第13話

 地獄旅団を乗せた船がやってくるとピエーテルバルクはたちまちのうちに乱雑の坩堝と化した。黒いズアーヴ兵たちはツケで飲ませろと凄んでくるし、商売女ではない、ごく普通の主婦や生娘の尻を追いかけまわすし、士官や騎兵たちは目抜き通りを全力で疾走するし、屋台は壊すし、教会のなかでつばを吐く。また彼らの暴虐無尽ぶりに腹を立てた警官が注意すると、地獄旅団の兵士たちはその警官を取り囲んで、めちゃくちゃに殴りつけ、それだけでは済まずにその警官を引きずって警察署に行き、このデカがおれたちを侮辱したとわめいて、警察署長に謝罪を要求した。総督府には苦情が相次いだが、地獄旅団のズアーヴ兵が総督邸の門に立ち小便をしても総督は何も言えないくらいだったので、頼りにならなかった。一週間後、地獄旅団が出発すると聞いたときピエーテルバルク市民はどれだけ胸を撫で下ろしたことか。

 地獄旅団の乱暴狼藉ぶりはセント・アリシアにも伝わっていたので、年頃の娘を持つものは内陸の親戚の家に娘を預け、銀食器などの貴重品は箱に入れて、庭の隅に埋めた。酒場はみな酒樽を町から少し離れた森のなかに隠し、鏡を覗いては、いかにも親切そうで、みなさんが来てくれたことには心の底から感謝しているんですよ、というように見える笑顔の練習をした。奴隷農場主たちは地獄旅団が奴隷たちを荷担ぎ人として徴発するのではないかと戦々恐々だった。セント・アリシアで唯一の劇場は大急ぎでデ・ノア大佐を主人公にした地獄旅団を褒め称える曲と脚本を書いた。

 陽気なナポリ人街はまったく無関係に生きていた。みな地獄旅団が来たらどうすればいいか、ナポリのやくざの元締めで鼻の骨を横切る傷痕のある頭の毛をきれいに剃った男に聞きに行き、そのたびにみかじめ料を払った分だけきちんとした保護を約束したのだった。

 売春宿はといえば稼ぎ時がやってきたといって、上はマダムから下は九歳の雑役係の少女までバタバタと大混乱だった。というのも、地獄旅団がやってくれば、マダムの娼館は儲かること間違いなしだったからだ。どんなに凶悪な男でも、そして強姦だの略奪だのを愛する男でも本職の売春婦にタダ乗りするのはゲスのなかのゲス、ちんけな悪党がやることだというのが、悪の世界の共通認識だったからだ。娼婦相手に気前よく払えないやつなど男ではない。これから地獄旅団が駐留しているあいだ、娼婦たちは一晩いくら稼げるか競争することになるだろう。

「――なのに、きみはゆっくりしてていいのかい?」ジェスタス少尉はベッドの上からたずねた。脱いだ軍服がそこらじゅうに散らばっていて、アデリーナは牡丹の花が美しいキモノ一枚で窓辺に立っていた。うなじから陽にあたると白金のように輝く繊細な毛が程よい密度で生えている。ベッドのなかでそこをくすぐると、アデリーナはうれしそうに呻る。

「いいのよ。今日は」

 アデリーナは振り向くと笑いながら、

「そっちは? 行かなくてもいいの?」

「ああ」ジェスタス少尉は目をこすりながら答えた。「今日は非番だ」

「じゃあ、もうちょっと一緒にいられるんだよね?」アデリーナはベッドに座った。

「そういうことだね」

 そう言って、ジェスタス少尉はアデリーナのキモノに描かれた牡丹の線を人差し指でなぞった。指が背骨の引っ込んだところに触れるたびにアデリーナはくすくす笑った。

「ずっとこうしていたい」ジェスタス少尉はつぶやいた。

「したらいいじゃない」

「駄目だ。いかなきゃ」

「腰抜け呼ばわりされるのが怖いの?」

「あの恐怖を克服できないのが怖い。ここで逃げたら、一生おれはあの恐怖から逃げられない」

「逃れられるわ」アデリーナは背中を撫でていたジェスタス少尉の手を取って、自分の手のひらを重ねた。「わたしが逃がしてあげる」アデリーナは毛づくろいをするようにジェスタス少尉の首筋をぺろりとなめた。

 その夜、ジェスタス少尉は自分は遠征隊に加わりたくない旨をフランソアに伝えた。不揃いに切りそろえられたランプがじりじりと不機嫌な揺れ方をする事務室でジェスタス少尉は卑怯者の呼ばわりも覚悟の上のことだった。

「そうか。それが賢明だな」フランソアは言った。「逃げられるうちに逃げたほうがいい」彼は生存者のほとんどを連れて戻ったことで母国の新聞に英雄視されて、階級が大尉に上がっていた。昇級の意味するところは、政府は暗にフランソアをあのジャングルへと再び追い込もうとしていることだった。

「そういうわけでぼくは逃げられん」

「しかし、申告すれば――」

「無理だよ。こっちは頼んでもいないのに勝手に英雄視されたんだ。これで遠征についていかないといわれたら、ぼくの家の窓ガラスには一生石が飛んでくることになる。いちいち窓ガラス代を払っていたら、きっと破産するだろうな」

 フランソアはくっくと笑ってから、拭うように笑みを消した。

「それにタバークル准尉のこともある」

 ジェスタス少尉はそれ以上何もいえなかった。フランソアは話題を変えることにした。

「地獄旅団の連中は町で暴れまわるだろうな。きみもやつらが来たら、うかつな真似はしないことだ」

 そのころ要塞司令官のマルク大佐は地獄旅団の分宿先のことで頭をいっぱいにしていた。地獄旅団を心地よい家々に迎え入れて、ご機嫌を取り、町への被害を最小限にとどめるということで大佐は行政長官と一致を見ていた。町で一番立派な行政長官邸の客間にデ・ノア大佐を迎え入れ、その他士官も同様にセント・アリシアの両手で数えられるだけしかいない名士たちの客間に分宿させ、兵士たちは民家に分宿させる。地獄旅団はデ・ノア大佐の言葉には絶対服従だという話だから、デ・ノア大佐のご機嫌さえとれば、後はどうにでもなる。サトウキビやカカオの農園主たちは高い金を払って手に入れたトカイワインやスペインの生ハム、特別なガラスの部屋のなかで育てた東洋の桃などを集めて、デ・ノア大佐を歓待することにした。デ・ノア大佐が到着したときは万歳を叫ぶのはいいが、必ず「デ・ノア旅団長大佐万歳! ガフガリオン将軍万歳!」と叫ぶこと。大佐はガフガリオン派だが、それでも将軍より前に自分の名が叫ばれれば、悪い気はしないだろう。ここで注意すべきは必ず旅団長大佐と叫ぶこと。ただの大佐と一緒にすれば、将軍は腹を立てて、町を好き放題に略奪させるかもしれない。

「そうなったら、セント・アリシアはおしまいだ!」行政長官は農園主たちの前でそう嘆いた。「我が町にはピエーテルバルクほどの経済力はない。一度の略奪で社会制度は崩壊し、セント・アリシアは誰も住まない死の町になってしまう」

 こうして万全の態勢を整えて、地獄旅団が迎えられることになった。その数は一二〇〇以上でなかには猟兵部隊や騎馬砲兵もいた。

 一八五六年六月二日正午、地獄旅団が十隻のカブトムシのように光を反射させる黒いスクリュー船に乗って現われた。要塞が二十一の礼砲を撃つと、相手からも礼砲が返され、空気が震え上がった。

 フランソアとジェスタス少尉もその現場にいた。正装した状態で少なくなった部下とともに桟橋から行政長官邸へとつながる並木道で捧げ銃の姿勢を取っていた。行政長官とマルク大佐は馬に乗った状態で桟橋の近くで待っていた。タラップがかけられると、黒い上着の地獄旅団の面々が桟橋に降りてきた――先頭は旅団旗で黒い旗にしゃれこうべと交差した骨が刺繍され、その下に『服従か、死か!』という物騒な文句が書き連ねてあった。それはどの角度から見ても海賊の旗であり、共和政国家の正規軍が持つ旗ではなかった。

 セント・アリシアの軍楽隊が曲を始めた。しかし、それは〈共和国よ、永遠なれ〉ではなくて〈ジェルジェ讃歌〉、つまりガフガリオン派の曲だった。地獄旅団は大佐から兵卒に至るまで全員がガフガリオン派になることを強制されていた。これでこの町にはデ・ノア大佐に反抗する愚か者はいないことを露骨に表現してみせたのだった。

 旅団旗のすぐ後ろにはシャルロ・デ・ノア〈旅団長大佐〉。でっぷりしていてサンタクロースのような鬚をしていた。その禿げた頭に乗っている灰色のソンブレロには金の糸で獅子が向き合う刺繍を施してあり、そして、彼の自慢の勲章や飾り紐は表は黒、裏地に黒く染めた羊毛をはった彼愛用の半外套につけられていた(この半外套は六本金糸の組み紐飾りという前代未聞の袖を持っていた)。金や銀、メダルや星型、十字型の勲章に様々な色と様々な模様のリボンが付けられた勲章のうち重要ないくつかは彼の大きな鬚にかくれてしまっていた。だが、それでも彼がちゃんと歩けばかちゃかちゃと音がするので彼はそれで満足だった。この勲章の音を本人は勇気の証と呼んだが、フランソアはアラブの断末魔と名づけていた。彼は葉巻を吸っていて、マルク大佐や行政長官が出迎えて「お待ちしておりました、デ・ノア〈旅団長大佐〉殿!」と敬礼したときも、彼は葉巻を口にくわえたまま敬礼し返した。

 次に副官たちが降りてきた。灰色のフェルト製ソンブレロかドクロのトルコ帽をかぶり、銃はホルスターに入れず、アラビア人のやるように飾り帯に突っ込んでいた。第一副官は猫人のテーケ大佐でタバチェンゴのトマス神父並みの抜け目のなさそうな模様の顔をしていて、羽虫がぶつかるたびに口髭が神経質に動いた。その後も後方任務の士官連が続いたが、需品係士官や地図作成士官ですら、ひどい凶悪な、あるいは狡猾な面構えをしていて、全員が狂犬病面に見えた。

 次に猟兵大隊が降りてきた。率いているのはエドワルデ・ディアト少佐という痩せぎすで灰色の目をした人間で、デ・ノア大佐を真似し大きな鬚を生やしていた。彼はかつては山賊の頭だった。デ・ノア大佐に討伐された際に、大佐が旅団旗に刺繍させた礼の標語〈服従か、死か!〉をたずねてみた。彼は服従を選んだ。彼の部下である猟兵たちも密猟者や酔った勢いで女房を殴り殺してしまった猟師など銃を撃つのがうまいだけで他は人並み以下、もちろん良心というものも薄っぺらいものがほとんどだった。彼らは鳥獣を撃って肉を手に入れるかわりに人間を撃って酒と金と女を手に入れようとして地獄旅団の猟兵大隊に入ったのだ。

 次は旗ごとにまとまった歩兵大隊がいくつかやってくるが、士官も兵卒も死刑囚の牢屋から恩赦と引き換えに引っぱってきたとしか思えない悪人面の集まりだった(そして、それは事実だった。おまけにデ・ノア大佐には自分が好きなときに彼らを処刑できる権限があった)。しかし、その悪人面の大隊長のなかで一人だけ美しい青年士官が現われると、これがまた一層不気味に映った。鬚のない、二十歳を超えて間もない青年は顔の造作が非常に整っていて、ブロンドの髪はゆるやかにカールしていて、ほっそりとした指を絹製の薄く黒い手袋で包んでいた。彼は、まるでルネサンス期の絵画から脱け出してきたような優美で柔和な笑みの持ち主だったが、彼の胸には八つの勲章が飾ってあった。他の大隊長がせいぜい一つか二つしか下げていないのにだ。つまり、この羽のない天使はそれほどアラビア人殺しがうまかったということになる。

 そうした士官たちに率いられ、ドクロのトルコ帽を頭に乗せたズアーヴ兵たちが歩いていく。傲慢な白人、目の血走った黒人、歯を剥く人狼、ずる賢そうな狐人、冷酷な蜥蜴人、一癖ある蛙人、そして各人種同士の混血たち――なぜか猫人は副官以外に見かけなかった。

 山砲と野砲を装備した砲兵隊や騎馬砲兵、それに三十人近い工兵たち――地獄旅団の兵士たちはフランソアたちを見ると表情に露骨な侮蔑の情を表した。密林の土民ごときに遅れを取ったマヌケの集まり。そう言われても否定はできない。ただ、三つの対立していた部族が一つにまとまり、さらに新型の武器で武装していたという事実を鑑みると武器商人がこっそり武器を不帰順部族に売り渡しているということになる。だが、この可能性は少ない。十字型砦より先に行った船は皆無だし、あれだけの武器を乗せた船が通れば、どんなマヌケでも気づく。

 すると、士官たちのあいだでイギリス人やオランダ人が軍事顧問を派遣して、メイベルラント人を南米から追い払おうとしているという説が尤もらしく流れ出した。その噂に真っ先に飛びついたのは出征した士卒だった。イギリス人によって訓練され、武器を供与されたのであれば、数に優ったインディオたちが勝つのは当然のことだという説は自分たちの敗北を少しは合理化してくれる。

 行政長官とマルク大佐がかねてから決めていたとおりに分宿が進み、町は今のところは静かだった。デ・ノア大佐と行政長官、それにマルク大佐は三人で馬首を並べて、行政長官邸へと向かっていった。フランソアはその道の途上でデ・ノア大佐をまじまじと見ることができた。抜いたサーベルと掲げて礼をしつつ、デ・ノア大佐と彼の取り巻きと化したマルク大佐と行政長官を見た。

 デ・ノア大佐はでっぷりしていて、執念深そうな目つきをしていた。ここまでは予想通りだったが、その顔があまりにも蒼白いことには驚かされた。アフリカ勤務が長いというから、きっと浅黒い顔なのだろうと思っていたが、実際には不健康なくらいに白い顔をしていた。デ・ノア大佐は文字通り血の通っていない人間なのかもしれない、フランソアはそう思った。そのとき、デ・ノア大佐がちらりとフランソアを見下ろした。ほんの一瞬だったが、何か起こりそうで嫌な予感がした。

 行政長官邸に着くと、行政長官とマルク大佐は客間に案内した。その家具の豪勢であることに自分への尊敬の念がしっかり含まれていることを確認するとデ・ノア大佐は行政長官に対して、自分の参謀士官を全員ここに泊まらせたいと言ってきた。第一の試練だった。客間の数は足りなかった。そこで行政長官は泣く泣く自分たち家族の部屋を明け渡した。妻と娘の部屋までも明け渡した。最初に申し出たとき、デ・ノア大佐は断った。行政長官はこのまま断ったままにしてしまおうかと思ったが、くわえた葉巻の紫煙越しに刺してくる大佐の視線に負けて、もう一度、妻と娘の部屋も使ってください、と申し出た。大佐は不本意そうにいいながら、

「女性のお部屋を借りるわけですからな。もちろん――」デ・ノア大佐は言った。「わしの部下たちにはベッド以外の家具には触れはさせんつもりです。ご安心あれ」

 長官邸に泊まることになった士官たちは誰が娘の部屋に泊まるかで口論になり、切ったカードでエースを引いたものが娘の部屋に泊まるということになった。そのカードを引いたのは馬糧担当士官の蛙人であった。彼は部屋に入ると、邪魔されないように内側から鍵をかけて、娘の下着に鼻を突っ込んで存分に匂いを嗅いだ。

 妻と娘が生活に必要なものを持って、内陸の親戚がやっているカカオ農園へ旅立っていくと、もう夕暮れ時が近づいていた。これまでのところ、セント・アリシアは静かだった。だが、デ・ノア大佐の機嫌を少しでも損ねれば、ピエーテルバルクの二の舞を食う。それだけは絶対に避けなければならず、行政長官とマルク大佐、それに町の貴顕たちが集まってご機嫌取りの夕食会となった。

 長官邸には鮮やかな花々に恵まれた中庭があり、その柱廊に設けられた席では健啖家のデ・ノア大佐のために大量の料理とワインが用意された。朝に屠ったばかりの子牛のステーキ、クルミの粉と赤ワインでコクを出したナマズのブイヤベース、カイエンヌ・ペッパーをたっぷり利かせた揚げバナナとモツのスープ、肉詰めしてオーブンで焼いたトマトやピーマン、ショート・リブのシチュー、デザートは将軍の大好物である揚げリンゴ。デ・ノア大佐はそれらをがつがつ食らい、ワインも一々注がれるのが面倒だから籐籠ごとボトルを置かせて、直接瓶からぐいぐい飲んだ。現代社会にトルトゥーガ島のバッカニーアが迷い込んだようで、礼儀作法もあったものではなかったが、揚げリンゴを二つ分平らげデ・ノア大佐の機嫌がこれ以上ないと言っていいほどよくなったところで行政長官が声を潜めて話し出した。

「旅団長閣下にお願いがあります。このセント・アリシアが閣下の保護のもとに入ったことを正式に宣言してはいただけませんでしょうか?」

「どういうことだ?」ワインと揚げリンゴでとろんとなったデ・ノア大佐はたずね返した。

「つまり、こういうことでございます。遠征隊の敗北によって我が町の守備隊は壊滅状態となり、もし不帰順インディオたちが川を下って攻めてくれば、ひとたまりもないと市民たちが脅えたことがありました。マルク大佐の新しい要塞守備隊が補充されましたが、その規模は粉砕された遠征軍よりも小さく市民の不安を拭いきることはできません。そこで閣下に、セント・アリシアの町は閣下の保護下にあり、そこでの乱暴狼藉を働くものへの厳罰をうたった宣言と命令書をいただければ、セント・アリシアの市政を預かるものとしても大変助かりますし、たいさ――いえ、旅団長閣下のインディオ討伐にもきっとより一層協力できるであろうと思った次第です」

「ああ、なるほど」デ・ノア大佐はいやらしく口の端を上げた。「ようするにわしの部下に略奪をさせるなと言いたいわけですな?」

「いえ、そんな、まさか!」行政長官は首をぶんぶんと左右にふって否定したが、その姿ときたら、まるで棍棒をぐるぐる振り回す看守に慈悲を請う徒刑囚のようだった。「閣下の部隊が略奪など行うはずはないとわたくしどもは堅く信じております」

 デ・ノア大佐は、もう、いいと言った様子で手を振った。その動作に行政長官もマルク大佐も同席していた名士連も蒼ざめた。これから略奪と強姦が始まる! 砂糖を焦がした匂いを振り撒きながら燃え上がるサトウキビ農園や手篭めにされる名家の女たち、女子どもを人質に取られ、インド綿の木の根元に隠しておいた銀食器を掘り出すシャベルの音までもが聞こえてくるようだった。

「テーケ大佐!」デ・ノア大佐は末席にいた第一副官を呼び出した。「以下の布告を出せ。いいか? 一八五六年六月二日付け、いかなる兵員もデ・ノア旅団長大佐の命令なくして、セント・アリシア市内及びその郊外の農園や牧場等生産施設において物資を略取することを禁ずる。また、町の治安を乱す行為も同様に禁止され、いずれも破ったものには喉裂きの刑に処す。書き取ったか?」

「はい、旅団長閣下」テーケ大佐が甘ったるい声で返事した。

「じゃあ、各大隊に触れを出しに行け。今すぐにだ」

「はい、旅団長閣下」

 テーケ大佐が部屋を出ると、デ・ノア大佐は喉先の刑について説明を始めた。まず彼は上着の内側に入っていた革の袋のなかから、革の指だし手袋を取り出した。この手袋には刃が小指の根元から突き出して、それが手首側へとゆるやかに弧をえがいていた。

「それは人の喉を切り裂くためだけに作られた手袋です」デ・ノア大佐が言った。「こうやって手袋と一体化させれば例え刃が骨に当たろうと柄が手のなかで滑ってナイフを取り落とすなんてヘマはしません。残念ながら、これはわしの発明品じゃありません。わしの部下の一人にクロアチア人がいましてな。そいつがこれを持っていたんですな。まったく、我々はよくスラヴ人たちは遅れていると馬鹿にしますが、喉の掻き方に関して言うなら連中はヨーロッパの最先端をいっているというわけです。これの扱いに長けたやつが士官のなかにおりますから、これでどれだけきれいに喉を切り裂けるか、実地で見せたいものですな。誰か殺してもかまわんやつはおりませんかね?」

 行政長官とマルク大佐は顔を蒼くして、首を横にふった。

「それはおかしい。確か、前任の要塞司令官は死刑判決を受けていると聞いております」

「セバスシアン大佐は銃殺されました」マルク大佐がハリネズミの触れるようなそっととした調子で言った。「総督府からの命令に銃殺と明記されていましたので」そうでなければ、デ・ノア大佐の処刑ショーのためにセバスシアン元大佐をとっておいたかのような言い方だった。

「なるほど、総督府」デ・ノア大佐はにやりと笑った。「総督府が銃殺と命じたのであれば、それはどうあっても銃殺にせねばなりませんなあ」それからデ・ノア大佐は一座がその生々しさから遠ざけたいと思っていたクロアチア人の話を蒸し返し、オーストリア皇帝がウィーンを革命政府から取り返すとき、皇帝軍の赤マント部隊と呼ばれるクロアチア人兵士たちがこの道具を使って、捕虜の喉を切り裂いたのだが、あまりにも多くの捕虜の首を掻き切ったせいでドナウ川が真っ赤に染まったことを面白げにしゃべり、そして最後にこうしめた。

「しかし、なんですな。こうして、思い返してみると君主の王冠が重いのは純金でできているからではなくて、真紅のビロードが血を吸い込み続けているがゆえなのですな」

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