両親

一度、布団に戻って横になったけれど眠れず、裕さんが動いている様子が気になって落ち着かなかった。それで食パンを齧って外に出ることにした。

 日曜日の駅ビルは賑やかだった。体も気分も重くて仕方がない私にとっては決して居心地の良い場所では無かったけれど、家の中にいるよりはましな気がした。とりあえず買うものも無いので時間つぶしに本屋に行き、まずは求人情報誌の立ち読みをした。

 雑誌を開いても文字が頭に入ってこなかった。幾何学的な記号を眺めているような感じだった。これからどうなるのだろう、と思うと涙が込み上げ、もはや記号は滲んでマーブル模様の紙を見ているようだった。

 唇を噛み締め、ぐっと堪えると涙はそれ以上出なかったけれど、周りの人が自分を怪訝に思って見ているような気がして仕方なかった。

 本屋を出て文房具店に行っても、やはり人目が気になって仕方なく落ち着かず、駅ビルに入って三十分も経たないうちに外に出た。

 何件か喫茶店を覗いたけれど入る気にはなれず、ロータリーのベンチに座ってみたけれど、知っている人が通るかも、と思うと五分も座っていられなかった。


人の流れに何となくJRの改札を抜けた。そしてとりあえずホームのベンチに座った。すぐに上りの電車が入ってきたけれど乗らずに見送った。沢山の人が改札の方へ流れていく。ベンチの私には全く興味を示していないようだった。

 本屋でもらった無料の求人情報誌を見ているふりを時々しながら、そうやって何本も電車と人を見送った。自動販売機でミルクティーを買って飲んだ。温かさと甘さが切なくて、また涙で視界が滲んだ。

 私は次に来た電車に乗った。そして実家へと向かった。父と母がいるかどうかは分からなかった。買い物に出ているかもしれないし、用事で遠出をしているかもしれなかったが、会えなくても構わなかった。ただベンチに座っているのではなく、どこか行く場所、目的地が欲しかった。何なら玄関まで行って、そのまま戻ってきても良いくらいだった。


 家から離れるにつれ、気分が楽になった。人に見られている、という感覚も薄くなった。かつて毎日行き来した駅から実家までの道を歩く。実家に来るのは約半年ぶりだ。途中、建築中の家があった。売りに出されている家もあった。どうして売ることになったのだろう? 私もマンションを売ることになるかもしれない、などと思いながら歩くと、十五分ほどの道のりはあっという間で見慣れた玄関が飛び込んできた。マーガレットやバラが咲いている。母は庭いじりが趣味だ。小さい庭だけれど一年を通しか必ず何か花が咲いている。

 駐車場に車は無かった。会うつもりで来たわけではなかったけれど、すぐ帰る気にはなれなかった。隣近所とは一応顔見知りだけれど玄関前でうろうろしていると不審者に間違われるかもしれない。近所を一周してこようかな、と門を出て駅と反対の方向へ歩き出した。

「明日香?」

振り向くと路地に母が立っていた。

「どうしたの?」

小走りで近づいてくる母は、驚いているというより心配している顔をしていた。

 父はゴルフの打ちっ放しの練習に出かけたらしい。母はスーパーまで乗せてもらい、買い物をして帰って来たところだった。

「何かあったの?」

熱いお茶を飲んで一息ついたところで母が尋ねた。

「裕二さん、どうかした?」

「うん、あの、・・・・・・」

手の甲が濡れたのを感じた。言葉より先に涙が落ちていた。目を固くつぶって、拳を握って涙を我慢しようとしたけれど、母が優しく肩に手を添えたのを感じたと同時に、私はしゃっくりあげて泣いていた。


 溜めていたものを吐き出すように今までのことを話した。泣きながら、感情が高ぶった状態で、支離滅裂な部分も多くて、上手く話せていないのは自分でもわかっていたけれど、話すのを止められなかった。母の顔がだんだん暗く辛そうになっていくのを見て、全部言わない方が良い、本当のことを言うことが正しくないこともある、と思ったけど勝手に口が動いた。

「裕さんと、ここに引っ越してきても良い? 落ち着くまで私たちを置いてくれる?」

母の顔が苦しそうに歪むのがはっきりとわかった。

「もちろん、食費とかは払うつもりよ、居候のつもりは無いの、私は出来るだけ働くつもりだし」

母は目を逸らした。

「お金は問題ではないの。もちろん、お金の問題もあるわよ。でも、それ以上に・・・・・・」

何かを言いかけて母は止めてしまった。

「お母さん一人で決められることじゃないわ。とにかく、お父さんに相談してみないとね」

「うん」

「お父さん帰ってくるのは夕方よ、疲れたでしょう、少し横になったら?」


母に促され、二階の洋間に布団を敷いて横になった。かつてここが私の部屋だった時はベッドを置いていた。今は勉強机も無く、幾つかの衣装ケースと買い置きのトイレットペーパーなどが隅に置かれている。

 今朝は十時頃まで寝ていたし、昼間から眠れないと思ったけれど、横になったらすぐに睡魔に襲われた。父に何て話したらいいだろう、ここに住めない場合はどうしたら良いだろう、と思って涙がこぼれたところまでは覚えているけれど、目が覚めたら部屋は暗くなっていて、時計を見たら五時をまわっていた。一時間ほど眠ったようだ。


 下に降りると父と母がテーブルに座っていた。父は私を見て『おっ』と言い、『まぁ、座れ』と向かいの椅子を指さすと母に『熱いお茶を出してやれ』と言った。

 それから母がお湯を沸かしお茶を出すまで、三人とも無言だった。時々父を見やると 父は新聞に目線を落としてはいたけれど、もっと遠くを見ているようにみえた。

 母が淹れたお茶を三人それぞれ一口啜って湯呑をテーブルに置く。お茶の表面に映る蛍光灯が揺れている。月に似ているな、などと関係のないことが頭に浮かぶ。

「お母さんに話を聞いたんだけどな、まぁ、その、どうなんだ? 引越さないでなんとかならないのか?」

「裕二さんが働けないとローンを返すのは無理。以前は貯金もあったけど、マンションの頭金でほとんど使ってしまったうえ今回留学とかで相当出費したから、生活費とローンで崩したら一年くらいしかもたないと思う。貸して安いところに越そうかな、と思ったけど、調べたら公庫の場合は人に貸すのは駄目なんだって。思い切って売ったほうが、気持ちに余裕が出ると思ったの」

「少し休んだら復職できるんじゃないのか?」

「私もそう思っていたけど、でも、無理、かもしれない」

「そんなに悪いのか?」

「わからない。先生は軽い適応障害、って言うけど、私は違うんじゃないか、って感じているの。休んだり環境変えたりしたら治る、って思えない。だったらもう治っているはずだと思う」

父が母の横顔をちらっと見た。

「お前が休んでいる間、少しお母さんと相談したんだけどな。どうだろう、ローンの分をこっちで払ってやれば、何とかやっていけるのか?」

「そんな・・・・・・」

「ずっと、って訳じゃない。それにあげるって言っているんじゃない。暫く貸すだけだ。裕二さんが元気になったら少しずつ返せばいい」

「でも、もしも返せなかったら?」

「まぁ、その時はその時だ。名義を変えるって手もある」

「ローンは月々十万もあるのに? 私はそこまでしてマンションを維持するつもりはないよ。もちろん、ここに住んでも負担をかけるけど、生活費は少し入れるつもりだし、家事も手伝うつもりだし。お母さんも、私がおばあちゃんの面倒を少し手伝えば気晴らしに出かけたりも出来るだろうし」

母のほうを見ると、母は私から目を逸らし父の方を見た。

父は肩で一息ついた。

「お母さんがな、不安なんだって」

「どういう意味?」

「その、な、心の病気の人と一緒に住むことに、だよ」

母は手元をじっと見つめるだけで何も言わなかった。

「生活費を入れる、って言っていたが、お前は働くつもりなんだよな? 俺もずっと家にいるってわけじゃない。裕二さんが元気になれればいい、でも、なれなかったらどうする? 母の世話だけでも十分お母さんは大変だと思う。それが、母と裕二さんの世話になると、負担は倍だ。それにだ、裕二さんにどう接していいか、お母さんはとても心配なんだ。心を病んでいる人には言ってはいけない言葉とかあるだろう。何気ない言葉が裕二さんを傷つけるかもしれない。その結果、その、なんだ、万が一、もしも裕二さんが生きるのが辛く感じたりした時とか、にだな」

私は何も言えなかった。私も最悪の状況を考えたことが何度もある。血のつながりのない、年に数回しか会わない義理の息子について、不安を感じるのは当然のことだ。

それでも、何だかとても悲しかった。自分の病気ではないとはいえ、結局、両親に迷惑をかけていることが哀しかった。また、裕二さんのことを、両親がそういう風に見ている、ということが切なかった。

「今日は突然きて、一緒に住みたいなんて言ってごめんなさい。大丈夫。何とかなると思う。失業保険とかも出ると思うし」

「そうか。そうだな。」

父は何かを口に入れているような、籠った言い方をした。

「実際のところ、治る見込みはあるのか? その、なんだ。別れる気はないのか? そんなに無理することないだろう。お前だってまだ若いんだし、人生まだまだやり直せるぞ、実家に戻ってきて再就職するのもアリだろう」

私は思いがけない言葉に固まってしまった。

父からは二十歳になったら家を出て行け、独り立ちしろ、親の責任はそこまでだ、あとは自分で何とかしろ、と言われて育ってきた。今回、裕二さんと一時的に同居したい、といっても、何を馬鹿なことを言っているんだ、二人で何とかしろ、一蹴されるかもしれない、と思っていた。

その時は、母に取り成してもらおうと思っていたのに、予想は完全に外れ、母が同居を拒み、父から離婚して実家で暮らしても構わないと言っている。親の愛情に胸が熱くなると同時に、心配や迷惑をかけてはいけない、という気持ちが湧き上がる。

「大丈夫、裕二さんは多分治ると思う」

私は努めて明るく言った。

「そっか、嫌なこと言ってすまなかったな」

父は何も無かったように新聞を読み始めた。

「お茶のお代りを入れましょうか」

席を立ってポットに水を入れる母の姿を何となく見る。いつもの風景なのだけど、父と母との距離が今までとは違うと感じる。

裕さんの病気は、裕さんと私との関係を変えてしまっただけでなく、私と父母との関係も変えてしまった。そして、これからも何かを変えていく、という確信と、自分の力の及ばないものに動かされる不安で胸が痛くなった。


 特に何を話す、というのでもないが、祖母も一緒に夕食したりしていたら、あっという間に八時を過ぎていた。改めて介護の大変さを感じた。母が同居を拒むのは当然で、今までろくに手伝わなかった私が、自分が大変になったから、と都合良く母に助けを求めたことを情けなく思った。


 見送らなくていい、というのに、母は通りの角まで一緒についてきた。そして、私がおやすみ、と言うと、ただ一言、ごめんね、と言った。

 五十メートル先の横断歩道を渡ったら、涙が一気に溢れ流れ出た。人目を気にしているのに、涙が止められない。外で号泣するなんて。自分の体なのにコントロールが出来ない。

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