春うららかに・8


 ――カイトのヤツを見ただろ? あれは、俺の若い頃そっくりだ。

 あれが、俺のかわりにリリィを守ってくれるしよ。


 カシュのがはは……という笑い声が、だんだんか細くなり、くすくすと響く。

 エリザは、胸が締め付けられて、呼吸ができなかった。

 このまま硬直して、死んでしまいそうだった。

 何度も何度も胸をかきむしり……。



「エリザ! エリザ!」

 軽く頬を叩かれて、やっと目覚めることができた。

 ほっと息をつく。

「う……わ、私?」

 さらりと掛かる銀の髪。その向こうで、銀の瞳が柔らかく輝いた。

「二日酔いだよ。飲み慣れない酒を、あんなに飲むんだから」

 サリサが水を差し出した。が、エリザに手渡すかどうか、躊躇したあげく、自分で水を口に含み、口移しした。

 ちょっぴり甘くて温い感じ。

 エリザは、こくん……と飲み込んで、ぽろんと涙を流した。

「もう少し……」

「どっち? 口づけ? それとも水?」

 いたずらっぽくサリサが笑う。

「ん……。両方」

「よくばり」

 再びの口づけに、エリザは腕を伸ばし、サリサを引き寄せた。

「どうしたの?」

「ん……。とても怖い夢をみちゃったみたい」

 ほんの少しだけ、体に重みがのしかかった。こつんと、額がぶつかりあう。

「どんな夢?」

「それが……おぼえていないの」

 ただ、とても不安で怖くて、それしかエリザの記憶にはない。

「いやな夢は忘れて。これからは、楽しい夢が現実になるんだから」

 サリサは微笑むと、あっという間にエリザの体を起こした。

「もうお昼だよ。あなたは半日、楽しい時間を無駄にした」



 春うらら……。

 今日も素晴しい天気だ。


 二日酔いでぼうっとする頭を抱えながら、エリザはサリサに連れられて、建ったばかりの新しい家に来た。

 ムテ人たちの三倍速で、カイトがだみ声で歌を歌いながら、荷物を運び込んでいる。

 恥ずかしいことに、エリザが寝込んでいる午前中に、だいたいの荷物は運び込まれていた。

 慌てて作業に参加しようとして、サリサが引き止めた。

「いいよ、エリザはまだ休んでいて。荷解きが終わったら、やらなきゃならないことがいっぱいだし。それに……」

 村人たちが、エリザを見かけて寄ってきた。

「ああ、エリザ様。旅の疲れで倒れてしまったとお聞きしましたが……もう大丈夫なんですか?」

 エリザは、目をぱちくりさせた。

 具合が悪いのは、旅の疲れではなく二日酔いである。

「これはいけません。まだ、口も聞けないほど、疲れていらっしゃる。どうぞ、ゆっくりしていてください」

 何か勘違いした村人は、そのまま引っ越し作業に戻っていった。

 横でサリサがくすくす笑った。

「あなたはね、少し病弱な癒しの巫女なんですよ。皆さん、きっと大事にしてくれますね」

 どうやら、サリサが口八丁で村人たちを騙したに違いない。確かに、来てそうそう二日酔いよりは、病弱なほうがイメージはいいだろう。

 それに幼少の頃、エリザは体が弱かった。もう、その頃を知っている人は少なくなったが、それでも何人かはそのイメージを抱いたままだった。

「そんなレッテルは嫌よ! サリサったら……私の夢を知っているくせに!」

 エリザは慌てて立ち上がった。

「私が大事にされてどうするの? 私、この村の人たちを癒したくて……」

 そこまで言って、はっとした。


 エリザが、遠い昔に諦めてしまった夢。

 それが……いつのまにか、蘇ってきている。


 幼い頃、この村の外れの小麦畑で落ち穂を拾った。

 黄金に輝く原の思い出。

 翌年も翌年も、その畑には、小麦が実る。

 だが、エリザはたった一人。

 その時、一緒だった友人は、流行病で亡くなったのだ。

 辺境だから、祈りが届きにくくて……だから病が流行るんだ。それに、癒す人も近くにいないしね。

 そんな大人たちの諦めにも似た声に、幼いエリザは傷ついた。


「エリザ?」

 サリサが不思議そうにこちらを見ていた。 


 そうだった。エリザが次に捨てた夢は、サリサと結婚することだった。

 巫女姫として霊山に上がって、なんとかがんばることができたのは、サリサのためだった。

 サリサがいなければ、弱虫エリザはくじけてしまい、癒しの業など身につけることはできなかっただろう。

 最高神官という立場の人に憧れるなんて、全く幼稚な初恋だった。

 それを嫌というほど実感するのに、さほど時間はかからなかった。エリザは、必死になって想いを封印した。


 ――だが、時間が経って。


「うん。なんか不思議な気がして。子供っぽい夢だなって、大人になって諦めたことが、もっと大人になって、実は大事だったって気がついて」

 エリザの言葉に、サリサは目を細めた。

「大人のふりをして諦めたつもりでも、実は自分を偽っていただけなのかも? 本当の大人は夢を諦めない」

 遠くから、人の声がした。

「おーい、旦那さーん。これはどこに運べばいいんだい?」

 村人がサリサの指示を仰ぐ声だった。

「ああ、裏のほうにお願いしまーす!」

 サリサが大声で返事を返した。そして、くすくす笑った。

 今のやり取りに、落ち着かないのはエリザのほうだった。元最高神官に、この態度はひどすぎないだろうか?

 そう。この村では、誰も元最高神官の顔を知らない。

 しかも、サリサの力はかなり衰えているのか、エリザでさえも、神官時代の気を感じることができずにいる。

 サリサは、単なる癒しの巫女の夫であり、一介の薬師にしか過ぎず、一般人扱いされることになる。おそらく、エリザのほうが上の立場に扱われるだろう。

 だが、サリサにとっては、このような一般人になることこそ、叶わない夢だったのだ。

 エリザの手を、サリサはそっと握りしめた。

 かすかに冷たく感じた。エリザは言い知れぬ不安を感じた。


 ――怖いわ。サリサの夢の行き着く先が……。


 どうしても、サリサの夢に手放しで従えない自分がいる。でも、夢を叶えてあげたいとも思う。

 エリザは困惑を押し隠した。


 ――せっかくの夢の実現なのに。

 もっと、楽しまなくちゃ……。幸せになることだけ、考えなくちゃ。


 ふと上目使いで見上げると、エリザの不安など全然気がつかないかのように、サリサは目を細めて微笑んだ。

 優しい――でも、どこかはかなげな美しさ。すべてを悟り尽くし、やり終えた人が持てるだろう、静かな微笑み。

 夢を叶えた人の、満ち足りた笑顔だと思う。だから、エリザもその静けさに慣れ、休らいだ気持ちにならないといけない。

 エリザは、サリサの手をちょっと強く握り返した。

「サリサは、夢を諦めないのね」

「夢? 何度も何度も諦めたよ。お子様だったからね」

 本気なのか、冗談なのか。サリサの口調はとても明るい。

「お子様? いやだぁ。サリサが子供だなんて」

 エリザもくすくすと笑った。

「二日酔いが直ったんだったら、夢の新居の荷物をなんとかしますか?」

「ええ、そうね。人に任せっぱなしにはできないわ」

 二人は、手をつなぎながら走り出した。

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