこに消えてしまったんだ。どうしてこんなことに……?)


 カランカラン、くずかごに缶を捨てる。

 着替えたスーツ、キッチリ剃ってある髭、セットした髪、愛妻弁当。どれも、家に帰らないと手に入らないものばかり。木下に記憶がなくても、間違いなく、木下の身体は、帰宅しているのだ。



 昼休みに、屋上で愛子に電話する。

 腑に落ちないことだらけで、そして、自分が原因でなぜか離婚することになってしまったことが不可解で、仕事どころではなかったのだ。

 電話口の愛子はぶっきらぼうにこう言った。


『今の時間は忙しいって、言ったじゃない。私だって、初めての育児で大変なのよ。わかっていて電話するの?』


 やはり、息子の勇人は泣いているようだ。しかし、木下だって差し迫っていた。


「悪いと思ってる。だけど、ちゃんと話をしておきたくて」


『話は、昨日帰ったときにしました。夜中まで長々と。あなただって、離婚届にしっかり署名捺印してよこしたじゃない。私、親に証人欄書いてもらって、今日区役所に出しに行くつもりだから』


「え、なんだって?!」


 寝耳に水もいいところ。なんと、自分が署名に捺印までしていたという。もちろん、木下にその記憶はない。

 懐をまさぐれば、確かに昨日は内ポケットにあったはずの封筒がない。


「ちょっと、ちょっと待って。役所に行く前に、もう一度、書類を見せてくれ。頼む」


 覚えがないのに、離婚されては一溜まりもない。木下は必死に頼み込んだ。愛子は仕方なく、明日の朝、木下の上着の内ポケットに書類を入れておくことを了承する。代わりに、木下自身がその届けを区役所に持っていくという条件付で。

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