第14話

 

 ウーレン王族の血……。

 それは、砂漠を剣の力で支配する勇ましい魔族の血。

 混血を重ねてきたミラの血は、既にウーレンの血とはいえない。しかし、シルヴァーンは眠れる血の中に、その血を見たというのだ。

 たしかに、ミラはリューマ族にしては色白で、髪も赤茶けている。これで赤い瞳と尖った耳に飾り毛でも持てば、見た目はウーレン族に見えるだろう。


 しかし、うれしかったのは、血のことなどではない。

 美しいと言ってくれたことだ。

 それは外見の美しさではない。

 ミラの内側の奥底に眠っているもののことだった。


 シルヴァーンの腕はささえる以上のことをせず、ミラをそっとベッドに座らせる。

 ミラを美しいと……救いたいと言いながら、愛していると言ってはくれない。自らそれ以上手を伸ばしてはくれない。

 それが、ミラを助けてから一貫した彼の態度なのだ。

 そこを一歩、一歩でいいから歩み寄ってほしかった。言葉を証明するように、強く抱きしめてほしかった。

 ミラが切なそうにシルヴァーンを見つめた時、二人の間を白いものがよぎった。

 見つめあった目線が途切れる。

 彼の目は白いものを追い、ミラの目は彼が追っているものを追う。

 蝶だ。

 いつの間に迷い込んだのだろう? おそらく、グリンティアが出て行った時だろうか?

 いつまでもひらひらと、ふたりの間を舞う。無視しようと思っても、シルヴァーンの目は、自然に追ってしまうらしい。やがて蝶は高く舞い上がっていった。

「まるであなたのようだ」

 シルヴァーンが目で追うのを諦めて呟いた。

 ミラから手を離した瞬間に、蝶はふたたび舞い降りて、シルヴァーンの手の甲に止まった。

「禁断の世界に迷い込んで、そうとも知らずに捕まえてくれといわんばかり」

 彼は再び蝶を見つめながら、独り言のように呟いた。

 ミラは、ぼうっとシルヴァーンの手の甲を見ていた。蝶はかすかに羽を広げ、今にも飛び立ち、逃げるかのようなそぶりをしている。

 瞬間、シルヴァーンの手が返った。蝶はあっという間に、シルヴァーンの手の中に消えてしまった。

「きゃ!」

 ミラは短い悲鳴をあげて、両手で口を抑えた。

 蝶を握りしめた拳のままに、シルヴァーンは自嘲的に微笑んだ。

「蝶に狭い家の中は似合わない。ましてや、手の中など…… 」

 そういうと、彼は窓辺に向かった。

 あふれる光の中、彼の髪は七色に彩られ、胸が締め付けられるほど美しかった。思えば、ミラはあまり日の中で彼を見たことがない。彼は日中、常に出かけていた。

 開け放たれた窓に向かい、彼は手を開いた。

 蝶はひらひらと舞い上がり、外の世界へと消えていった。

 

 シルヴァーンはしばらくそのまま外を見つめていた。

 飛び去ってゆく蝶を見送っていたのだろう。立ち姿は凛としているが、横顔はどこかさびしげに見えた。

 やがて彼は、無言のままに歩き出し、そのまま扉に手をかけた。

「! ま、まって!」

 ミラはあわててベッドから立ち上がったが、彼の姿は止まることなく、扉の向こうに消え去ってしまった。

 このまま彼を見失ったら、もうきっと見つけることはできない。

 ミラは動かぬ足で走った。信じられないほど、速く走れた。扉に飛びつき、こじ開けるようにして、扉を開いた。

「私は蝶なんかじゃないわ!」

 追いつかないことはわかっている。だから、張り裂けんばかりの声で叫んだ。

 彼はふりむき、立ち止まった。

 ミラは、ほっとして彼のもとへと走りよろうとした。しかし、階段を駆け下りるほどに足は自由がきかなかった。

 体が一瞬軽くなった。次の瞬間、世界が回って地と空が逆転した。

 肩から地面に叩きつけられ、吐きそうなくらいの衝撃が走った。上手く受身ができたのか、息がつまったくらいで打撲以外のけがはなかったが、すぐには起き上がれなかった。

「あなたという人は!」

 一瞬の差で、階段から落ちたミラを受け取りそこねたシルヴァーンが、ミラを助け起こして叫んだ。いかにも悔しそうに、彼はミラの髪についた落ち葉を払らった。

「あなたが勝手に私のことを決めつけるからよ! 怖くて不安なのは事実よ! でも……」

 ミラは、顔についた泥もそのままに、興奮して叫んだ。

「私はあなたを望んだわ! あなたは私に何を望むの?」

 ミラは、シルヴァーンの瞳をのぞく。

 苦悩を驚きに変えてゆく様子が、あまりにも鮮やかで、新鮮な驚きを感じる。


 この人は……こんなに純真な人だったのだろうか? 


 温和な態度に似合わない冷たい瞳。それは、彼の自制心の表れだった。

 迷い人を迷わせず、自由な世界へ帰すため。蝶を自らの手で握りつぶさない優しさ。

 でも、ミラはここを選んだ。

 さ迷う森で、初めて自分の居場所を見つけたように、ミラはシルヴァーンの胸の中に身をうずめた。彼の服を汚しても、そうしたいと思った。昨夜と同じ木の香がする。

「……今日は風の色がきれいだから……」

 耳元で囁かれた言葉は、少し意外な内容だった。

 ミラはふっとシルヴァーンを見上げる。やや、はにかんだような切れのない言葉のせいか、彼は少し紅潮して見えた。

「実は、あなたを迎えに戻ったのです。一緒に風を見たくなって……」

 それが望み。なんと素朴な願いなのだろう?

 ミラは再びシルヴァーンの胸に顔をうずめる。心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。

 グリンティアのいう『余計な心労』とは、このようなことをいうのだろう。


 美しい風の色。風の音。

 さわさわとそよぐ。

それは、体の中に血が巡る音。

 この森の世界が、まるで自分自身と同化していくような感覚を、ミラは味わっていた。

 風に……緑に……目に映るすべてのものに、ミラの存在を映し出す。

 移りゆくすべてのものが、ミラの残像とともにある。

 それが、シルヴァーンの心を占めていたこと。ミラは手にとるように感じた。

 わずかに残るウーレンの尊い血が彼の心を読んだのかもしれない。


 ――愛されているのだ。

 そう確信した。

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