第8話 十五夜お月さん、雲隠れ(3)
それから三日後の宵闇が迫ってきたころ、まだまだ暑くて、詩乃がいらいらしながら店の入り口横の小窓の格子を透かそうとした時だった。
「あ、よかった。詩乃さん、あたし」
という声に木戸を開ければおしまが中に入ってきた。
「どうかしたのかい?」
「いやね、ちょいとね、その、あんたの所に秘薬って売ってないかと思ってね」
「秘薬?」
「そう、こう、あれだよ、ほら。もう……情を交わすときに使うやつ」
「……、あ、あぁ。そう、よかった」
詩乃はそう言って薬店の並んでいる小上がりに上がり一つの引き出しから包みを取り出した。
「半分ずつを飲めばいいよ」
「半分で効くかい?」
「全部飲むと大変だよ、眠れなくなっちまう。半分でいい。味はショウガの味がするけど、もともとが苦いんでショウガの乾かした奴を一緒に居れているからだから、気にしないで飲んでいいよ」
「そう。ありがとう。お代は?」
「……、お代ねぇ。いくらか知らないんだ(そこんところは番頭任せだから)。だから、いい時にでもまた来ておくれよ」
「ありがとうね」
おしまは体中を紅潮させて駆け出して行った。辰吉が何とか勇気を振り絞ってつげ櫛を渡して成就したのだろう。よかったよかった。と詩乃は柄にもなくほっこりとしていた。
しかし、おしまの相手が辰吉がではないと知ったのはそれから十日後のことだった。
番頭とおしまの小料理屋へ出かけて行った時だった。辰吉が一人ふてぶてしく酒を飲んでいたので声をかけると、つげの櫛を渡す間もなくおしまは誰だかいい人ができたのだとほころんだというのだ。
「いらっしゃい」
おしまが海苔の佃煮を持ってきた。
「ねぇ、さっき聞いたんだけど、いい人、って誰だい? あたしはてっきり辰吉さんかと、」
「たつきっつぁん? バカ言わないでよ。あの人じゃないわよ。内緒よ内緒」
「なんで内緒? まさか、イケない相手じゃ、」
「あぁ、そうじゃないのよ。……あとで話すわ」
おしまが以前にも増していい女っぷりになっているのは確かに相手の男のおかげだろう。だが、なぜ人前で名乗れないのか、詩乃はふてぶてしく酒を飲む辰吉のほうを見たが、とっくりが空になると金を置いて出て行った。
失恋したのに未練がましく店には顔を出す。こなきゃいいのに。と他人以上に思って堪えてるんだろうなぁ。という背中を見送った。
暖簾を下ろし、戸を閉めると、おしまは詩乃の向かいに座った。
「それで、相手ってのは?」
普段の詩乃ならばこんな話の切り出しはしない。相手が話し出すまでずっと黙っている。話しかけるなど労力も無駄だとすら思っている。―だから店を番頭に任せっきりなのだ―だが、秘めた恋。というようなものをしている女は聞いてもらうことがうれしくてしようがないのだ。だから、あえて聞く。
おしまはうふふと色っぽく笑ってから、
「芝居見に行ったでしょ?」
「まさか、梅の介?」
「違う、違う。梅の介は美人だけど全く面白くない男よ。そうじゃないの。その芝居小屋に新さんて人が居てね。その人なの」
「なんで内緒?」
「あぁ、自分は見習いだから、梅の介より先に女ができたなんて知れたら、親方や兄弟子たちに責められて別れさせられる。黙っていようって言われたのさ」
なるほど。という理由だが、それが本当だとは思えなかった。
「それで、新さんてどんな人?」
おしまが黙って詩乃を見返す。
「あのねぇ、あたしは人の男を取るような女じゃないし、……正直どうでもいいのだけど、聞いて欲しいだろうなぁと思ってね」
と仕方なく聞いているのであって、興味はない。と言われると、聞いて欲しい秘めた恋をしている女は言いたくなる。ものだ。と以前番頭が言っていた。
「いい人よ。顔は梅の介ほどじゃないけど、優男なんだけど、実はがっちりした体をしていてね、まぁ、とにかくいい男なのよ」
と言った。顔の特徴、背格好、いろいろな細かいところはおしまの中になかった。不思議だが、ほだされている間は相手を観察しないようだ。それがある日観察を始め、二つ良い個所を見つけても、一つの嫌な箇所で熱が冷める。まだまだほだされている時なので、良いも悪いも、「いい人なのよ」で集約してしまっていた。
おしまが幸せそうなのが一番だが、どうも、米屋の娘たか子の使用人のおみつが消えた理由が、芝居小屋だったからなのか、芝居を見に行って感じた嫌な感じが抜けないからなのか、どうにもこうにもいやな気だけしかしなかった。
それから数日後、八月も半ばに入り、盆も送り終えて、少しは風が吹き出してきた。
食中りの連中も症状が落ち着き、治った人がひどく神経質に加熱処理をしたおかげでそれ以上の被害もなく落ち着きそうだった。
店には暑気予防の飴を買いに来る客が増えつつあり、運び屋が三往復してくるほどになっていた。
詩乃はその夜も小窓の格子を開けると、おしまが同じように声をかけてきた。
木戸を開けると、おしまは旅の格好をしていた。
「ど、どうしたのさ、その格好」
「逃げるの」
「逃げる? なんで? どこへ? どうして?」
「新さんがね、このままここに居ても一緒にはなれない。弟子奉公の年季を待っていられないから、このまま逃げようって。新さんの田舎、長崎なんだって、だからね」
「ちょっと、ちょっと待った。え? なんで? 駆け落ちするってこと? 店は?」
「大家さんに頼んで処分してもらうことにしてる」
「で、新さんと、今から? 関所はもう閉まっているし、開くまで関所で待たなきゃいけなくなるよ?」
「関所を破るのよ。いくらでも方法があるんだって。行かなきゃ。一応詩乃さんには縁があったから、この格子が開けば話そうと思ってたんだよ」
「じゃぁ、開けなかったら、黙って行ったってことかい?」
「もう、行かなきゃ」
「ちょっと待って、薬を、」
詩乃が小上がりに上がった瞬間、おしまは外へ走り出て行った。外で男の声がしているが話の内容は解らない。ただ、おしまの返事から、「知り合いにでも何か言ったのか?」というようなことを言っているのだろう。おしまが、
「あんたが来るまで隠れていたのさ。誰かが居るもんですかね。内緒だもの。道の真ん中で立ってたら怪しまれると思ってさ。それに、こんな夜に知り合いところへなんか行けないよ」
と言っている。詩乃は下手に出て行けず、かといって、こういう時に限って傀儡師も、運び屋の気配も感じられない。
「何やってんだ、あの二人は、役に立たない」
どうなるか解らないが、詩乃は意を決して外に出たが、ほんの少し前までそこにいたらしい二人の姿は見えなくなっていた。辻を横切り、通りまで出たのに人っ子一人いない。
詩乃は一画分探して歩いたが二人の姿は見えなかった。長崎へ行くというのならこっち方面へ向かっただろうと思われる方向の、橋まで出てみたが、姿はなかった。
―どこから、どこへ行った?―詩乃の心に焦燥感が沸き上がる。
翌朝、番頭はいつものように店に来て木戸を開け放つと、すでにキセルをふかして座っている詩乃に驚いた。
「な、び、
番頭はすぐに返事がないので詩乃のほうを見た。詩乃は苦虫をつぶしたような、眉間にしわを寄せて険しい顔をしていた。
「どうしたんですかい?」
「おしまさんが、新さんて芝居小屋の男と駆け落ちした」
「はい?」
詩乃がキセルを打ち付ける。
「いや、でも、おしまさんは大工の辰吉さんと、あ、でも、この間、別の人と恋仲になったんでしたっけ? え? でも、なんで駆け落ちって、」
「芝居小屋の見習いなんだそうだ。そいつが、このままいても一緒には居られないから、逃げようと言い出したって」
「え? それで、どうしたんですか?」
「すぐに追いかけたが居なかった。どこにも」
「二人が消えたと?」
「あたしが探していた別の道から行っちまったんだろうね。男の話し声にすぐに飛び出ていけなくてね、躊躇せず行きゃよかった。いやな予感しかしない」
「でも、詩乃さん一人が飛び出て行って、駆け落ちをやめたとは、」
詩乃が頭をガシガシとかきむしる。
「おはようさんです」
運び屋がやってきた。詩乃はきっと顔を上げ、「なんで昨日いなかった」と怒鳴った。
「いなかったって言われても、あっしも家に帰りますよ。夜は、」
詩乃が言い得ない怒りにキセルを何度も打ち鳴らす。
「それじゃぁ、その小屋へ行って聞いてきましょう。新さんてやつですね?」
運び屋がすっ飛んでいった。
一刻ほどして運び屋が帰ってきた。
運び屋の話しのよれば、芝居小屋には新さんと呼ばれる男はいないが、新吉。という男はいる。だが、うだつの上がらない男で、おしまが言ったような男ではなかった。
芝居小屋の男衆の中でいなくなった者はいなくて、誰もおしまを覚えている者さえいなかった。
「うちはねぇ、こう見えて繁盛しているんだ。大きな声じゃいないが、御客一人一人を覚えていることなんてないんだよ」
そりゃそうだ。と納得する。
となると、おしまはいったいどこの「新さん」と駆け落ちをしたのだろう? 長崎へ行くと言っていたが、長崎へ行ったのだろうか?
「また、長崎か」
詩乃がつぶやく。
「こう、周りで何度も同じ言葉を聞くと、やっぱり気になるよね」
「そうですね。そういえば、行ったんですよね? 長崎屋。どうでした?」
「どうって、普通のお
「同じ目でしたか?」
「さぁ、そこまでは……それ以外は、別に変っているとは思わなかったが、」
「なんだかこうも、長崎だとか、芝居小屋とか聞くと、関係ないかもしれないけど、気になりますねぇ」
番頭の言葉に頷き、詩乃はキセルを打ち叩くのをやめた。
「かといって、何かできるわけじゃないしね」
詩乃は歯がゆそうに言った。
こうなると、おしまがその新さんと仲睦まじく暮らしてくれることだけを祈るまでだった。
それから、数日は、ただただ暑い日が続き、詩乃ではないが、番頭も、
「暑さで体がまっすぐになりませんね。暑さで押しつぶされそうです」
というほどの暑さが続いた。
「夏も、名残惜しげに最後の仕事って踏ん張ってるんだねぇ」
詩乃が厭味ったらしくそう言って団扇で扇ぐ。
「こういう時は、怪談芝居でも見に行きますか?」
番頭の言葉に「あほらしい」と詩乃が答える。
「いいじゃないですか、一度行ったんでしょ?」
「面白くなかったよ。別段怖いこともなかったしね。演出はよかったと思うが、それも最初だけ、付いていた明かりが一斉に消えて、闇の中で会話ってのはゾクゾクときたが、それ以降は、梅の介が出た途端、わーだの、きゃーだのが多すぎて、気が散ってね。それに筋は単純だし、梅の介からは女の情念というような芝居がなくてね」
「ほぉ、いつからおめぇ評論家先生になったんだ?」
坊主が頭を手ぬぐいでほっかむった状態で入ってきた。
「坊主が何の用だい?」
詩乃が嫌なものでも見るような顔をする。
「そういうなよ。お前さんが以前言っていただろ、小菊だったか、あの女が居なくなった時に、ほかにも身寄りのない女が居無くなっているって。昨日一人無縁仏でうちに来た。本当なら、別の寺に行くんだが、そこが今んところ手ぇいっぱいで、っていうんで引き取ったんだが、名前はいち子。芸者上がりの一人もんだ。別段、最近一人もんの仏さんが増えているわけじゃないし、そんなことで此処になんぞ来ねぇが、薬屋の頼みでよ、夜な夜なうるさいやつらが出て困るから、念仏の一つでも唱えてくれたら、「出る」から逃げるって言われて、庵に行ったのさ。―あんたの案なんだろ? 薬屋が思いつくわけないからな―それで薬屋に言って酒飲んでるときに―煩いなぁ、俺が生臭だってのは今更の話しだろうが、黙ってろ―薬屋が、騒いでいる連中には、妙な薬を常用していて見境がないから、取り押さえるのも一苦労だと話して、そんな薬を使い続けたらどうなるのかを聞いたんだ。食が細り、幻影と、幻聴で神経がすっかりやられるから、骨と皮だけになって、眠れないから目ばかり大きくなる。とか。それで、昨日、その、いち子って仏さんが、まさにそれだったのさ。役人によれば独り身で、しばらく姿が見えないから餓死したんだろうと言ったが、餓死と違うって気がしてさぁ」
坊主は一気にそう言って詩乃のほうを見た。
「興味ないか?」
「……その女のことも、小菊姐さん話していたね。急に痩せたって。夏負けにしちゃひどすぎるって。……なんだか、イライラするほどいろんなことが周りで起こってるね。他所でやってくれよねぇ。まったく」
詩乃はそう吐き捨てた。
「それにしても暑いなぁ。秋になってるはずなのによぉ」
「それは暦の上ですからね。まだまだ残暑厳しいようですよ」
坊主と番頭がふぃふぃと話をする。
「こう暑いと、暑気払いに、今はやりの南蛮怪談芝居なんぞ見て、涼んで帰ろうかと思ってさぁ」
「詩乃さんいわく、面白くないそうですよ?」
「何? 詩乃おめぇ、どうしちまったんだ? そんなもの見に行くような柄じゃないだろ?」
「ちょっとした話の流れだよ」
詩乃が不機嫌そうに言う。
「筋が悪いだの、芝居が下手だのなんだのと文句言ってたんですよ、」
「あぁ、それがさっきの話しか。でもよぉ、評判だっていうじゃないか」
「というか、坊主、お前の庭のほうが怖いんじゃないのかい? 本物なんだから」
「……違いねぇなぁ」
坊主が笑う。詩乃は鼻で笑い、
「でも、なんで幽霊ってやつは白い着物着てんだろうかねぇ? 西洋の幽霊だって白い服だ」
「あ? そりゃお前、棺桶に入れる際に白いの着せるからだろ?」
「いや、西洋では、死者が好きだった服を着せて埋葬するよ」
「そりゃ、……確かに、一人もんの無縁仏の連中はそのままか、下手すりゃ運搬人が服をはぎ取って素っ裸だ」
「それはあれじゃないですか、黒い服だと、夜なんで見えないから。じゃないですかね?」
番頭の言葉に詩乃と坊主は少し間を開けて、「なるほどねぇ」と同時に言った。
夕方。詩乃が頬杖をつきながら鼻を鳴らした。そして立ち上がると、「適当に閉めて帰って」と言って外に出た。番頭が外を見れば、白髪の腰の曲がった男が立っていた。番頭は納得すると店の中に隠れるように戻った。「あの人には関わってはいけない」。番頭はその日の作業を無難にこなし、戸締りをして帰った。
詩乃を迎えに来た男は詩乃の少し前を歩いていた。詩乃は黙ってそのあとをついていく。人気のない竹林の小道に来て、「やっと、涼しい風が出てまいりましたなぁ」と、男が言った。
「そうね」と詩乃が返事をする。ただ、それだけの会話。
そして二人は竹林の奥の方にある、
庵にはすでにぼんやりと明かりが灯っていた。男に案内されて、奥座敷へと行く。
「こんばんは」
詩乃はそう言って部屋に入る。そこには身ぎれいな女が座っていた。詩乃にどことなく似ているので血縁関係がありそうだった。
「暑いわねぇ」
とりあえずと言って、アユの甘露煮が主役の夕食を食べる。「相変わらず贅沢な善だ」という詩乃は鼻で笑い、更科尼は箸を進めた。
夕食の膳が片付けられ、食後のお茶として更科庵がお茶をたてる。
夜の風が吹いてきて、涼しい。
お茶を飲み、茶器を置く。
「それで、何の御用です?」
やっと詩乃がそういうと、更科尼は
「あなたに頼みたいことがあってね」
と切り出した。
「私の知り合いに篠塚様という方がいらっしゃるのだけど、その方がどうにもこうにも気に病んでいてね」
「篠塚様?」
「
「その方が?」
「……その方が心配をなされていて」
「なんのです?」
「その方の幼馴染の娘さんが行方知れずなの」
「はい?」
「もともとはね、お嫁に行くと言って長崎の方に嫁いだようだけど、その方は体が悪くていっしょに行けなくて、それで、しばらくして、着いたかどうか文が欲しいと文を送ったら、そんな人はうちに嫁に来ていないし、知らない。って返事が来たというのよ。仲人してくれた人に聞いて、ちゃんと送ったのに。仲人した人も、信用のおける人に、こういう人が居たら紹介してくれと頼まれて、お嬢さんを紹介して、向こうが気に入ったからって、話を進めたって」
「……、
詩乃は更科尼を蘭子さんと呼ぶ。
「知ってますよ。でも、あなたの良い人にいるでしょ、そういうことを仕事にしている人が、」
更科尼の言葉に詩乃がふてぶてしい顔をする。
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