第7話 十五夜お月さん、雲隠れ(2)

 詩乃は通りを歩いていた。暮れ六つとはいえ、夏の夕方なんぞまだまだ暑く、詩乃は不機嫌極まりない顔をしていた。

 いろんなところの長屋で食中りが発生し、小早川療養所からの依頼で往診の手伝いをさせられて、長屋巡りから帰っているところだったのだ。

「あったまに来た」

 詩乃はそう言って暖簾を叩くようにして、近くにあった小料理屋に入った。

 こじんまりとした店だったか、愛想のいい女将の作る料理のいい匂いがしていた。女将は海のほうの出だそうで、実家から届けられる昆布だの、小魚だのの出汁の匂いが立って、店全体がおいしそうな印象を受けた。

「見ない顔ねぇ」

「すぐそこのどぶ長屋―どういうセンスだか、名前にどぶなんてと思うが、大家がつけたので文句は言わないが―そこに往診に行っていたんで」

「お医者か?」

「いや、……小早川先生の、まぁ、元同僚」

「へぇすごいねぇ姐さん。あぁ、あたしはこの店の女将で。姐さんは?」

「詩乃」

「へぇ、詩乃さんね。どこで開業してるんだい?」

「開業はしてないけど、六薬堂って薬屋をやってる」

「あ、あぁ。あんたかい。けったいで有名な薬屋の女将ってのは」

 おしまは豪快に笑い、詩乃の前の席に座った。

「そりゃなりは奇抜だけど、けったいってほどでもないよねぇ。美人だし」

「ありがと。まぁ、女が一人で店を持っている。てことがけったいなんでしょ」

「はぁ、度量の小さい男ばかりだからねぇ。世の中」

 おしまはそう言って詩乃の肩を叩き、注文した冷茶漬けのほかに、魚の甘露煮をごちそうしてくれた。

 居心地のいい店で、詩乃は入った瞬間から気に入ってしまった。それから、時々番頭とも来るほどになっていた。

 そしてこの夏も、一人で長屋巡回の後立ち寄った。

「お疲れさん。長屋は大変らしいねぇ」

「あぁ、みんなが食中りでね」

「この時期、どうしても食べ物が痛むからね」

「加熱処理と、その日のうちに。が守れないからね」

「そりゃこのご時世だもの、数日食べれるならそうしたいし、こう暑いと、火の側は避けたいからね」

 詩乃も同意はするが、食中りになって苦しむくらいならと、自分で食事の用意をしない癖に言う。

 その日も魚の甘露煮は甘辛くて色つやもよかった。

「おしまさんの甘露煮は本当においしいねぇ」

 そういうと、おしまは顔にしわを寄せて笑う。

 その日は巡回が遅くなったし、すでに日暮れてきていたのでおしまは早々に暖簾を下ろし始めた。

「あ、じゃぁ、あたしも」

 と詩乃が立ち上がるのを制して、店を閉めてから二人で飲もうという話になった。そうなると、店の片づけを詩乃も手伝う。

 ほんのりとした行燈の明かりを一個だけつけ、そのそばで向かい合って座る。

「もうちょっと涼しくなってくれりゃぁいいのにねぇ」

 と夜風のまだ吹かない外の闇を見る。

「ここは入り込んだ場所だから、風がなかなか吹かなくて嫌になっちまうよ」

 おしまはそう言っておちょこの酒を注ぐ。

 詩乃はそれをもらい口をつけながらおしまを見て、

「今日はおしまさん、なんだか色っぽいねぇ。なんかあった?」

 詩乃の言葉におしまは少し視線を外してから、それからウフフと笑った。

「何? いい人ができたの?」

「そうじゃないよ。そうじゃないけどさぁ。……あんた、南蛮芝居って知ってるかい? 行脚芝居小屋の、」

 詩乃は酒を飲んでいたが、咳き込みそうになったのを平静を装っておちょこをつくえに置いて、おしまを見た。

「あぁ、何とかって寺の側の? 今はやりの怪談物の?」

「そう。やっぱり詩乃さんも女だねぇ。あれはやっぱり見とれちまうよね」

 おしまの言葉に詩乃は「梅の介のこと?」と聞き返す。

「残念だけど、あたし見てやしないんだよ。この前評判だっていうから、行ったらさぁ、その日の興行終わりっていうんだよ」

「あらぁ、じゃぁ、見てないのかい?」

「そうなの。面白かった?」

「……筋は、正直面白くはないわね。ありきたりなものよ。男に捨てられて川に身を投げて化けるっていう話。だけど、その梅の介がそれはそれはいい男でね、」

「そうらしいねぇ。見てみたいんだけどね、夜の興行は出ていくとなると面倒だし、」

「それなら、今から行く?」

「今?」

「そう、実はさぁ、詩乃さんが知らないなら連れて行こうと思ってたのさ。どう?」

「どうって……、いいねぇ。どうせ帰っても一人暑いだけだし、暑気払いに同行いたしましょう」

 芝居がかった口調でそういうと、おしまは声を出して笑い、そうと決まったらと、二人はさっそくと出かけた。

 冬の夜と違い、何となく明るいのは、みんな風を通すために格子が少し開いていて、中からほんのりと明かりが漏れているからだろう。

 人気がなかった通りに、芝居小屋が近づくにつれて人が集まってきた。芝居小屋にそわそわと入っていく女たちの多いこと。中には男もいたが、連れの女が女房だか、恋人だかが入れ込んでいるのが気に入らなくてついてきているという顔をしていた。

 芝居小屋は行脚興行小屋らしくゴザを敷いただけの客席だったが、壇上とその後ろの仕掛けなどの場所はちょっと手の込んだつくりに見えた。

 ゴザに座り、何となく周りを見る。松明を二つと、ちょうちんで明るくしていることが、かえって不気味を演出するようだった―あれがすべて消えると、一瞬でも真っ暗闇が広がる。目が慣れる前に壇上のろうそくに映された役者に目を奪われれば、いい具合にゾクッと清涼を得るだろう―

 舞台袖辺りで二人分の目が見えた。客入りを確認しているのかもしれないが、どうにも嫌な印象を得る。

 かち―ん。と陶器同士がぶつかるような音がした。風鈴とかではなく、皿がぶつかるような、奇妙な印象を受ける音だ。途端、松明は幕の外に出て行き、ちょうちんの明かりは消え、壇上に細く揺らめいているろうそくだけが残った。

 男の声で「えぇい離せ。離せというておる」という声がして、次いで、女の声で「どうか、どうかわたしを捨てないで」という声だけがする。女が男にフラれるというシーンのようだ。だが、声だけというのが、空恐ろしく感じる。

 銅拍子チャッパの乾いた音がする。

 真っ白い着物を着た梅之助演じるお恋が、飛び込んだ川から這い出てきて、幽霊となって男のもとに復讐に向かうようだった。

 確かに話の筋はありきたりで、面白みに欠けたが、梅之助の透き通るような肌の女形は、確かに見惚れてしまうところだった。

 だが、きれいだとは思うが、隣に座っているおしまや、そのほかの女たちのように熱狂するほどじゃないと詩乃は思った。あの女形の目は男だった。女の目ではなかった。そう感じた。だから、詩乃は白けていた。おしまの手前、よかった。とは言ったが。


 翌日、番頭にその話をする。

「見に行ったんですか? 詩乃さんが? 出歩くことが嫌で嫌で仕方なく、芝居なんて窮屈に座って自分の時間を削るようなもんの何がいいんだか。と言っていた詩乃さんが、芝居を見に行ったと?」

「そこまで珍しくはないだろうが、」

 番頭はわざとらしく外へ出て行き、「嵐が来ますかね? それとも雪が降りますかね?」と言った。

 詩乃は鼻を鳴らしてキセルをふかした。

 そして、その日の夕方、ひどい夕立で前が見えないほどだった。あっという間に通りはぬかるみ、泥跳ねを警戒してひざ丈の板を出入り口に横に渡す。客が来たらそれを横にずらして入ってもらうが、この雨では客も来ないだろう。

「いやぁ、本当に降ってきましたね」

 番頭のイヤミに詩乃はキセルを打ち鳴らしながら、「店、閉めるか」と言う。

 そういうと雨が上がったが、もう時間になったので店を閉める。

 詩乃がおしまの店に行くというので番頭も同行して、二人で店を訪ねた。

「いらっしゃい。あら、番頭さん。お久しぶり」

 愛想のいい番頭はおしまが居る台所の境の格子のところで話を始める。詩乃はそのまま一人席に着く。

「あれ、ねえさんの連れかい? いいのかい?」

 大工の風体の男が詩乃に話しかけてきた。

「いいって? 何が?」

「いやぁあんたの色が、」

 というので、詩乃は首を振り、「あれはうちの店の番頭でね、いがいにも料理上手で、おしまさんに手ほどきをしてもらうのが好きなんだよ」

 男は詩乃と番頭を交互に見たが、首をすくめ詩乃の前に座った。

「おらぁ、大工の辰吉ってもんだ。変に疑ってすまなかったねぇ」

「構やしないよ。あんたがおしまさんを思って言ったんだろうしね」

 辰吉は、椅子を後ろに倒しながらがばっと立ち上がり、声になっていないが、口をパクパクさせた。

「何してんのさ、詩乃さんが迷惑してるじゃないか。本当に無粋な男だねぇ」

 おしまが甘露煮を持ってやってきて、辰吉に向かって顔をしかめた。

「違わぁ。……違う」

 すとんとおとなしく座ったが、詩乃の目から逃げるように顔をそむけた。

「まぁ、あんたが苦労しているのはよくわかったけどね」

 詩乃の言葉に辰吉はしばらく口を固く結んでいたが、しばらくして深くため息をついた。

「そりゃ、俺だって、こう、なんというか……俺は、ほら、小まい自分から大工一筋で、それ以外の取り柄がないから、今はやりのものとか、そういうのがまるでわかんなくて、確かに、その、何だ……そうなんだよ」

 辰吉の言葉に詩乃はくすりと笑い、

「それならさぁ、あたしと一緒に行くかい?」

「行くって?」

「今はやりの長崎屋で、しゃれたものを買うんだよ。それをあげればさぁ」

「お、おお。長崎屋。確か、流行りだったな」

「じゃぁ決まり。あんたが仕事の合間にうちに来ておくれよ。六薬堂っていえばわかるかい?」

「あ、あぁ。あそこのけったいな女将かい、あんた」

 詩乃は―また、けったいだと言われた―と思いながら頷いた。


 翌日、辰吉は昼過ぎに律義にやってきた。

 詩乃が真昼間から出ていくので、番頭が「雨が降る、雪が降る、今度こそ嵐が来る」と言ったが、

「マリちゃんに行ってもらうのが一番だったんだが、例の件で長唄の師匠のところへ行ってもらってるし、運び屋じゃぁようにならないだろ?」

 と言われ番頭が納得した。

 だが、外へ出たはいいがすぐに後悔するような日差しに、詩乃は蛇の目傘をばっさと広げた。

「そんな傘、」

 と辰吉が言うのを「まぶしいんだよ、あたしには」と歩き出した。辰吉は、晴れの日に傘をさす妙な女と歩くことに抵抗があるのか、少し離れたところを歩いた。―絵日傘ならいいんだよ、なんだって、蛇の目傘なんだろうかねぇ、あの女は?―

 長崎屋の軒先に入って、やっと詩乃は傘を閉じ、大きく息を噴出した。

「いらっしゃいませ、どうぞ、冷たい水でございます」

 店のものがそう言って湯呑をのせた盆を差し出してきた。詩乃も辰吉もお互いの顔を見合わせた。

「この店はこんなことをするのかい?」

 詩乃の言葉に、「暑いですからね、涼んでからごゆっくり品定めをしていただきたいので」と愛想よく笑った。

 そういうことならと水を飲み、ふぅと一息ついて湯呑を返してから

「さてさて、どういったものにする気だい?」

 と辰吉に聞いた。辰吉は腕を組み、店に並んだ品物を眺める。

「見てるだけじゃぁ買えないよ」

 詩乃の言葉に辰吉は唸る。

 詩乃は辺りを見渡す。「あれはどうだい?」そう言って店の奥にあった巾着袋の側に行く。しじらの布を使った高級品だった。藍の深い色に丁寧にがでていた。

「いやいや、そりゃ、俺には手が出せねぇ」

「そう? 似合いそうだったけどね、じゃぁ、こっちの巾着は、少しは安いよ」

「い、いやぁ。それも、ちょっと」

 辰吉は頭を撫でて汗をぬぐった。

 詩乃は肩で息をつき、「じゃぁ、いくらのものにする気なんだい?」

「ほどほどで、あんまり高いのは、でも、でもよ、安いのもさぁ」

 詩乃は眉をひそめ店の中をゆっくりと歩く。店内の壁にもかかっている商品をじっくり眺めたり、手に取ったりする。

「かんざしにするかい?」

 あれも高い、これも高い、それは安すぎるという辰吉に詩乃が呆れながら言う。

「かんざしってぇのはよぉ、誰でもくれてやるだろ?」

「さぁ、あたしの頭にはないけどね」

 辰吉が詩乃のおかっぱ頭を見て黙る。近くにあった玉かんざしを手に取る。

「それが無難だろうよ」

「それが嫌なんだよ、無難とかって」

 辰吉の妙なこだわりに詩乃が嫌そうな顔をする。

「あら、これいいねぇ。あたしに飾れるほどの髪があれば、似合ってただろうねぇ」

 詩乃がかんざしを一本手にして頭に刺したような恰好を取って鏡をのぞく。かんざしは弦を彫った銀のかんざしだった。鏡の前で頭を動かしてかんざしの具合を見ていたが、ふと鏡の中の男と目が合う。

 詩乃がゆっくりと振り返れば、小上がりになっているところに男が立っていて、詩乃の後ろから鏡をのぞいていた。

「お気に召したようで、」

 そういう声が低く愛想がいい商売人らしい顔つきだったが、詩乃はどうにも好きになれなかった。

「気に入ったけれど、あたしには飾る頭がないからね。残念だよ。それよりさぁ、流行りのものって何かあるかい?」

「と、申しますと?」

「いやねぇ、この人が好きな相手に送りたいんだけど、高いものは買えない。かといって安いものも、かんざしなんて芸がないとか言ってね、年はあたしぐらいでしっとりとした美人なんだけど、何かいいものないかね?」

「そうでございますねぇ。お客様のような美人と申されるのでしたら、……長崎で流行っております根付でございます」

「根付?」

 詩乃が眉をしかめて声を上げる。

「ただの根付じゃございませんよ、ちょいと嗅いでごらんなさいな」

 そう言って根付につけられたとんぼ玉を差し出された。詩乃がそれに顔を近づける。

「伽羅?」

「さようでございます。よくご存じでしたなぁ」

「まぁね、……へぇ、これは面白いねぇ」

 詩乃は根付を手にしてまじまじと見た。とんぼ玉の中に伽羅木が入っていて、かすかに匂ってくる。

「これはいいもんだよ、どうだい?」

 と言ったが、辰吉は首を振った。

「もう、なんだか、好みに煩い男だよ」

 詩乃はそう言って小上がりのふちに腰かけた。辰吉はそんなことなどお構いなしに店内を探した。

「お客様はご自身のものはお買いになられませんで?」

 と聞かれ、詩乃は「そうだねぇ」と首をかしげながら、

「これと言って今欲しいものは……、あぁ、数珠だな」

「数珠? で、ございますか?」

「そう、近く、あぁ、いや、めったなことを言うものではないけれどもね、知り合いのばあさんがそろそろだと言われているんだよ。でも、以前に買った梅のやつがね、どこかにいっちまったらしくってね、探してもなくて、もう、暑いだろ、探すのも面倒だからこの際だ、買おうかと思っている。ぐらいだなぁ」

 詩乃が言うと、店の者は少し笑いながら、「うちには数珠は取り扱いがないもので」と言った。

「そりゃそうだ。もう暑くて、頭がぼーっとしてさ」

「本当にあつぅございますね」

 と世間話に話が変わった。

 辰吉は腕を組んでしかめっ面をしたまま動かなくなった。詩乃は呆れたようにため息をついて辰吉の側による。

「何を迷ってんだい?」

「この手鏡」

「……あら、いいじゃないか」

「それと、この、つげ櫛なんかいいかと」

「へぇ、いいねぇ。どっちにしても喜ぶよ」

「そう、そうかい?」

 詩乃がうなずくと、辰吉はじっと考え、櫛を買った。

 辰吉は店を出てすぐに詩乃に礼を言い、走って仕事場に戻り、詩乃は蛇の目傘を指し広げて、ふぅ吐息をついて店へ戻っていった。













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