7-4

 部屋の電気が点くと、いよいよもっていつものアトリエだった。

 絵を描く頻度が極端に減ったものだから、あまり汚れも目立たない。ナユタが掃除したときのままだ。

 部屋の隅で眠っていた黒猫が、とことことマイの足下まで寄ってきた。彼女の飼い猫なのだという。

 足をかがめて、マイは優しく黒猫の頭を撫でた。ぐるぐると喉を鳴らす音が聞こえた。

「好きなものを好きなように描くのが大事、って竜水さんは授業で言っていたよね。でも、好きって何? 先生」

「……なんでも。近くにあるときに、逃げたいって思わなければ、それは好きなものじゃないかな」

 縛られている状況にも馴れてきて、俺は割と真面目にそう答えてみた。

 マイは満足そうに頷いてくれた。

「じゃあ、私はこの子を描きたい。描いていい?」

 黒猫の身体がひょいと持ち上げられる。

「コツとか教えてね」

「と言われても」

「何か思いついたらでいいよ」

 黒猫はテーブルの上に置かれた。マイが待つように何度か口にする。伝わっているらしく、猫は欠伸をかいて、丸まった。

 道具の使い方は授業でも教えてある。

 絵の具をパレットに絵筆で広げて、溶かして、混ぜ合わせる。好みの色が作られたら、キャンバスに塗る。基本はそれだけだ。細やかな技法は数あれど、細かいことまで教えるつもりもない。

「重要なのは、よく見ること」

 マイの小さな背中と、その向こう側のキャンバスを見ながら、俺は言った。

「自分の好みよりも前に、その対象をちゃんと描くこと。こんなことしか言えないけど」

「うん、できそう」

 マイは意気揚々と絵筆を走らせた。

 基本は黒。たまに灰色が混じり、毛並みが整えられていく。あたりはとらず、その場その場で色が積み重ねられている。

 開始早々に、ほうっと俺は呟いた。思ったよりも悪くない。むしろ、技法としてはかなり安定している。

 丸まった猫の胴体があっという間に形づくられた。

「上手い」

 思わず立ち上がりそうになって、椅子ががたがたと揺れた。

「本当に初めて?」

「初めてだよ。でもただの映像のコピーだけど」

「それでもまとまってる」

 そうかな、とマイは続けて、頬を膨らませた。うれしさまでは隠せていない。

 再びキャンバスに向かい合ったマイは、「ねえ竜水さん」と話を始めた。

「どうして私は絵画教室に隠れたと思う?」

「俺に近づくため?」

「それもあるけど、それだけじゃない。竜水さんを捕まえるように頼まれたら、いつでもできたんだから」

 言われてみれば確かに、と俺は物騒さを脇において納得してしまった。

「私がわがままを言ったの。人が絵を描く姿を見たいから」

 マイが顔だけを俺に向けた。

「ずっと、描きたかったんだ。言葉じゃ言えないこととかも、絵とか、音楽とか、そういうもので表現できるんじゃないかって思って」

 マイの顔が再びキャンバスに戻る。

 絵筆はなかなか動き出さない。

 この子は何を考えているのだろう。

 そんな疑問は浮かんだけれど、口には出さなかった。

 絵を描きたいのなら見届けてあげたくなった。

「今は描けそう? ただの映像のコピーでなく」

 少しだけ踏み込んだことを聞いた。

 マイは背筋を伸ばして、絵筆を握りしめた。力が籠もっている。

「頑張りたいな」

 穏やかな口調ではあったけれど、翳りが宿っていた。

 しばらく、マイの絵のできあがる過程を見つめていた。

 形取りが概ね終わって、綿密な書き込みに移る。そのとき扉の外で何かが割れる音がした。

「なんだ?」

 扉の向こうが騒がしい。人の叫び声が聞こえる。銃声も鳴ったような気がした。しかし悲鳴はおさまらない。どたばたと音が伝わり、天井から埃が舞い落ちてきた。

「誰か来たみたい」

 マイが人ごとのように言った。

「気にならない?」

 俺が問いかけると、マイは「少し」と頷いた。

「でもこっちが今は忙しいから」

 そしてまた絵筆に絵の具を溶かす。

 振り払われた筆は猫の毛並みをいくつも表した。

 描きたいときなのだろう。

 俺は再び、絵に没入した。

 できあがりつつある猫の絵は、確かに繊細で、綺麗で、品がある。猫というありふれた主題のなかで、新しい内容に挑戦しようとしている。

 指示を出すまでもない。

 マイの中ではきっと自分の絵はもうできている。

 絵から離れて一息ついて、マイが俺を見た。

「どう、今?」

「いいと思う」

「もっと具体的に言って」

「丁寧に描けているよ」

「もっと」

「ええっと……」

 言葉に詰まる。何を言うべきなのだろう。考え出すと、上手く言えない。

「竜水さんならどう描くの」

 そういって、マイは俺に絵筆を握らせた。

 細長い感触が蘇る。

「よいしょ」

 俺の後ろに回ったマイが、椅子の脚を掴んで持ち上げた。馴れないバランスにも馴れていくしかない。

 キャンバスのすぐそばまで連れてこられる。

 マイの手が俺の手に触れる。

「一緒にやって」

 背丈が同じくらいになって、マイの顔が目の前に来ている。

 絵筆を握った指先に力が籠もった。

「まずは、ね」

 と、解説をし始めたとたん、大きな音がした。

 埃が舞う。

 振り向けば扉が無くなっていた。

「ナユタ」

 と口にしたのと、ナユタが口を開くのは同じだった。

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