土曜日

 駅についたのは日付が変わった頃だった。朝番の仕事が入っているので、目が張れないように冷やしてから寝ないといけないな、勤務日時を増やす理由について、何て説明すれば変じゃないかな、などと考えていたら、気付いたらもう、マンションのエントランスだった。

 エレベーターから降りると寝室の明かりがついているのが見えた。裕さんはまだ起きているのだろうか。一瞬、足が重くて立止まる。

 玄関を開けると、朝、裕さんがまとめていた雑誌や本が脇に積まれていた。

「明日香!」

寝室の扉から裕さんが飛び出してきた。

「どこに行ったかわからないから心配したよ」

(どこに行けると思っているの? 私は実家にも住めないというのに・・・・・・)

「もう、帰って来ないかもしれないと思った」

(帰って来ない、って、仕事どうすると思っているわけ? 私が今日で辞めます、とか言うと思っているの? そんな風に言えたらラクかもしれないけど、私は裕さんみたいに、駄目、辞めます、なんて言えないよ・・・・・・)

「帰ってきて良かった、もう、本当に不安で、不安で、どうしたらいいかわからなくて・・・・・・」

裕さんはしゃっくりあげるように泣き出した。最後の言葉は嗚咽に混ざって聞き取れなかった。涙と鼻水で顔はぐじゅぐじゅだ。泣きたいのは私の方なのに。でも、さっき外で号泣したにも関わらず、目は完全に乾いて潤いもしなかった。

三歩後ろから裕さんと私を見ているような、つまらない昼ドラでも見ているような、当事者の感覚は全く無くて、他人事のように感じた。



 「うちのがね、たまには本物の焼酎が飲みたいって文句言うから、昨日は喧嘩よ。毎週一升も飲むのよ、安いペットボトルので充分でしょ。こっちは毎日安売り選んでツマミを作っているっていうのにねぇ。本物が飲みたいなら、それ相応の給料をもってきてもらわないとねー」

「わかる、わかるわー。毎日の節約にどれだけ苦労しているか、全然分かってないのよね」

「うちはね、以前は毎日のように喧嘩になったから、頭を使ってね、最初は、まぁまぁの焼酎を出すけど、酔って味が分からなくなる頃に、安物に切り替えているわよ」

「あら、さすが加藤さん、賢いわねー」

「バレない?」

「全然、逆にどうして分からないのか不思議で仕方ないくらいよ、味オンチなのね」

 いつものように、おばさんたちが昼休みはご主人の悪口で盛り上がっている。

「坂田さんのご主人は晩酌するの?」

「えぇ、まぁ、ビールとか」

私は無理をして笑みを作る。

「ビール! 新婚さんは違うわねー、旦那様を大切にして偉いわ。うちは絶対ビールは駄目、アルコール低いからジュースみたいに飲まれて、すぐ3、4本開けられてしまうわ。高くついて仕方ないわ」

「いえ、もう結婚して何年にもなるから、新婚では・・・・・・」

「結婚して三十年近い私達と比べたら、新婚みたいなものよ。でも、坂田さんのとこも、子供が出来たら嫌でも変わるわよ」

「そうそう、亭主元気で留守が良い、ってね」

「ご主人が現役の人が羨ましいわ。退職したらずっと家にいるのよ、もう鬱陶しいったらないんだから」

「毎日家で何してらっしゃるの?」

「新聞読んだりテレビみたり、よ。何をする、っていうでもないわよ。本当に邪魔なだけなのよ」


大して食べていないのに、満腹感がある。お腹いっぱいだ。でも、残すと配膳担当のおばさんがあからさまに嫌な顔をするので、残っているうどんを二本啜ってみた。少し残しても沢山のこしても、どうせ嫌な顔をされるなら、もう無理して食べなくていいかな。

体調が悪かったり、気分が沈んだりする時の休憩時間は辛い。空気を読んで合わせるのが難しい。とはいえ、リーダーやお局様のご機嫌を損ねると働きづらくなるから、無理をしないわけにはいかない。

 みんな大笑いしているから、私も笑うけど、きっと引きつっていると思う。愛想笑いと嫌味を言われたり、陰口を言われたりしないだろうか。こういう時は、情けないけど何もかもがネガティブにしか考えられない。

 石原さんなんて、笑い過ぎて涙を流し、ティッシュで拭いている。

 みんな幸せそうだ。なのに、私は幸せ、じゃない。笑い顔を作っているけど、気が緩めば涙が出そうなくらいだ。みんなはご主人の悪口を言って笑っているけど、実際には、一生懸命働いてローンや家賃を払って家族を養っている、もしくはそうして定年まで頑張ったご主人がいるのだ。急に会社を辞めて、日本語で話をしてくれなくなって、留学する、って言ったと思ったら、突然止めて、部屋に籠りっぱなしの夫がいる人なんて、ここにはいない。というか、そんな特殊な夫を持った妻なんて、私以外にどこにもいないと思う。私はひとりぽっちだ。


 「そろそろ行こうか」

石原さんの声かけにみんな一瞬時計を見、盆を持って立ち上がった。5分前に現場に戻るのが暗黙のルールだ。四十五分の休憩とはいえ、実質は三十分くらいと短い。でも、今日は一時間くらいに感じた。仕事をしているほうが、気がまぎれる。午後は忙しくなると良いな、と思う。


 期待に反してレジは混雑せず、予備のビニール袋を作ったり、台を掃除したり、暇を作らないようにするのがキツかった。

 タイムレコーダーを押し、店長室を覗くと、店長も今日は暇そうだった。契約のことで、と声をかけると、『辞めるなんて言わないよね?』と心配そうな顔をされ、慌てて首を横にふる。

 勤務時間や日数を増やしたいと相談すると、扶養手当が受けられなくなって大丈夫かと念押しをした後で、年末にかけて忙しくなるから、こっちも助かるよ、とあっさり十一月のシフトから増やすから、来週末までに出勤可能な曜日や時間のメモを出すように言われた。

 人手が足りているから無理と言われたり、理由を聞かれたりするのではないかと思っていたので少し気持ちが軽くなった。

 とはいえ、私のパートを少し増やしたくらいでは、生活の足しにもならない。今後のことを考えると、ただただ不安で胸が一杯になった。



 裕さんは本や雑誌を日曜以来そのまま片付けもせず、一日のほとんどを布団に横になって過ごしていた。

 一緒に食事をとることもあったけれど、終始無口で無表情だった。話しかけても返事をしないか、食事を止めて別室へ行ってしまうこともあった。

 そうかと思うと、不安なのか、私を見張っているような素振りも同時にみせ、目が赤く腫れていることもあり、時々、泣いているようだった。

 その一方で、私を睨むような視線を向けることもあった。仕事をして、家事をして、裕さんを気遣って不安ながらも一生懸命やっているのに、憎しみを向けられることは、何よりも一番堪えがたかった。納得できないという憤りと、上手く出来ない自分への嫌悪と、大切な人から愛情を得ることが出来ない悲しさで、いてもたってもいられなくなった。泣き叫んで発狂できたら、どんなに楽だろうと思った。私の方が裕さんより酷い状態になれば、私は何も考えず、何もしなくても良くなって救われるのではないか、と病気になることを夢見た。頭では馬鹿だと思っても、救いをそこに求めてしまう。



 金曜になり、最後の英語レッスンを受けに行く。メールで英会話教室の担当者には、今回で最後にして退会することを伝えてあるので、先生にも報告はされていると思うけれど、自分の口から辞めることと、今までのお礼を言わなければ、教室へ向かいながら、どういえば良いか考える。

 扉を開けると先生はいつものように笑顔で、『Hi!』と声をかけてきた。私もそれに『Hi』と簡潔に答え、椅子に座る。

 先生は何も言わず、今日のテキストを広げる。私は一瞬ためらって声をかける。

「May I talk with you for a while before the lesson?」

「Of course」

「This is the last lesson for us. I cannot continue the lesson because of the family matter」

「That is OK. I heard that from the manager.」

「I am sorry」

「There is no reason that you should apologize. Have you enjoyed the classes?」

「Sure!」

「I have, too」

「Well, ……what should I explain……」

「I do not mind, so you do not have to say if you do not want to do」

「I want you to understand that I really want to continue, but I can not」

「OK.」

英語がペラペラ話せたらどんなに良いだろう。中学の時からもっともっと勉強していれば、英語しか話さない、という裕さんとも、話が出来て、病状が悪くならなかったかもしれない。英語が話せないと裕さんとも先生ともろくに話が出来ない。言いたいことが言えないというのは、なんてもどかしくて辛いのだろう。

「You can study by yourself. You are hardworking person, so you can do」

私が困っていると思ったのだろう、先生が励ますように言ってくれた。でも、私は何をやっても駄目だ。上手くできないし、長続きもしない。英語も一生話せないままだと思う。

「I am a dropout」

「No way!! You should not say like that! Most of the Japanese person is moderate too much. You should have more confident. Do not be self-defeated. You are grate person. Only you need is to be positive thinking」

英語を頭の中で日本語に変換しながら、胸が熱くなった。他人にそんなことを言われたのは初めてだ。小さい頃は親から『あなたは特別』と言ってもらって、自分はもしかしたら少し特別なのかも、なんて勘違いしたこともあったけれど、学校に入ってからは自分に何の取柄がないことを毎日確認するだけだった。こんな良い先生なのに、今日がレッスン最終日、悲しすぎる。もっと勉強したら、西洋的な感覚、先生みたいなポジティブな考え方を英語と一緒に学べたかもしれない。

「Thank you so much」

胸の中には沢山の言葉があるのに、口に出せる英語はこれだけだった。でも、気持ちは込めたつもりだ。

「That is OK. Shall we start the lesson?」

「Sure」

いつも通りのレッスンが始まる。英語で頭の中はいっぱいになり、余計なことが入る隙もなくなる。あっという間に終了時間になる。

名残惜しいけれど先生には引き続き次のレッスンがある。無理やり、精一杯の笑顔を作る。

「Thank you for all. It was nice to see you」

「So do I. Take care」

先生が扉まで見送ってくれた。

「You will be OK. I think you will be fine」

先生の真剣な眼差しを見て、先生はやっぱり日本語ぺらぺらなんじゃないかな、と思った。以前、日本語で夫の病気のことを話した時、きちんと理解していたのだろう。

 裕さんが治って仕事に戻って、生活が落ち着いたら、またレッスンを受けたい。でも、そんなこと、望めるのだろうか。



〈ジャイママ、元気ですか? 久しぶりです、色々あって英会話を辞めました。来月からパート勤務を増やすので、今月会って、話を聞いてもらいたいな〉

〈Re:チビママ、久しぶりだね、うさぎ仲間のネットの書き込みも全然してないみたいだし、どうしているかな、って気になっていたよ。私もちょっとチビママに聞いてもらいたいことあるんだ。月末の土曜はどう?〉

(じゃ、二時でいいかな)



 裕さんの体調が一向に良くならないので、主治医の先生の話を聞いてみようと思い、予約をとった。

 久しぶりに真っ白な部屋のビニール張りの丸椅子に座ると、裕さんの話を聞きに来ているだけなのに、自分が患者のような錯覚に陥る。

「会社を辞めて留学する予定だったのですが、それも辞めてしまって、毎日ほとんど布団の中で横になっているだけなんです」

「患者さんが一日中寝ていたり、嫌なことから逃げて、好きなことだけしているように見えるかもしれませんが、実際はそうではないんですよ」

「でも、少し前までは元気に留学の準備をしていました」

「留学の準備などを嬉々として一生懸命やっているように見えるかもしれませんが、本人は不安に押しつぶされそうだから我武者羅にやっているだけなのです。一方で、上手くいかないと不安で体が動かなくなったり、意志はあっても、体が自分を守ろうとして停止してしまったりするのです。怠け病、と思われることが多いですが、本人は決して怠けているわけではないので、そう思われると大変辛いのですよ」

「では、不安で留学を辞めたのでしょうか」

「ご主人からは辞めた理由は奥様が反対されたからと伺いましたが」

「え?」

「留学は本人が強く希望していたことですし、退職や留学など環境が変われば病状にも変化が出る可能性も高いと思いましたので、主治医として特に反対する理由は無かったので、留学期間中の薬を出すことも承知したのですが、まぁ、夫婦で話し合って決めたのでしたら、それも良いでしょう」

「いえ、先生、その、私は反対・・・・・・」

言いかけて途中で止める。賛成していたわけではないのだから、反対なのかもしれない。裕さんが留学することが正しいと思い込んでいて、何を言っても無駄だから、仕方ないと思って諦めていたのが本当のところだ。調子が良くないのに、大金をかけて留学するのは不安だったし、一人海外に行って病状が悪化したらどうしようかと不安だった。行かなくなった時は、自分勝手だと腹が立ったけれど、どこかでホッとした部分もあった気がする。

「ともかく、ご主人は就職を考えているということでしたし、奥様が不安になる気持ちはわかりますが、体調を崩した一番の原因だった仕事を退職していますし、治療の効果が少しずつあらわれていると思いますよ」


 治療の効果?

 会計を待っている間、先生の言った言葉を頭の中で繰り返す。でも、意味が理解できなかった。私が裕さんを見ている限り、良くなってなんて全くない。悪くなる一方だ。

 先生の診断は正しいのだろうか。

 待合室に飾ってある立派なフラワーアレンジメント、絵画、アンティークなソファー。駅前に開院するとなると、相当な費用がかかっているのだろう。先生にとって患者はカモなだけなのではないだろうか。

「五千二百五十円です」

私は患者ではないので保険が効かない。夫の病状について五分の説明を受けるだけで、高額な料金を払わなければならない。 

 何かが違う。どう違うかは、わからないけど、正しくない、という確信があった。

 良い病院を探そう。そして、裕さんを説得して転院させよう。



 ある意味、変化のない毎日が過ぎる。


朝起きて食事の用意をする。でも、裕さんは起きて来ないので、一人でテレビを見ながら食べ、裕さんの分にラップをかける。

 この前、いつものように起きているかベッドまで確認に行ったら、珍しく目を開けていてびっくりした。

「あ・・・い・・・なぁ」

「え?」

留学を辞めてから裕さんは一言も英語を話さなくなった。

「ごめん、聞き取れなかった」

「明日香は仕事できていいよな」

ぼそっと言うと、布団をかぶってしまった。仕事に行くのを責められている気がした。


うさぎのチビのゲージを掃除し、餌をあげ、頭を撫でる。

「一人だと不安なのかな? 仕事辞めるべきかな?」

チビに問いかける。最近は布団にいる裕さんしか見ないけれど、私が家を出ている時間、裕さんは何をしているのだろう。来月からは勤務日数も時間も増える。

「でもさ、収入ゼロになったら生活できないし、働くしかない、よね」

いいな、というのは、責めているというよりは、うらやましい、ということなのかもしれない。働けて嬉しいなんて感じたことは無いし、生活のために働いているだけで、働かないですむなら、それにこしたことはないと思うのだけど、働けなければ、働くことがうらやましいと感じるのだろうか。


洗濯を干す。裕さんの洗濯物はパジャマと下着だけと少ない。体を動かすのがとにかく億劫らしい。毎日風呂を用意するけど、二、三日に一度しかに入らないので、パンツの数は私の半分くらいだ。パジャマなんて場合によっては十日以上も着ていたりする。昔の裕さんでは考えられないことだ。

干し終わると、ベランダからビルの合間に見える小さな空を見上げる。今日は曇りなので気持ちが良い。あまりにも晴れていると、外の世界と自分の心がかけ離れ過ぎているようで、辛く感じてします。

 

パートの日は裕さんの昼食を冷蔵庫に準備し、仕事に出かける。今度、田中主任と内田さんが動物園に行く約束をしたらしい。

二人の交際が順調で、加藤さんがとても嬉しそうだ。でも、噂では加藤さんは、最近義母の介護問題が発生して大変らしい。

私が裕さんのことを職場で話さないように、みんなも私の知らない事情や悩みを抱えていても、話さないだけなのかもしれない、と思う。ご主人の悪口を言って大声で笑って、お気楽に見えるけれど、もしかしたら、泣きそうなのを我慢している時もあるのかもしれない。


仕事帰りに買い物をして帰る。本日の特売品や、値引きシールの貼られた品だけを買うようになった。以前のように、食べたいものを買うのではなく、安いものを買って何が作れるかを考える。

でも、毎日三食食べられるのだから幸せだ。この前見た英語ニュースで貧困が取り上げられていたのを思い出す。自分の周りしか見ていなかった私は、英語ニュースを見ることで、今まで全く知らなかった貧困や差別や戦争について、日本の外で起こっている事柄について、ほんの少しだけど知るようになった。

不幸な人と比べて幸せだと感じる、というのではなく、単純に、世の中には色々な人がいて、様々な考えがあって、正解というか正しいことも一つではない、ということが、今さらながらだけど、少しわかるようになった。

アメリカのテレビニュースと日本のものとは全然違ったりする。だから、フランスとかイタリアのニュースを見たら、また全然違うのだろう。

働き方とか、夫婦のあり方とかだって、国が違えば全然違うに違いない。

日本では、裕さんは変だとか、私の対応は間違っている、と思われるかもしれないけど、世界からみたら、それも一つのあり方なのかもしれない。


 夕食は調子が良ければ裕さんも一緒に食べる。でも、会話はない。私は話したいことも聞きたいこともあるけれど、裕さんの心に波風を立てたくないから我慢をする。

 

 洗い物など、一通り家事を終えるとパソコンを開いて病院の口コミや、病気に関することを調べる。

口コミは信憑性に欠けるし、病院は細かい情報を発信していないし、調べれば調べるほど混乱する。こういう病気は欧米のほうが研究や治療が進んでいるらしい。ここでも、英語を勉強しておけばよかったと後悔する。

色々な病気や障害で悩んでいる人や、その家族のホームページも読んだりする。彼らの気持ちが、裕さんと一緒ではないだろうけど、一部同じだったり、似たような気持ちを抱いたりしているのかもしれない。自分たちの病気が家族を悩ませていることで、更に苦しんでいることや、病気が治らないことが辛くて家族に冷たく当たってしまうことなどは、読むまで気付かなかった。当人も家族も、ただ一生懸命頑張っているだけなのに、なぜだかうまくいかない。気持ちがすれ違ったり、想いが伝わらなかったり、する。切ない。


夜中、たまに目が覚めると裕さんが起きている気配がする。夜は眠れないようだ。睡眠薬を飲んでいるはずなのに眠れないのは、薬が合っていないのかもしれない。やはり、早く良い病院に転院させなければ、と思う。

 私もこれからのことを考えると不安でたまらない。自然と涙が滲む。裕さんの病気が良くならなかったら。マンションを売らなければならなくなったら。裕さんが私に辛くあたるようになったら。裕さんが万が一自殺したくなったら。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。誰か助けてください。

自分が情けない。弱くて醜い。自己嫌悪にかられたまま、眠りにつき悪夢の中に戻っていく。



「明日香ちゃん、久しぶり」

「うん」

「元気そう、じゃないね」

「・・・・・・うん、ごめん」

「謝ることないよ、こっちこそ、ごめん、ごめん」

千絵さんに手土産のパンプキンケーキを手渡す。

「ありがとう、ハロウィーンか、美味しそうだね。今、紅茶淹れるね」

ジャイアンがダンダンとダンピングをして出せと暴れているが、千絵さんが無視するように言う。

「今日はジャイアンに話を邪魔されたくないからね」

ケーキと紅茶をテーブルに並べながら、千絵さんがいたずらっぽく笑う。千絵さんは本当に心遣いの上手い人だ。

「明日香ちゃんに聞いてもらいたいことがある、ってメールで書いたでしょ」

「うん」

「実はね、結婚の事なんだ」

千絵さんは最近、仕事を通じて知り合った人に結婚を前提に付き合ってほしい、と言われたらしい。この前会ったときには、すでに何回かデートをしていたものの、付き合いがどうなるか不透明だったし、私が裕さんのことで悩みを打ち明けていたから、話さなかったのだそうだ。

「私、ね、大学卒業すると同時に東京に出てきて、それからずっと一人暮らしでしょ。結婚するタイプじゃないって自覚しているから、ジャイアンと一緒にいるわけなんだけど、悪い人じゃないから、真剣に考えて答えを出さないといけないな、と思って」

「う、ん」

「結婚って、いい?」

突然、それもストレートな質問に戸惑う。

「明日香ちゃんさ、旦那さんのことで悩んでいるでしょ。ほら、結婚式で誓うじゃない。

健やかなるときも病めるときも、って。でも、実際、病めるとき、って後悔するのかなって」

答えられなくて紅茶を一口啜る。そもそも、キリスト式結婚式だったから、誓っていない。

「こんな時に、こんな質問して、ごめんね。でもね、明日香ちゃんの答えが一番参考になるんじゃないか、って思ったんだ」

千絵さんは意地悪をしているのではない。そもそも、そういうタイプではない。

「仕事もね、責任あることやらせてもらって充実はしているんだけど、結婚もしないで、このまま仕事ばっかり、って人生もどうなのかな、って思うのよね。明日香ちゃん見ていると、辛そうだけど、でも、夫婦で支え合って歳を取るのって、理想的だとも思うのよ。ただ、実際のところ、当事者はどうなのかな、って。私のまわりでも離婚したカップル多いし、結婚してないから、良く思えるだけなのかもしれない。大げさかもしれないけど、結婚する最後のチャンス、って思うと、悩んでしまって」

千絵さんは一通り言うと、緊張が少し溶けたのか紅茶を啜り、ケーキを一口ほおばった。お互い、頭の中で次に何を言おうか考えて無言の時間が過ぎる。

「二人だと、喜びは倍に、苦しさは半分になる、って言ったりするでしょう」

私が出来るだけ正しく伝えようと、ゆっくり話すのを千絵さんは頷きながら聞いてくれる。

「でもね、結婚して、色々あって、喜びは確かに倍になるけど、苦しさも倍になる、って感じたの。大切な相手が辛そうだと、私も辛い。相手の辛い話を私が一生懸命聞いても、その悩みが消えるわけじゃないし、苦しさは半分にならないと思う。でも、相手が嬉しいと私も嬉しいし、私が嬉しいことを相手が喜んでくれると、とても嬉しいな、って思う。」

千絵さんが難しい顔をしている。やっぱり、上手く説明するのは難しい。

「とても辛いよ。でも、私は後悔してないよ」

「そっかぁ、やっぱり、そうなんだね。明日香ちゃんらしいね」

千絵さんはスッキリした顔で残りのケーキを食べきり、紅茶を飲み干した。

「私、結婚しないわ」

「え? 何で? 私、結婚を後悔してないよ」

「うん、うん、もちろん、ちゃんとわかっているよ。私ね、彼のこと、それほど好きじゃないのよ。それは自分でもわかっていたんだけど、明日香ちゃんの話聞いてね、彼が辛くても、私辛く感じないな、って改めて思ったんだ。結婚して、もしも彼が何かの事情で借金でもして、生活が苦しいとか、嫌な思いをすることになったら、私、単純に彼のこと恨むだけかな、って思ったの。そんな大げさなことじゃなく、結婚が原因で、例えば彼の転勤とかね、そういうので今まで築き上げたキャリアに支障が出ても、恨んじゃうかも。それって、彼は良い人なのに失礼でしょう」

千絵さんらしい、といえばそうなのかもしれない。

「明日香ちゃんの話で決断する、ってわけじゃないから、気にしないでね。もう少し自分でも考えてみるし、他の人にも相談してみるかもしれないし」

「うん」

「明日香ちゃんさ、ちょっと変わったよね?」

「え?」

「何かね、強くなった。私は結婚もしてないし、もちろん子供も産んでないから、妄想しているだけかもしれないけど、大切な人を守るって、人を強くするんだと思う。明日香ちゃんが旦那さんのことでとっても大変なのに、こんな言い方するのって、勘違いされたくないんだけど、大変そうだし、辛そうだけど、でもね、明日香ちゃんは、一つ一つに向き合って、その度に少しずつ強くなっていっているから大丈夫、って思う」


 色々相談するつもりだったのに、結局、状況報告をしただけになってしまった。千絵さんも、遠慮しないで相談して、と何度も言ってくれたけど、言って欲しかった言葉は言ってもらった。

千絵さんと別れて、夕食の材料を買って、帰路につく。



いつもの道をとおり、四階でエレベーターを降り、廊下を右に曲がる。玄関には、引っ越した時にもらった「ウェルカムボード」が飾られている。

 裕さんが病気になって私の生活は一変した。今まで感じたことのない、不安、寂しさ、悔しさ、嫌悪を味わった。これからも予想もしないことが起こるのだろう。考えると胸が締め付けられるようだ。でも、きっと『大丈夫』。

 玄関の向こうで裕さんは何をしているだろうか。落ち込んで寝ているかもしれないし、何かに怒っているかもしれない。再就職先探しに没頭しているかもしれない。もしかしたら、お帰り、と泣きつくかもしれない。

大きく息を吸い、扉を開ける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

玄関の向こう側 明日香 @chameau

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ